episode3


気づかないふり


 「この度、ヨーロッパ支社から日本に戻ってきました城ヶ崎えりかです。今日からまた宜しくお願いします」
 われるような拍手が起こった自己紹介だけでも、城ヶ崎さんの人気ぷりが伺えた。村田くんは何故か泣きそうになりながら彼女に拍手を送っていたし、城ヶ崎さんの異動を心待ちにしていた様子の竈門君も嬉しそうに顔を綻ばせている。
 あの夜から二週間が経ち、城ヶ崎さんはうちの部署に配属された。彼女は約二年間、ヨーロッパ支社での任期を勤め上げ、古巣のこの部署に戻ってきたのだと部長が紹介してくれた。きっと彼女が、この部署を引っ張っていく期待の星になることは想像に難くない。
 海外戻りのエリートの肩書きを引っ提げているにも関わらず、それを鼻にかけないさばさばとした態度も城ヶ崎さんの人気を押し上げている気がした。
「名字さん、この間は突然ごめんね。この部署での同期は村田くんだけだったから、女の子の同期がいるの嬉しいよ!これからも末永く仲良くしてね」
 デスクに戻り週末の間にたっぷりと溜まってしまったメールに目を走らせていると、ピシッとしたスーツに身を包んだ城ヶ崎さんが私に声をかけてくれる。身体の線が強調される作りのスーツを着こなす彼女のほっそりとした体型にちょこんと乗せられている小さな顔が、人懐っこい笑みを湛えて私を見つめていた。
「私の方こそ仲良くしていただけると嬉しいです」
「もー、同期なんだし敬語、やめようよ!」
「でもっ」
「徐々に慣れてくれればいいから、ね」
「じゃあ…うん。努力してみる」
 終始フランクな感じの城ヶ崎さんは、やはり海外で過ごした影響を多分に受けているのかもしれない。部長に呼ばれてまたねと手を振った彼女の背中を暫く見つめていると、村田君に声をかけられる。
「名字、今日の城ヶ崎の歓迎会の件なんだけど、店に最終人数の連絡してくれないか。あ、これリストな」
「うん、了解。お昼休みに連絡しておくね」
「結局、煉獄さんは参加出来んのか?」
 出席者リストを手渡してくれた村田くんが空っぽの煉獄さんの席をちらりとみる。
「うん。歓迎会には間に合うように戻ってくるって言ってたけど」
「今日まで海外出張だっけ?煉獄さんも異例の若さで出世コース乗ってるからなー忙しいだろ」
 村田くんの言う通り、煉獄さんは一週間前からシンガポール支社に出張中だ。様々な語学に精通する彼は上層部きってのお気に入りであり、海外での大切な商談に駆り出されることもよくあるのだと、部署の誰かが話していたのを耳にした。そんな忙しい彼に指南を仰ぐことが出来る私は、実はかなり幸運なのかもしれない。
「やっぱり城ヶ崎の歓迎会だから、急いで帰ってくんのかな」
 煉獄さんは何時の飛行機に乗るのだろう?そんなことをぼんやり考えてパソコンに表示されるデジタル時計を眺めていると、村田くんが意味深な言葉を口にする。
「村田くん、それってどういう――」
「あー、名字は異動してきたばっかりだから知らないよな」
 村田くんは周囲を見回してから声を潜め、私がずっと知りたいようで知りたくなかった事実を口にする。
「あの二人ずっと恋人同士だったんだよ。当人達は隠してるみたいだったけど、暗黙の了解って感じで皆知ってた」
 十中八九、二人は元恋人どうしだろうと予測していた。しかし心のどこかでそうではない関係の二人を期待している自分もいた。村田くんの言葉で、認めたくない現実を突きつけられた気がした。
「でも城ヶ崎の海外転勤が決まってから、二人の態度が明らかによそよそしくなったんだよ。そんで、俺達の中では勝手に別れたって結論になってたんだけど――」
 彼の言葉を遮るように会社携帯の着信音が響く。画面には取引先の担当の名前が表示されており早めの対応が必要そうだ。村田くんは、秘密だぞと念押しして自分のデスクへ戻ったが、私は暫く通話ボタンを押すことが出来ずに、モニターに浮かんだ文字をぼーっと眺めていた。

