episode5


望みなき愛


 救護室のベッドに横たわる城ヶ崎さんを、私は煉獄さんと肩を並べて見下ろしていた。真っ青だった顔にはいくらか血の気が戻っており、呼吸もすっかり落ち着いている。生憎救護室に医師は不在だったが、少し休息をとれば問題なさそうだ。
「迷惑かけちゃってごめんなさい」
 城ヶ崎さんが申し訳なさそうに私達を見る。煉獄さんがベッドサイドのパイプ椅子を勧めてくれたので、彼に倣って腰をかけ、私は小さく首を振る。
「そんなこと気にしないで。大事に至らなそうで良かった。ね、煉獄さん」
「…ああ、そうだな。昨日は、ちゃんと睡眠をとったのか?」
 煉獄さんはどんな気持ちで城ヶ崎さんを見つめているのだろう。どうしても気になり、煉獄さんに話を振ってその表情を盗み見る。いつもは迷いのない彼の真っ直ぐな瞳が、様々な感情の波に揺れているような気がした。
「うん。実はあんまり眠れなくて。自己管理出来ないなんて、社会人として失格だよね」
「疲れがでたんだ。君は昔から頑張りすぎるところがあるかなら」
「杏寿郎…」
 城ヶ崎さんが愛しそうに煉獄さんを見つめている。本当に好きなんだ。彼女の年季の入った煉獄さんへの想いがびりびりと伝わってくる。
「とにかく、今日はもう休んで帰るといい。俺が部長に伝えておく。仕事のことは気にするな」
「ありがとう、杏寿郎。でも、横になったら大分楽になったし、午後には戻るよ。…名字さんも本当にありがとう」
 安心したように笑った城ヶ崎さんに、お大事にの一言を告げて私は煉獄さんと救護室を後にした。運動のために階段を使いましょうと提案した私に快諾してくれた煉獄さんと、部署のフロアまで続く階段をゆっくりと昇る。世の中でも会社でも健康が声高に叫ばれているにも関わらず、このオフィスで階段を使っている人間は殆どいない。辺りの音を全て持ち去られたような静かな空間に、私達の足音だけが響く。
「煉獄さんが仰っていた二年前に別れた彼女さんて、城ヶ崎さんのことですよね」
 階段を二階分昇った所で私は重たい口を開く。静寂を切り裂くように自分の声がこだまする。
「…相変わらず、名字は妙なところで鋭いな」
 煉獄さんは脚を止め、小さく息を吐いて苦笑する。
「私じゃなくても分かりますよ。…煉獄さんは職場では城ヶ崎って呼ぶのに、プライベートではえりかって呼ぶし。城ヶ崎さんだって、煉獄さんのこと下の名前で呼んでたし。勿論それだけじゃないですけど…二人の雰囲気を見てたら特別な関係なんだろうなって誰が見ても思いますよ」
 最後は少しだけ茶化すように笑って見せた。こうでもしないと、今にも涙が溢れ出してきそうだった。
「特別な関係…か。確かにそうかもしれないな。だが――」
 煉獄さんがぽつりと溢した言葉は、突如鳴り響いた社内携帯の着信音で続かなかった。私に悪いと呟いて電話を取った煉獄さんは、要件を聞くやいなや通話口で指示を出し直ぐに向かうと告げていた。こういう判断が早い所も流石だなと感心するも、先ほどの言葉の続きを聞くことは出来なさそうな状況に落胆する。煉獄さんは何を言おうとしたのだろうか。
「すまないが直ぐに出なければならなくなった。俺は先に戻るが、名字はゆっくり昇ってこい」
 煉獄さんが階段を駆け上がっていく。彼は運動神経も抜群に良いと聞いたことがあるし、本当に非の打ちどころがない。
 しんとした静寂の中にぽつんと取り残されてしまった私は、午前中だけで一週間分働いたような疲労感を感じていた。心の疲労だ。煉獄さんと城ヶ崎さんのことを考えると、どうしようもなく胸が苦しくなって心が摩耗していく。
 煉獄さんと一緒の時よりも何倍も長く感じた階段をやっとの思いで昇りきると、私はフロアの端に設置された自販機スペースへ向かう。とにかく熱いコーヒーでも飲んで頭をすっきりさせなければ、この後の仕事に支障を来してしまいそうだ。
「あ、名字さん!!昨日はお疲れ様でした」
 自販機フロアに入ってぎょっとする。腕組をして自販機のラインナップに視線を走らせていた竈門くんが、私に気づいて声をかけてきたからだ。昨日のことなど何もなかったかのように、いつも通りの眩しい笑顔を振りまく彼に私は心底申し訳ない気持ちになった。
「竈門くん、昨日は本当にごめんね。手、痛くなかった」
 私は昨日思わず振り払ってしまった竈門くんの手をちらりとみる。
「全然気にしてないですし、痛くも痒くもないですよ。それより俺は、名字さんが心配です。今日も朝から元気ないですよね。今も…なんだか辛そうに見えます」
 竈門くんの気遣わしげな視線が注がれる。こんな風に優しく心配されてしまうと、胸の内の様々な感情が熱いものとなって込み上げてくる。涙で瞼が膨らんでいくのが分かるが、零れないようにと必死に唇を噛み締める。
「ごめん。本当に大丈夫だから、気にしないでね」
 一度ならず二度までも、泣いている姿を後輩に見られるというのはあまり格好がつくものではない。私は踵を返して竈門くんのもとを立ち去ろうとするが、その作戦は本日失敗に終わる。
「今日は逃がしませんよ。…俺でよければ話、聞かせてください。美味しいお酒でも飲みながら」
 自動販売機に手を付いて私を易々ととおせんぼした竈門くんは、こちらを見下ろしなが柔らかく微笑んだ。

