episode1


恋わずらいに君の熱


 本日もいつも通りの時間に駅のホームに降り立った私は、改札を潜って階段を下りる。出来るだけ移動には階段を使うようにしているのは、年齢を重ねるにつれて重力に逆らえなくなってきたボディラインを維持するためのせめてもの抵抗だ。五月の心地いい風が、奮発して購入したばかりのスプリングコートの裾をはためかす。
 これまでの経験とはまるで畑違いの部署への辞令を受けた私が、本社オフィスに異動をしてから早一か月が経った。慣れない仕事に忙殺される日々が辛くないと言えば嘘になるが、新しいことに挑戦するワクワクとした前向きな気持ちも失ってはいない。
 とりあえずこの一か月は下働きをしながら仕事を覚えるため、私は毎日一番乗りでオフィスに出社していた。今日も朝8時を回ったばかりのオフィスに当然ながら人はいない…はずだった。
「おはよう!」
「れ、煉獄さん!?お、おはようございます」
 セキュリティカードをかざしてオフィスに入ると、既にデスクでパソコンを広げる煉獄さんの姿があった。
「名字はいつもこんなに早い時間に出勤しているのか?」
「はい。お恥ずかしながらまだ慣れないことも多いので、業務前に色々と確認してるんです」
 オフィスの入り口に設置してあるハンガーラックに上着を掛け終えた私は、煉獄さんの質問に相槌をうちながら彼の隣の自分のデスクに足を進める。
「うむ。それはいいことだな。しかし、あまり無理はするなよ」
「ありがとうございます。少しでも早く仕事に慣れるように頑張ります」
 私を気遣うように言葉を送り、再びモニターに視線を移した煉獄さんの整った横顔を盗み見る。
――うん。やっぱり今日も素敵。
 隣のデスクに座る煉獄さんは、私の指導係にあたる人だった。異動当初は不安に塗れていた私が、毎日楽しくここで仕事が出来るのは、明朗闊達で篤実温厚な煉獄さんのおかげといっても過言ではないだろう。新天地で右も左も分からない私に、彼は根気よく業務を教えてくれた。
 そんなわけで、職場では必然的に煉獄さんと一緒に過ごす時間が多くなる私が、彼に惹かれるまでには然程時間はかからなかった。欠点を見つけることが難しい煉獄さんの素敵な笑顔や優しさを知ってしまったら、好きになるなという方が無理な話だ。私が会社に来る楽しみの一つには、間違いなく彼の存在があった。
「そういえば名字。頼まれていた今日の会議のプレゼン資料、確認したが――」
 煉獄さんが忙しそうにキーボードを叩いていた手を止めて、思い出したように私の顔をみる。
「よく出来ていたぞ。今日の会議は、君がメインですすめてみろ」
「はいっ!ありがとうございます!」
 端正な顔を綻ばせ笑顔を向けてくれる煉獄さんに心臓が跳ねる。嬉しさが込み上げて早朝からなんともいえない贅沢な気持ちで満ち足りていく。この気持ちは、ただ仕事を褒められたから、という単純な理由では片づけられない。私はこんなにも煉獄さんに恋い焦がれているのだ。
 しかしそうなってくると、ふと煉獄さんに恋人や想い人がいないのかが気にかかる。異動してきて一か月、そういった類の話を耳にすることはなかったが、何しろこんなに素敵な彼だ。恋人がいないほうがおかしいのかもしれない。
「どうした?俺の顔に何かついているか?」
 無意識のうちに煉獄さんの整った眉目を食い入るように見つめてしまっていたようだ。苦笑して口元に小さく笑みを作る煉獄さんに、私の心臓はさらに高く飛び跳ねた。
「な、なんでもないです…。はは」
 頬がほんのり熱をもち私は慌てて煉獄さんから視線を逸らす。煉獄さんは特に気にした風もなく細い息を吐いて、自身のパソコンのモニター画面に再び視線を戻し、そのまま私に語り掛ける。
「それにしても、名字が異動してきてもう一か月か。そろそろ俺の手を離れても大丈夫そうだな。君は優秀だし、一人でも十分やれるだろう」
「え……でも」
「俺から部長に言っておこう。君も、何をするにもいちいち俺に伺いを立てるのは面倒だろう?」
「そんなことないです!」
 私は思わず頓狂な声を上げる。二人きりのオフィスに大きく木霊した必死の叫びが自分の鼓膜を叩き、しまったと思った時には煉獄さんが双眸を見開きこちらを見つめていた。
「あ、えっと…。私、まだまだ煉獄さんに教えてもらいたいことがあるんです。…だから、その、れ、煉獄さんさえ迷惑じゃなければ……もう少し指導係を続けていただけませんか」
 恥ずかしさで煉獄さんの顔を見ることが出来なかった私は、思わず瞑った瞼に力を入れて頭を下げる。数秒の沈黙が何時間にも感じて、握り締めた拳からは汗が滲みだす。
 やっぱり変だと思われたかもしれない。ひょっとすると彼への好意に気づかれた可能性もある。
 あらゆる思考を脳内でごちゃ混ぜにして一人狼狽する私の耳に、微かな笑いを空気に交じらせたような吐息が聞こえる。
「そういうことなら、俺がとことん面倒をみてやろう」
 晴れやかな笑声を漏らして頼もしく頷いてくれた煉獄さんに、今度こそ私の心臓は昇天した。

