愛に満ちたはじまりの日

 ※モブ男女でてきます。

 杏寿郎君が、同じ鬼殺隊の少女を連れ帰ってきたのは、杏寿郎君が構えたお屋敷で二人きりで暮らし始めて少し経ったある晩のことである。
 任務から無事に帰還した彼の腕に横抱きに抱えられていたその少女は、月光のように酷く青白い顔でぐったりとしている。身体には、杏寿郎君の羽織がかけられていたが、隊服のスカートから覗く細い脚からは少量であるが出血もしているようである。彼が施したのだろうか、応急処置で止血されていた。

「ど、どうされたのですか。この方は」

「名前さん、驚かせてすみません。今日の任務はこの者と一緒だったのですが、少し無理をさせてしまったようです。胡蝶の屋敷に寄りましたが、重症の怪我人で寝台が埋まってしまっていて。幸い、傷は軽いので連れ帰って参りました。悪いが、世話を頼めるだろうか」

「勿論です。客間へ運んでいただけますか」

「あぁ、悪いな、名前さん。」

「杏寿郎君も血が」

 少女を抱えたまま上がり框で履き物を脱ぐ彼の口元に僅かに血液が付着しているのを見て直ぐに手当をしなければと慌てたが、杏寿郎君は私を安心させるよういつもの暖かな笑みを口元に浮かべる。

「心配ない。これはこの少女の血です。少し厄介な毒を使う鬼で、彼女が脚に一太刀受けてしまって、毒を吸い出しました」

「そう、ですか」

 心に棘を刺されたような堪らない嫉妬心がむくむくと湧き上がる。分かっている。杏寿郎君が仲間を助けるためにしたことであって他意はないことを。それでも、自分よりもずっと若く可愛らしい少女の脚に、彼の唇が吸い付いたのかと思うとずきりと胸が痛んだ。
 杏寿郎君は強く、真っ直ぐで、誰にでも分け隔てなく優しい。それが彼の良い所であると分かっていながら、きっと私と同じように彼に好意を抱く女性も少なくないだろう。他の人には優しくしないで欲しい。自分だけにその真っ直ぐな瞳を向けて欲しい。いつの間に私はこんなに強欲な人間になってしまったのだろう。
 こんな自分が心底嫌で、溶けてなくなってしまいたかった。
 客間に布団を敷き、少女をそっと横たえると杏寿郎君は湯浴みをしてくると部屋を後にした。残された私は洗面器にお湯をはり、救急箱を用意する。
 なんて細い身体なのだろう。今にも折れてしまいそうだ。こんなにか細い針金のような手で剣を振るい鬼と戦っている眼前の彼女を想像すると、自分はなんとちっぽけな人間なのだろうと痛感させられる。安全な場所でぬくぬくと暮らす私は心底杏寿郎君とは釣り合わない。
 本来であれば、柱の位に就く杏寿郎君と自分は一緒になってはいけないのではないかと、仄暗い虚無感が私の胸の中に影を落としていく。
 汚れた身体を湯で絞った手拭いで清めていき、傷口に慎重に包帯を巻いてゆく。杏寿郎君がつけたであろう赤紫色なってしまった噛み痕に、どうしようもない妬ましい気持ちが湧き上がってくる。
 考えれば考えるほど深みにはまっていく思考と灰色の感情を燻らせながら、私は仕上げのように少女に巻いた包帯の先を二つに割いて、ゆっくりと結び目を作った。

*

 一晩休むと彼女はすっかり生気を取り戻し、まだ休んでいた方が良いという杏寿郎君の助言を聞くこともなく、支度を整えて彼に稽古をせがんでいた。
 流石鬼殺隊の隊士というべきなのか。あんなに細く繊細な身体でも、私のような一般人とは鍛え方が違うのだろう。
 真珠麿のような白く柔らかそうな肌には頬紅のような赤みがさし、花が咲いたような笑顔はとても愛らしい。彼女が杏寿郎君に向ける眼差しは、私のそれと一緒なのだ。
 面倒見のいい兄貴肌の杏寿郎君らしく、仕方ないなと肩を竦めるも、少女と二人で庭先に出て稽古用の木刀を手にすると熱心に指南を始める。
 分かっている。分かっているのに。誠実で真っ直ぐな彼に浮ついた心などないことを。それでも、少女の木刀を持つ白い手や細い肩に触れながら熱心に稽古をつけている彼を見ることは、心臓を土足で踏み潰されているような苦しさがあった。