「それで、何があったんですか?」
 食事を注文するなり、彼は単刀直入に言った。
「随分唐突だなぁ。まずは乾杯しようよ」
 私は苦笑しながら、すみませんと慌てる竈門くんとグラスを合わせた。竈門くんが連れてきてくれたのは、駅に程近い各国のクラフトビールを楽しめると評判の店だった。ひょっとして、私が配属時の自己紹介でクラフトビールをこよなく愛していると言ったことを覚えていたのだろうか。
「んんっ!美味しい!!」
 チェリーの香りがたっぷりと漂うベルギービールを一気に煽り、私は感嘆の声を漏らす。
 透き通った鮮やかなルビー色をしたこの酒は、甘味が主体でアルコール度数も低いため女性達に人気があるのだ。かくいう私も大好きなお酒の一つであるが、その美味しさゆえ飲みすぎて失敗したことが何度かあるので、今日は気を付けようと肝に銘じる。
 あっという間にグラスを半分空にした所で、食事が次々と運ばれてくる。ソーセージにパンチェッタ、カプレーゼにカルパッチョ。どれも食指を動かすメニューばかりで、お酒も一層すすんでしまう。仕事のことからプライベートのことまで散々二人で話尽くした頃には、程よく酔いが回っていた。
「そういえば、今日城ヶ崎さん会社で倒れたって聞いたけど、大丈夫だったんですか?俺、丁度その時オフィスに居なくて。午後は普通に働いてましたよね」
 私があえて触れずにいた話題を竈門くんが口にして、心臓が跳ねたようにどきりとする。
「う、うん、大丈夫だったよ。煉獄さんがね、救護室まですぐに運んでくれたから」
「煉獄さんが」
「そうそう。あ、二人って恋人同士だったんでしょ?村田くんが教えてくれたんだけど、竈門くんも知ってたの?凄いお似合いの二人だよね。でも付き合ってるの隠してたって、なんでだろうね。やっぱり職場恋愛とかって別れたら気まずいからなのかな」
 動揺を悟られないようにと早口で捲し立てた結果、余計に白々しい感じになってしまったかもしれない。恐る恐る竈門くんを見れば、彼は眉尻を下げ大きな瞳に哀愁を漂わせて私のことを見つめていた。
「……名字さん。煉獄さんのこと、お好きなんですね」
「な、なんで?どうしてそうなるの」
 ここまでの私の言動で、どうやって竈門くんが正解にたどり着いたのかは理解出来なかったが、図星を突かれた私は狼狽の色を隠せない。
「すみません。実は俺も見てたんです。昨日の夜、あの店で起きたこと」
 竈門くんが言い辛そうに肩を竦める。それが、昨日の煉獄さんと城ヶ崎さんのやり取りを指していることは間違いなかった。
 なるほど。あの二人のやり取りを見た直後に動揺して泣いた私を見れば、勘のいい竈門くんでなくても、私の気持ちに気づいてしまっただろう。
「…ねぇ竈門くんは、大好きだった人が突然戻ってきて、自分のことを好きって言ってくれたら、どんな気持ちになる」
「煉獄さんの気持ちは分からないけど…俺は今の自分の気持ちを大事にするかな。過去に縛られてても、前にはすすめませんから」 
「じゃあ、自分よりもずっと素敵ないい子が恋敵だったら?そしたら竈門くんはどうする?」
「う〜ん、俺は全力で相手と勝負すると思います。何もしないで身を引いたら、一生後悔する気がするんです」
 煉獄さんへの気持ちが筒抜けだったことは一旦横に置いて質問を重ねる私に、竈門くんの迷いのない言葉達が肺腑を衝く。どんな人生を歩んできたら20歳そこらの子がこんな台詞を口に出来るのだろうか。
「竈門くんは凄いなぁ。どっちが先輩か分からないねこれじゃ」
 私は小さく胸に溜まった息を吐き出し、竈門くんの曇りのない瞳を真っ直ぐと見つめ返す。
「よく考えたら、私、まだ何も頑張ってなかった。…うん、もう少し煉獄さんに意識してもらえるように努力してみる…少し怖いけどね」
 決意を固めて大きく頷き、グラスに残ったすっかり温くなったビールを飲みほした。そんな私の様子を見て、安心したような笑みを浮かべた竈門くんがおかしなことを口にする。
「名字さん、俺の話も聞いて欲しいんですけど」
「うん、勿論!もしかして恋のお悩み?」
「俺のことをペットみたいに思ってて好きな人がいる女性に振り向いてもらうには、どうしたらいいと思います?」
 竈門くんが悪戯っ子のような無邪気な笑みをこぼした。