翼になった愁のかさぶた

 十年程杏寿郎君と過ごしてきたにも関わらず、昨日のような大きな言い合いをしたことはなかった。
 一夜明け、通夜の様な重苦しい雰囲気が淀む朝餉を二人で囲む。無言で朝食に手をつける杏寿郎君はとても綺麗な所作で黙々と食事を平げていく。二人きりの生活の喧嘩の後の気まずさを身をもって体験した。こんな新たな発見は出来ればしたくはなかったけれど。
 昨日のことを謝って自分の気持ちをもう一度伝えたい。昨日から何度も何度も同じことを思うけれども、杏寿郎君の太陽のような瞳が翳っているのを見ると告げることが躊躇われた。
 もう私のことを許してはくれないのではないか、嫌われてしまったのではないかと、取り止めもない考えが四方八方から心を刺していく。

「兄上!名前さん!千寿郎が参りました」

 乾いた空気に潤いが注ぎ込まれたような溌剌とした突然の訪問者の声に私達は思わず顔を見合わす。今日初めて杏寿郎君と目があったことに少しだけ安堵しつつ、箸を置いて慌てて声のする玄関へと急ぐ。神の助けとはこういうことを言うのだろうか。今の私と杏寿郎君にとって、第三者の訪問は何にも変えがたい僥倖だ。

「兄上、名前さん!ご無沙汰しております」

 千寿郎君が申し訳なさそうに玄関先で直立していたが、私達の顔を見ると安心したように口元を綻ばす。また少し大きくなった千寿郎君へ愛しい気持ちがこみ上げる。

「千寿郎!どうしたのだ、突然。…よもや父上に何かあったのか?」

「まさか、槇寿郎様に…」

「兄上、実はそのことで少しご相談があって参りました」

 千寿郎君の橙色に煌めく瞳が翳る。嫌な予感が胸を掠め全身に不安が広がっていく。
 千寿郎君を客間に通し、三人分の茶を入れ直した私は、久々の再会であるにも関わらず深刻そうな表情を浮かべる彼らに、ふくよかな玉露の香をはなつ湯呑みを差し出す。二人は律儀にお礼を述べるが、圧迫感に包まれた雰囲気が空気をぴりつかせている。

「して、千寿郎。父上がどうした?」

「はい。実は最近起き上がることも自力で出来ない程に伏せっております。医者に診ていただいた所、酒により内臓にかなりの負担がかかってしまっていたようです。薬を服用し、飲酒は絶対禁止との指示です。尤も、酒が飲める状態ではありませんが」

 千寿郎君の口から聞かされた残酷な現実に血の気が引いていく。まさか、あの槇寿郎様が。
 瑠火様がお亡くなりになってからはすっかり変わってしまわれたけれども、病に負けてしまうような人ではなかった。不器用で、とても強く優しい方。今私がここに在れるのも、煉獄家での奉公を許してくれていた槇寿郎さんのおかげだというのに。

「そうか、父上がそんなことに。…千寿郎、お前に煉獄家や父のことを任せきりにしてしまい、申し訳なかった」

 杏寿郎君もどうしたものかと考え込むように、自身の顎に手をあてる。鬼殺隊の柱として日々の任務に忙殺される彼が生家に帰る時間がないことは火を見るよりも明らかだ。柱であるということは、家族ですら犠牲にするということなのか。

「杏寿郎君、千寿郎君。許されるのであれば、私が暫く煉獄の生家に参ります。私に槇寿郎様の看病をさせていただけませんか?」

 私の突然の申し出に、瓜二つの二人の顔が同時にこちらに向けられる。4つの橙色の双眼は驚きと期待に揺れているように思えた。

「名前さん…。それは有り難い申し出だが、貴方にそこまで迷惑をかけるわけには」

「迷惑なわけがありません。私は煉獄家の皆様には返せないくらいの御恩があります。私のような者で少しでもお役にたてるのなら本望です」

 真摯な思いが通じたのだろうか。杏寿郎君は眉間に寄せた皺を和らげ、私にきっちりと向き直り背筋をぴんと伸ばして丁寧に頭を下げる。なんて綺麗な所作なのだろう。
 感心している場合ではないと、慌てて頭を上げて欲しいと伝える私に、千寿郎君も嬉しそうに感謝の気持ちを伝えてくれた。

 翌日、杏寿郎君のお屋敷で一泊した千寿郎君とともに煉獄家への道をいそぐ。杏寿郎君は今日から長期の任務に出ることになっており、先刻屋敷の前で別れたばかりだ。
 槇寿郎様の一件で有耶無耶になっていたが、一昨日の出来事を都合よく忘れられるわけもなく、杏寿郎君と私はどことなくぎこちないままだった。

「名前さん、今更ですが本当に良かったのですか?兄上となにかあったのでは」

 流石の洞察力と言うべきか、道中休憩にと立ち寄った甘味所の長椅子で松葉色のとろりとした抹茶を啜っていた私に、千寿郎君が不安そうに声をかけてくれる。

「ふふ。本当に千寿郎君に隠し事はできませんね」

「あんなに仲がよろしいお二人なのに。いったい何があったのですか」

 注文した餡蜜に手をつけることもせず、心配そうに私を見上げる千寿郎君の金糸を優しく撫でる。少し照れたように視線を漂わす彼の手元では、賽の目に切られた透明な寒天が陽光に反射してきらりと光る。