 会議のプレゼンは想像以上の出来だった。勿論その成功要因は、見えないところで色々とサポートしてくれた煉獄さんだ。彼に何度もお礼を述べて頭を下げるが、君の実力だと柔らかく笑って手中の資料で私の頭をぽんと叩いた。
 これが煉獄さんの大きな掌だったら、一体私はどうなってしまうのだろう。初恋を知ったばかりの女子中学生のような想像が膨らむ。
「名字さん!今日のプレゼン、凄く良かったです。資料も分かりやすかったし、流石ですね。俺も負けないように頑張らないと」
 デスクに戻って、無事に終わった会議にほっと一息付く私の元に、後輩社員の竈門くんが人懐っこい笑顔で元気よく声をかけてくる。彼はこの部署では一番の若手だが、驚くほど頭がきれて、一頭地を抜く逸材だと聞いている。さらに、持ち前の明るさや誠実さは人々の癒しとなっており、この部署には最早なくてはならない存在だ。そんな子に褒められたら誰だって悪い気はしない。
「竈門くん…ありがとう。なんか照れちゃうな」
 竈門くんのプレゼンの方がよっぽど凄かったよという言葉を続ければ、彼は頬を染めて嬉しそうに破顔する。こういう所も竈門くんのずるい所だ、と思う。無意識の中で、いつのまにか女性達を自分の手の中で転がしている。恐ろしい子だ。
「あ、名字。ちょっと頼まれてくれ」
 竈門くんの小型犬のような笑顔に癒されていると、この部署唯一の同期がひょっこりと顔を出す。
「村田くん、お疲れ様。勿論、私でよければ」
 気軽な感じで声をかけてくる彼は、相変わらず空気に溶け込んでいる。
「歓迎会の店の予約をして欲しいんだ」
「歓迎会?」
 私の歓迎会は配属初日に開催してもらっており、それが自分のための会でないことは当然ながら理解できる。
「そうそう。実は、再来週海外支社から戻ってくる社員がいてさ。そのための歓迎会の準備を部長に頼まれたんだけど…店とか選ぶのって女子のが得意だろ?」
 海外支社での勤務経験があるというだけでも、その優秀さが容易に想像出来る。いったいどんな人なのだ?男性なのか女性なのか?年上なのか年下なのか。
「海外支社って…もしかして城ヶ崎えりかさんのことですか?戻ってくるんですか!?」
 頭の中でぼんやりと人物像を思い描いていた私の耳に竈門くんの興奮した声が聞こえる。
「お、炭治郎は知ってるんだっけか?そうそう、その城ヶ崎えりか」
「うわぁ、懐かしいな。俺、入社した頃から城ヶ崎さんには本当にお世話になったんです。また一緒に働けるんだ。確か、村田さんと同期なんですよね?」
 竈門くんが嬉しそうに笑顔をこぼして村田くんに問いかける。
「そうそう。いまんとこ、同期の中では一番の出世頭なんじゃないか?女なのにって言い方は良くないのかもしれないけど、本当にあいつはすげえよ」
 村田くんが、お前もそう思うだろというように視線を私に移したが、生憎私は200名以上いる同期全てを覚えられる程の記憶力は持ち合わせていない。
「ごめん。私、実は知らなくて。でも同期にそんなに優秀な子がいるなんて、ちょっと近寄り難いな」
「名字さんも直ぐに仲良くなれますよ!城ヶ崎さん、優秀なのに全然鼻にかける感じじゃなくてとってもいい人なんですよ」
「それに可愛いしな」
 声を弾ませる竈門くんへ同調するように村田くんも呟いた。
「そんなに非の打ち所がない人もいるんだね。…うん、仲良くしてくれるといいな。煉獄さんもご存知なんですか?その、城ヶ崎さんのこと」
 私は徐々に形になっていく人物像を思い浮かべて、腕組みをしながら隣席でパソコンのモニターをじっと見つめる煉獄さんに言葉を投げる。いつも賑やかな煉獄さんが村田くんさながらに存在感を消していたことに、少しだけ驚いた。
「ん?ああ、勿論城ヶ崎のことは知っている。二人が言うように非常に優秀な子だ」
 心なしか歯切れの悪い煉獄さんに一瞬だけ疑問符が浮かぶ。しかしそれを考える余裕もないうちに、慌てた様子でこちらに近づいてきた部長に衝撃の事実を突きつけられる。
「名字!!先日の打ち合わせで、名字が社員情報ファイルを忘れていったようだと、取引先から電話があった」
 部長の言葉に全身の血が冷えわたって動悸が早まる。直ぐにデスクの引き出しを確認するも、確かに所定の位置にファイルは無かった。
 どうしよう。大変なことをしてしまった。これは個人情報漏洩にあたるのではないか。あんなに確認していたはずなのに、ファイルを置き忘れたことにすら気がつかないなんて、どうかしていたとしか思えない。
 頭の中が真っ白になり呆然と立ちすくむ。早く次の行動を起こさなければならないのに、足裏が床に縫い付けられてしまったように身体が動かない。上手くいった会議のプレゼンが、もう遠い昔のことのように思える。
「名字。何をぼやっとしてるんだ。直ぐに取引先に謝罪に行くぞ」
 海の真ん中に身一つで放り出された私を引っ張り上げるように、頼もしい言葉が差し伸べられる。縋るような視線を送って隣を見れば、既に煉獄さんは上着とカバンを手に持って、準備万端といった様子だ。
「れんごくさ…」
「そんなに不安そうな顔をするな。起きてしまったことを悔やんでも仕方ない。とにかく急ごう」
「は、はいっ!」
 私の肩を励ますように叩いた煉獄さんの後を追い、私達は取引先への道を急ぐ。煉獄さんに初めて触れられたその場所が、想像以上に熱かったことを私はきっと忘れない。