「ごめんください」

 可愛らしい声が、柔らかく吹いた風に運ばれ私の鼓膜を震わす。恐らく玄関先から聞こえたであろうこの声は蜜璃さんだ。
 二人の姿をこれ以上眺めているのは忍びなく、来客に気がつき玄関の方を見やる杏寿郎君に大丈夫ですとコクリと頷くと、私は広いお屋敷内を足速に移動する。玄関先では溢れるような笑顔を浮かべる蜜璃さんに近づいて、屋敷へ上がるように促そうとした所、鬼殺隊の隊服に身を包んだ青年が端正な顔をほんのり耳まで赤らめ緊張した様子で、彼女の隣で直立していることに気がつく。

「名前さん、突然お邪魔してしまってごめんなさい」

「私も蜜璃さんに会いたかったので、訪ねて来てくれて嬉しいです。お忙しいでしょうに。…それよりも、そちらの男性は」

「…それが、実はこの方なんですけど。どうしても名前さんに会いたいとお話されてて」

「私?杏寿郎君ではなくてですか?」

「じ、自分は、胡蝶様のお屋敷で貴方に松葉杖を拾ってもらった者です。その、…貴方のその時の笑顔がずっと忘れられなくて」

 突然の彼の告白に私は酷く間抜けな顔をしていたかもしれない。胡蝶様のお屋敷? 松葉杖? 杏寿郎君を見舞った際に、確かにそんなことをした記憶もあった。だが、脚を怪我しているのに松葉杖を落としてしまい廊下に座り込んでしまっていた彼に肩を貸したという、だそれだけのことだったように思う。
 どうしたらいいのだろうと困惑したまま蜜璃さんに視線を移動させると、彼女もまた困ったように眉尻を下げ、申し訳なさそうに両掌を顔の前で合わせている。

「またお会いしたかったのですが、胡蝶様のお屋敷で二度と見かけることはなく、幻だったのだと諦めました。ですが、先日街で甘露寺様と歩かれている貴方をお見かけし、運命だと思いました。…あのっ、この屋敷で、女中として働かれているという噂を耳にしました。その、自分、…自分で良ければどうか添い遂げてはいただけないでしょうか。俺も隊士です。貴方一人を養うことくらいできます」

 運命? 添い遂げる? 様々な情報が脳内で錯綜し、揶揄われているのではないかと困り果てていると、青年の大きな骨張った手が私の両手を勢いよく包む。しっとり汗ばんだその掌から彼の緊張が伝わってきて、真剣に想いを伝えてくれているのだと分かり、見に余る扱いを受けてしまったような後ろめたさで包まれる。
 どうすれば誤解を解けるだろう、彼を傷つけなくて済むだろうかとおろおろしていた私の鼓膜を艶気を含んだ低い声が震わせてゆき、肩を思い切り後ろにひかれる。ぽすりと私の背中が着地したそこは、大好きな大きく暖かな胸の中だった。

「俺の妻となる人に何か用だろうか?それと勘違いをしているようだが、名前さんは女中ではないぞ」

「…炎柱…様」

 杏寿郎君が珍しく怒気を含んだ声で挑発的な眼差しを青年に向けている。可哀想なことに、青年は頭から氷水をかけられたように顔面を蒼白させ身体を強張らせている。
 私の肩を抱き止める杏寿郎君の腕にいつもの数倍力が込められており、甘く鈍い痛みが私の身体に刻まれていく。

「甘露寺、この青年は君の弟子か?」

「はい…。弟子というか、恋バナ仲間というか…」

蜜璃さんは困りきった表情で、珍しくいらいらした様子の杏寿郎君の顔色を不安そうに伺っている。

「いずれにせよ、そういうことだ!名前さんは諦めてもらってくれ」

「勿論分かってます!私もちゃんと説明したんです。でも、信じて貰えなくて。それに、突然プロポーズするなんて思いませんでしたし」

「なかなか名前さんを隊士の皆に紹介する機会がなかったからな。どこかで情報が縺れてしまったのだろう。…悪いがあの少女も一緒に連れ帰って貰えるだろうか。素質がある。太刀筋を見る限り俺よりも甘露寺の元で修行を積めばさらに剣技も磨かれるだろう」

