花を抱くには鋭すぎる刃物
眼前で小さな寝息をたてて眠る彼女の額に張り付いてしまった髪をよけてやりながら、少し無理をさせすぎてしまったと心苦しくなる。鬼殺隊の隊士でもなければ、鍛錬をしているわけでもない名前さんの体力は俺の爪の先ほどもないだろう。
歯止めが効かずに夢中で彼女の唇を堪能してしまった自分にも問題があるが、あれで意識を失われてしまっては、もし彼女をこの手に抱いてしまったらいとも簡単に壊れてしまうのではないかと不安に駆られる。
名前さんと想いが通じ合ってから、俺の我儘を受け入れてもらう形で一緒に暮らすようになった。晴れて恋仲になれた俺は、存外浮かれていたように思う。
それなのに、一つ手に入れたらもっと彼女が欲しくなり、己の不埒な気持ちは日に日に大きさを増していた。
名前さんにもっと触れたくて、触れて欲しくて、彼女が想像も出来ないような艶めいた情景を脳内で何度も空想しては、その度に突き上げてくる猛々しい燃えるような熱情を燻らせていた。
――杏寿郎君になら、何をされてもいいです
先程の彼女の台詞を思い出し、再び自分の男が鎌首をもたげる。あんな言葉を言わせてしまう程、俺は名前さんを追い詰めてしまっていたのだろうか。
本当に俺は、名前さん以外の異性に関しては性という部分の感情が突き動かされないらしい。だからこそ、息をするような感覚で毒を吸い出すこともできれば、手取り足取り剣技の指南もできる。しかしそれは彼女を結果的に苦しめていた。申し訳なさで胸が痛むと同時に、己が理由で嫉妬する彼女を見ることが出来るという優越感が心を満たしていく。
こんなに卑しい自分は、名前さんだけでなく亡くなった母上もがっかりされてしまうだろう。自嘲するような笑みを浮かべて、俺は彼女の額にそっと口を付けた。
*
一度名前さんに触れてしまってからというもの、己の中に滾る熱をどうしても抑え込むことが出来ず、任務のない日中は殆どの時間を無心で剣を振るうことに集中していた。
「おぉおぉ、煉獄。気合い入ってんな」
「ん、宇髄か」
耳によく知った同僚の声が入ってくる。同じ柱の位に就いている宇髄は、俺の隣までくると悪戯っぽく好奇心に溢れた目でこちらをみる。着流しの所を見ると、本日は非番なのだろう。
「聞いたぜ。煉獄家の坊ちゃんも、ついに身を固めるんだってな。女隊士達が泣いてたぜ、可哀想に。煉獄は本当に天然ジゴロだからな」
「む、同じことを甘露寺にも言われてしまったな。俺はそんなに異性の気を惹く様な言動をとってしまっているのだろうか」
「無自覚なのが怖ぇよ。そんで、その渦中の婚約者ってのはどこの良家のお嬢様なんだ?」
「ん、あぁ。名前さんのことか。彼女は、俺が幼い頃から煉獄家に奉公してくれていた。俺や弟にとっては母親代わりで姉の様な人だった」
「成る程、年上か。煉獄も隅に置けねえな」
「…いや、俺は彼女を泣かせてしまってばかりだ。…正直に言うと、最近は自分の欲望を制御できなくて困っている。不甲斐ないことに雑念ばかりが散らつく。このままでは彼女を壊してしまうのではないかと、時々怖くなる」
宇髄は妻帯者だったはずだ。
愛する人と生活を共にすることは、限りない幸福感で満たされると同時に、本能や欲求とうまく付き合っていかなければならない。
思わず溢れた本音に宇髄を見ると、彼は心底呆れたように溜息をつく。
「煉獄よぉ、お前どこまでくそ真面目なんだ?もう好き同士なんだろ?だったら何も遠慮することねえだろ」
「しかし…」
