囲いの中の宵を照らす

 宇髄の任務に同行する形で遊郭に足を運ぶことになった俺は、先刻の名前さんとのやり取りを思い返していた。
 着流しで任務に発つ俺に、彼女は聊か不思議そうな面様だった。任務であれば当然の如く隊服と羽織を身に纏うのであるから、彼女の反応も当然のことだろう。同じ柱である同僚に付き添って視察に行くと告げた俺に、彼女はいつもの様に不安そうな瞳を揺らして撫子色の唇を震わすものだから、吸い寄せられるようにその唇を軽く吸い、何も心配ないと屋敷を後にした。
 疚しい気持ちなどは一切持ち合わせていないのに、彼女が悲しむであろうことが容易に想像でき、俺はどうしても遊郭へ出向くことを彼女に告げることが出来なかった。
 遊郭・花街。俺は当然にその意味を知っていたが、自らが足を運ぶのは初めてのことだった。遊女達が芸を披露し、春を売る場所。正直な所自分には一生縁のない場所であるとさえ思っていた。
 赤黒い闇の中に、煌びやかな萱草色の魂が無数に浮いているかのような妖しくも絢爛な雰囲気は、世俗のもつ物悲しい印象からはかけ離れているようにも思えるが、塀や石垣で周囲をぐるりと囲まれたその空間は、愛憎や欲望が閉じ込められている場所なのだろう。この独特な空間を包むように聞こえてくる、男たちの卑下と傲慢が混じり合ったような笑い声や、滑らかな女の嬌声が耳に纏わりつく。
 任務といえど名前さんへの後ろめたさを感じながら、一刻も早くあの花の咲いたような温かな笑顔の元に帰りたい気持ちがむくむくと沸き上がってくる。

「宇髄、鬼の場所は特定出来ているのか」

「それがお手上げ状態だ。とりあえず虱潰しに見世を廻ってみてるんだが。…二人で同じ見世ってわけにもいかねえから、煉獄にも別の場所で視察を頼みたい」

「む。俺はこういった所の仕組みはよくわかっていないぞ」

「ただ座ってりゃあいいんだよ。金さえあれば、たとえ一見だろうと女の方から寄ってくるから。…それより、頼んだぞ」

 宇髄は尻込みする様子もなく、夜闇の無数の灯に吸い込まれるように消えていく。
 残された俺は燻り続けるもやもやとした感情を心の奥底に無理やりしまい込み、宇髄に説明されたように引手茶屋に足を向けた。

*

 何かの書で読んだことがある。遊郭というものが初会で肌を重ね合うことはなく、目当ての女性と一夜を共にするには、多くのお金と時間がかかるのだと。
 しかしどうだろう。今目の前にいる女性は、透き通り艶めく肌を、座敷に通された俺の腕に惜しみなく押し付けてくる。噎せ返るような香気が俺の鼻孔に纏わりつき、刹那名前さんの哀愁漂う瞳がよぎる。俺は思わずその身体を慎重に剥がしていくが、瞳に宿る力強さから遊女の闘気が伝わってくる。
 遊女達の身の上を思うと、同情にも似た感情が沸き上がってくる。ここで男たちに夢を売る女性達は、狭い囲いの中で己の運命と向き合い戦い続けている。
 この世界でのし上がるためには仲間を蹴落とすこともあるのだろう。好きでもない男に媚を売り、当たり前のように笑顔を張り付け甘美な時間へ誘っていく。遊女である前に一人の女性である彼女達が、本気で愛する男性と添い遂げることは奇跡に近いことなのだろう。
 偽善と言われればそれまでだ。世間知らずの若造の上から目線の物言いと揶揄されるかもしれない。それでも俺は、彼女達に感服するところがある。
 それと同時に、愛する人に思いを告げ一緒にいられる自分はどれほど幸せで、改めてその僥倖を痛感する。

「君と肌を重ねるつもりはないから安心してくれ。…それよりも、大分顔が疲れているぞ。隣の寝室でゆっくり休むといい。俺のことは気にするな」

 まるで千寿郎にでも言い聞かせるような物言いになってしまった。気を悪くしただろうかと彼女をみやると、雷に打たれたように呆気にとられた表情を浮かべていた。その数秒後、気の強そうな形のいい眉をさげ、闘気がすっかり萎んでしまった大きな瞳から、ぽろぽろと雨粒のような泪を零す。そのまま俺の胸に顔を押し付けられ泣かれてしまえばどうしたらいいのかと途方にくれる。
 子供をあやすように頭を撫でてやることも出来るが、それでは名前さんもいい気分はしないだろう。先日の件もある。逆の立場であったとしたら自分は間違いなく嫉妬してしまうことは火を見るより明らかだ。
 仄明るい月光にあてられ銀色に反射する泪を頬に貼りつけたまま小さく肩を震わす彼女の背中を、励ますように軽く叩くことにとどめる。

「すまない。何かおかしなことを言ってしまったか?」

「…何故こんな所までわざわざ足を運ばれたのに、何もされないのですか」

 俺の胸から顔を上げた遊女は、はらはらと溢れる泪を拭い濡れた瞳でこちらをみる。

「詳しくは言えないが、それが目的ではないからだ。君が魅力的でないというわけでも勿論ない。どうかあまり気にしてくれるな」

「…お優しいのですね。貴方様のような方と一緒になれるお人が羨ましい」

 目の前の遊女は寂しさを孕んだ消え入りそうな声で呟くと、驚く程の早さで俺の口元に唐紅の唇を近づける。すんでのところで接吻をかわした俺は、慌てて彼女の肩を掴んで引き剥がす。

「悪いが、俺には心に決めた人がいる。こういうことは、その人としかしたくない」

「……それならば、中途半端に優しくしないでください。そのような態度は、女性にいらぬ期待を抱かせますよ」

 愁いを湛えた彼女の瞳が切なそうに揺らめき、俺ははっと気づかされたような気持ちになる。
 眼前の彼女は元より、もしかすると俺は無意識のうちに人を傷つけていたのかもしれない。甘露寺や宇髄に口酸っぱく言われるのはこういう所なのだろうか。そんな気持ちは毛頭なくとも、名前さんに余計な不安を与えてしまっていたのかもしれない。
 そして、今も名前さんは、俺の無事を思って不安に怯えているのだろうか。それを思うと、名前さんが愛しくて愛しく溜まらなくなる。「すまない」と呟いた後に「ありがとう」と笑んだ俺に、眼前の遊女は呆れたように形の良い唇を綻ばせた。君の人生が納得いくものであるよう、俺も祈ろう。
 淡藤色におぼめく朝の光線が丸くくり抜かれた格子窓から差し込んでくる。気が付けば夜明けはすぐそこまできていた。どうやらこの見世に鬼の気配はなく、視察の成果は得られそうにない。
 宇髄には申し訳ないことをしたが、一刻も早く彼と合流し名前さんの待つ我が家へ帰ろう。