 杏寿郎君の視線の先を見ると、死刑宣告をされたかのような悲痛な曇りを帯びた少女の面様が目に留まる。
 そんな彼女に同情してしまう私は、なんて卑しい人間なのだろう。本命の余裕などないはずなのに、背中越しに伝わってくる杏寿郎君の心地よい体温が、燃えるような充実感で私の心を満たしてくれる。

「わ、分かりました!ほら、二人とも帰りますよ。えへへ、お邪魔しました〜」

 蜜璃さんが、本当に申し訳なさそうに眉尻を下げ目礼すると、二人の手をぐいぐいと引っ張り杏寿郎君のお屋敷を後にする。
 嵐の様な一こまが過ぎ去り、安堵と混じった疲労感がじわじわと身体中に広がっていく。
 昨夜から予想外の事態続きで、一晩中うねる大波に揉まれていたような心身の疲労を極度に感じた。
 後ろで背中を支えてくれる杏寿郎君を上目遣いで見上げると、彼の温かな唇が私の頬に落とされる。そのままくるりと向きを変えられ、彼の艶めいた瞳と視線がかちあう。気を抜けば魂を吸い取られてしまいそうな扇情的な面様に私は思わず喉を鳴らす。

「情けない姿を見せてすまない。…だが、嫉妬で狂ってしまいそうになる。名前さんが他の男に触れられるのが耐えられない」

「っ、私も杏寿郎君に他の女性に触れて欲しくはありません!昨日から、本当は凄く苦しかったです。いくら負傷者を助けるためとはいえ、私以外の人に貴方の唇を触れさせたくなかった。今日も、あんなに女性隊士の方のお傍に寄り添って、稽古をつけられていて。私も、杏寿郎君に触れて欲しいのに。貴方に卑しい気持ちがないことは分かっているのにっ、変なことばかり考えてしまう。貴方に相応しいのは自分のような人間ではないと考えてしまう。こんな自分が嫌で嫌でしょうがないのに」

 ぽろぽろと泪が零れ、しゃくりあげの声を漏らしてしまう。彼の前では本当に泣いてばかりだ。勢いでとんでもなくはしたないことも叫んでしまった。ぐしゃぐしゃになった顔はきっと呆れるほど不細工だろう。いよいよ愛想を尽かされてしまうのではないかという不安すら過ぎる。
 杏寿郎君は、顔を覆う私の手を自身の大きな手で優しく外し、そのまま食べるように眦から伝う泪をべろりと舐めとると、申し訳なさそうに目尻を下げる。

「すまない。名前さんにそんな思いをさせていたとは、不甲斐ない。だが、信じて欲しい。言い訳のように聞こえてしまうかもしれないが、俺が触れたいと思うのも、口に出すのも憚れる程不純なことをしたいと考えてしまうのも、名前さんだけだ」

「それでは、…触れて、くださるのですか」

「…名前さん、それ以上煽らないでくれ。本当に止まらなくなってしまうぞ」

「杏寿郎君になら、何をされてもいいです」

「っ…」

 強い情炎を揺らめかす杏寿郎君の瞳が苦しそうに歪められ、泪で濡れてしまった私の唇を奪うように彼の暖かな唇が押し付けられた。直ぐに離れたかと思うと、矢継ぎ早に口付けの雨を降らせるように、何度も角度を変えて私の唇に吸い付いてくる。
 心臓が限界を迎えてしまうのではないかと思うほどの鼓動が早鐘となって胸を撃ち続け、肺がぺちゃんこに萎んでしまったように息苦しい。自分のものでないような、切なく弱々しい声が漏れてしまう。
 苦しさも相俟って、相変わらずじわじわと止まらない私の泪を杏寿郎君の指が優しく掬ってくれるが、その大きな掌をそのまま私の後頭部に回し頭ごと固定される。余裕がなさそうな艶めいた声で、鼻から息をするよう告げられると、息苦しさから漏れた私の溜息を見逃さず、杏寿郎君の舌がぬるりと私の口内に侵入する。彼の生暖かい粘膜が、私の中で丁寧に優しく体温を絡め取っていく。
 なんて、淫りがましい行為なのだろう。それなのに身体の底の方からじりじりと興奮が迫ってくる。力が入らず今にも膝から崩れ落ちてしまいそうである。
 頭がぼーっとし、杏寿郎君の姿形がぼんやりと歪んでいく。欲を掻き立てるような、彼の雄々しい瞳と視線があえば、それに吸い込まれるようにうっすらと意識が霞んでいき、眼前に黒幕がおりるように意識を手放した。