「大丈夫です。何も心配しないでください。…ただ、少し言い合いになってしまって。私が杏寿郎君を傷つけてしまったのです」

「そうでしたか。お二人が喧嘩なんて、珍しいですね。でも兄上は、名前さんの気持ちをきっと分かってくれます!ずっとお二人をそばで見てきました。こんなにお似合いのお二人はいないと思います」

 頬を紅潮させ、言葉に熱を込める千寿郎君に頬が緩む。なんて立派で優しい子なのだろう。間違いなく槇寿郎様と瑠火様の御子息であり、杏寿郎君のご兄弟だなと、煉獄家の偉大さを痛感する。私も落ち込んでばかりはいられない。二人のためにも、己の役目を全うしよう。

 病気に伏せる槇寿郎様を目にした私は、離れていた時間をずしりと感じた。杏寿郎君と共に煉獄家を出てからの月日は大したことはないのだけれど、息子達に当たり散らす気力があった頃でさえ妙な懐かしさを抱いてしまうほど、眼前でお眠りになる槇寿郎様の端正なお顔は苦痛に歪んでいる。

「数日前から意識もかなり朦朧としているようです。私一人では食事も上手く食べさせられないどころか、着替えさせることも出来なくて。…本当にお恥ずかしい話ですが、名前さんが来てくださりとても助かります」

「千寿郎君は本当にご立派です。私の方こそ少しでもお役に立てることがあれば何でも言ってくださいね。そうですね、まずはかなり汗をかかれているようなので、清拭と着替えをしてしまいましょう」

 「はいっ!!」

 赤ん坊とは違い大人を着替えさせることはただでさえ労力がいる。ましてや元柱でいらっしゃる槇寿郎様ともなれば、引退してから月日は経っていても、がっしりとした体格や数多のしなやかな筋肉が失われることはなく、お身体を清めて寝衣を取り替えるだけでも、こちら側の身体中から汗が噴き出してくるほど大変なことだ。成る程、これは千寿郎君一人では難しい。
 それでも、汗でべとべとになっていた浴衣を取り替えさっぱりされたのか、いくらかすっきりとした表情に戻った槇寿郎様は、規則正しい寝息を立て始めた。

 それからは毎日槇寿郎様のお傍で看病を続けた。久しぶりに千寿郎君と一緒に厨に立ち、粉薬を混ぜてするりと食べられるような内蔵に負担のかからない食事をあれこれと考えては、毎日せっせと槇寿郎様の体内に送り込んだ。
 その甲斐あってか、槇寿郎様の土気色のお顔は正気が戻ったように少しずつ血色が良くなっていった。往診してくれていたお医者様からも、危険な状態は脱したとお墨付きをいただいた。

 槇寿郎様がご自身で起き上がることが出来るまでに回復されたのは、煉獄家に来て一か月が経った頃のことだった。白湯で薬を喉に流し込む端正な横顔がつくづく杏寿郎君とそっくりなことに感心しつつも、同時に彼に逢いたい思いが募る。

「いつまでここにいる気だ。お前はもううちの女中じゃないだろう。家を空けすぎじゃないのか」

 槇寿郎様がぶっきらぼうに呟いて、空になった湯呑みを渡してくれる。私の一瞬の動揺を見逃さなかった槇寿郎様は、呆れたように何があったのだと目で問いかけてくる。流石お二人のお父上だ。とてもではないがその研ぎ澄まされた勘の鋭さにはかないそうもない。

「実は、お恥ずかしい話なのですが…その、杏寿郎君と少し気まずくなってしまいまして」

「どういうことだ」

「はい。…実はこちらにくる直前、その…任務で遊郭に行かれたというお話を耳にして。杏寿郎君を信じられずに、酷いことを言って傷つけてしまったのです。今になってみれば、どうしてあのようなことを口走ってしまったのかと思うのですが…」

 槇寿郎様は暫く無言で弱々しく眉尻を下げる私の顔を見つめていたが、つまらなそうに一つ溜息を溢すと私に背を向け布団に横になられてしまう。

「お前は小さい頃からあいつの何を見てきたんだ。あいつはそんな男じゃないだろう。そんなことも分からないようじゃ煉獄家の嫁は務まらん」

「っ…」

 槇寿郎様のぶっきらぼうな言葉の端々にどうしようもないほどの杏寿郎君への愛情を感じ、熱い気持ちが突き上げてくる。

「他でもない杏寿郎がお前がいいと言っているんだ。あいつがお前を選んだんだ。その気持ちを信じられなくてどうする」

 槇寿郎様の言葉一つ一つがぐさぐさと私の心に刺さっていくのに反して、煙のようなもやもやとした燻りは、不思議なことにすうっと浄化されていく。

「そんな辛気臭い顔でここにいられたら治るものも治らん。さっさとあいつの所へ帰れ!」

 槇寿郎様の大きな背中から太陽のように優しく温かい想いが伝わってきて、ぼろぼろと溢れ出した泪が零れ落ち畳の目に染み込んでいく。ぶっきらぼうな応援歌が、私の背中を押してくれる。
 頬に貼り付く泪を拭い額を畳に擦り付けるように頭を下げて心からのお礼を述べると、私は槇寿郎様の寝室を後にする。私の不安はすっかり消えてなくなっていた。

 「…俺達の息子もその嫁も揃いも揃って不器用だな。そう思わないか瑠火」

 心地よい陽光が射し込む陽だまりの中、槇寿郎様が苦笑しながら呟かれた言葉は風にのり、私が知らない場所へと運ばれていった。