「名字さん、隣いいですか?」 
 城ヶ崎さんの歓迎会が宴もたけなわになった頃、ハイボールのグラスを片手に竈門くんが私の顔を覗き込む。勿論と頷いて私は隣の席を彼に勧める。
 私が歓迎会の場所に選んだこの店は、駅近のカジュアルフレンチだった。ランチでは何回かお世話になっていたのだが、ディナーで来るのは今回が初めてだ。料理が美味しいだけでなく、様々な種類の酒やカクテルが飲めるこの店は想像以上に部署内のメンバーに好評で、選択を誤らなかったことに安堵する。
「このお店、名字さんが選んでくれたって村田さんから聞きました。料理も酒も美味しいし、ありがとうございます!」
「竈門くんにそんな風に言われたら、頑張って選んだ甲斐があったかな」
 爽やかな笑顔をこぼす竈門くんが小動物みたいに可愛くて頭をわしゃわしゃと撫でると、頬を赤らめた彼が困ったように眉尻を下げた。
「あ、もしかしてこれセクハラになる?」
「俺はそうは思わないですけど…名字さん、俺のことペットか何かだと思ってますよね?」
「あ、やっぱり分かっちゃった?」
「当然です。あんまり揶揄わないでくださいよ。俺だって男なんですからね」
 最後の言葉は反則だ。これこそ彼の真骨頂。女性――特に私のような年上――を骨抜きにしてしまう必殺技。煉獄さんの存在がなければ、困った様に笑う竈門くんにグラリと気持ちが揺らいでしまったかもしれない。
 ごめんごめんと竈門くんに謝りながら私は未だに空っぽの煉獄さんの席を見る。ドリンクのラストオーダーの時間も迫っているが、果たして彼は間に合うのだろうか?それとも、城ヶ崎さんのために、なんとしてでも間に合わせるのだろうか。
「そういえば、城ヶ崎さんとお話は出来たんですか?確か同期なんですよね」
 竈門くんの溌剌とした声が鼓膜を叩き、現実へと引き戻される。最近の私はよくこうやって、煉獄さんと城ヶ崎さんのことを考えてはぼーっとする時間が増えたように思う。
「うーん、実は今日はあんまり絡めてないんだ。今だってほら、部長達に捕まっちゃってるし…」
 手元のカクテルを一口喉に流し込んで城ヶ崎さんが座るテーブルに視線を走らすと、部長達に申し訳なさそうに頭を下げて、千鳥足で女子トイレに向かおうとする姿が目に留まる。
「……城ヶ崎さんかなり酔っ払ってますね。顔も真っ赤だし、大丈夫かな」
 私の視線を追っかけて城ヶ崎さんを捉えた竈門くんが心配そうに呟いた。
「私、心配だからちょっと見てくるね!」
「はい、お願いします!俺、念のため店員さんにお水貰って追いかけます」
 流石竈門くんだと感心しながら、宜しくねという視線を送って私は急いで城ヶ崎さんの後を追う。調子に乗って部長達が飲ませすぎたに違いない。相当ふらついていたが、果たして本日の主役は本当に大丈夫だろうか。
――私やっぱり杏寿郎のことが好き」
 店の入り口から程近い所に設置されている女子トイレを視界に捉えたとほぼ同時に、私は信じられない言葉を耳にする。この声は、おそらく城ヶ崎さん。ということは。
 荒くなる呼吸を必死に整えて、探偵のように壁の影に身を隠して声のする方を盗みみれば、城ヶ崎さんが煉獄さんの胸に顔を埋めるようにして泣いていた。煉獄さんの足元にはビジネス用のスーツケースがあることから、この店に到着して直ぐ、トイレに向かう城ヶ崎さんと出くわしたのだろう。
「えりか、少し飲みすぎだぞ?君は酒がそれ程強くないだろう」
「酔っぱらって言ってるわけじゃない…私、杏寿郎と別れたこと、ずっと後悔してたの」
「えりか」
 煉獄さんの右腕が、どうしたものかと宙を彷徨っていた。城ヶ崎さんに触れるのを逡巡しているのだ。
「杏寿郎は待つって言ってくれたのに。…あの時信じられなくてごめんなさい」
「もう過ぎたことだ」
「杏寿郎…好き、大好き。貴方じゃなきゃダメなんだって分かったの。お願い、私とやり直して。…私のこと無かったことにしないで」
 城ヶ崎さんはさらに深く煉獄さんの胸に顔を埋めた。彼の胸の中で必死に嗚咽を堪えているのか、細い肩がカタカタと震えている。
 女性が憧れる理想像のような城ヶ崎さんがこんな風に泣いて縋ってしまうほど、彼女にとって煉獄さんは大きな存在なのだろう。当惑の表情を浮かべていた煉獄さんの彷徨う右手が、ついに城ヶ崎さんの背中にまわされた。彼の大きな掌が、あやすように城ヶ崎さんの背中をさすっている様子をこれ以上見続けることは出来なかった。世界が涙で滲んでいく。
「名字さん?城ヶ崎さん、大丈夫そうですか?」
 気がつくとチェイサーを手にした竈門くんが私の後ろに立っていた。恐らく彼に二人のやりとりは見えていないはずだ。
「なんか大丈夫だったみたい。あ、私、そろそろ終電の時間があるから帰るね」
 こっそりと瞼に溜まった涙を拭い取り、心配そうな視線を注いでくれている竈門くんの目をみることなく早口で伝えて踵を返す。一刻も早くこの場を離れないと、気が狂ってしまいそうだった。こんなに心臓が握りつぶされたみたいな苦しさは、一体いつぶりだろうか。
 後処理は全て村田くんに任せて帰ろうと、逃げるように竈門くんの横を通り過ぎる。しかし、私の思惑虚しく、竈門くんに易々と手首を掴まれてしまう。
「名字さん!?どうしたんですか?」
 残念ながら、鋭い彼は敏感に私の様子を察してしまった。
「な、なんでもないの。私もちょっと酔っぱらったみたい。あの…離してくれるかな」
「じゃあなんでそんなに辛そうな顔してるんですか…もしかして泣いてたんですか?」
 竈門くんの顔が辛そうに歪む。なんでこの子は自分のことように胸を傷めてしまうのだろうか。
「辛そうな顔なんてしてないし、泣いてもないっ!…もう、いいから離して」
 興奮して叱るような激しい声を出し、竈門くんの腕を振り払う。驚きで目を見開く彼にごめんねと呟いて、私は急いで自席に戻る。自身の荷物を引っ掴むとそのまま逃げるように店を後にする。
 今度こそ私を追ってくる人は、誰もいなかった。