「相手も待ってるかもしんねえだろ。女からは誘いにくいもんだぜ」
「そういうものだろうか」
「嫁が三人居る俺が言ってんだぜ。間違いねえよ」
宇髄は僅かに鼻孔を広げて、恐れ入ったかという顔でこちらを見下ろす。隠すこともしない得意顔をみていると、不思議と彼の言葉がすとんと胸中に着地する。ありがとうと口元に微笑を浮かべた俺の背中をばしりと叩き、宇髄は頑張れよと豪快に笑った。
*
夕陽の名残が姿を消し黒い世界がゆっくりと広がっていく薄闇の中、俺は屋敷の上り框から立ち上がると羽織を翻す。
今夜は柱の担当地区の巡回であり危険を伴う可能性は少ないことを繰り返し彼女に伝えたにも関わらず、不安そうに濡れた瞳で自分を見つめる名前さんの肩を抱き寄せる。
「そんなに不安そうな顔をしないでください。任務に発つのが辛くなってしまう」
「ごめんなさい。でも杏寿郎君のことがどうしても心配で…。貴方がいなくなってしまったら、私は」
「ふっ、俺は本当に幸せ者だな。…それより名前さん。体調はもう大丈夫なのか?」
己の身を案じてくれている名前さんをよそに不謹慎にも込み上げてくる悪戯心で彼女の顔を覗き込む。俺の言葉に顔を朱色に染めて虚をつかれたように狼狽する姿がなんとも愛しかった。
「体調」、というのは先日この玄関先で行われたあの一件に絡んでのことだ。
結局あの後、名前さんは数日寝込むことになってしまった。医学に精通している胡蝶に診察をしてもらった所、睡眠不足からくる疲労と月のものからきた貧血が、どうやら俺の行為で追い討ちをかけてしまったらしい。
煉獄さん、お熱いのはいいことですけど、彼女の身体を労ってあげてくださいね。煉獄さんは元より、鬼殺隊の隊士達とは身体の作りがまるで違うのですから。
胡蝶は些か勘違いをしていたようだが、同僚からそんなことを言われてしまうと決まりが悪く、自責の念も相俟って体中が燃えているように居た堪れなくなった。それ以上に名前さんが、紅葉した楓の葉のように真っ赤に頬を染め上げて、死にたいくらい恥ずかしいと可愛らしい声で何度も呟くものだから、欲にまみれた焦燥がさらに駆り立てられるように己の中で蠢いた。
こんな状況でも、理性よりも情慾がまろびでる俺の限界は、きっともうとっくに超えてしまっているのだろう。
「先日は、本当にお見苦しい姿を見せてしまって」
「いや。俺の方こそ無理をさせてしまい申し訳ありません。…だが、欲を言わせてもらうと、あれくらいで音を上げられては困ってしまう。…俺は、名前さんが考えているよりずっと如何わしいことを、貴方としたいと思っている」
猛火にかけられた鍋が沸騰したように顔に熱を集める名前さんの髪をひとなでし耳元で囁くように呟けば、彼女の全身の筋肉が一斉に緊張するように甘く強張る。
恥ずかしそうに噛み締められ彼女の薄桃色の唇が俺を誘惑するようにその色を濃くしていく。
滾る情慾を抑え込み、着物の衿から覗く頸に唇を寄せじゅるりと吸い上げると、名前さんの口元から可愛らしい声が溢れおちる。
これ以上は本当に任務に支障が出てしまいそうだ。物足りなさで掻き乱されそうになる心を踏みつぶし、潤んだ彼女の眦に己の体温を贈るように口付ける。執拗な甘さを感じさせる蜂蜜のような雫が俺の全身にとけるように広がっていった。
古来は、着物を贈ることにはこんな想いが込められていたらしい。
「貴方が纏う、その着物を脱がせたい」
俺にこんな卑しい気持ちがあることなど、貴方は疑う余地もないのだろう。