episode12


離せはしない手


 カーテンから差し込む柔らかい琥珀色の光で目を覚ます。外を見なくても分かる、梅雨の時期の貴重な晴れ間の陽光に胸が躍る。苦手な梅雨の季節がこんなにも愛しく思えてしまうのは、私を胸の中に収めて規則正しい寝息をたてるこの人のせいだ。
 転勤の準備で相当に疲れが溜まっているのだろう。杏寿郎さんの腕の中で軽く身を捩るも、覚醒する気配はない。昨日は嵐のように激しく愛し合ってしまったものだから、流石の彼も可愛らしい寝顔を私に披露せざるを得なかったようだ。
 それにしても、なんて整った顔立ちなのだろう、と彼の腕の中から杏寿郎さんの顔をまじまじと拝み倒す。通った鼻筋に誘うような唇。長く濃いまつ毛は目元に翳を落とすほどであり、さぞかしご両親も容姿端麗な方々なのだろと想像がつく。折角の週末であるし、杏寿郎さんが海外へ発ってしまったら暫くこの素敵なお顔はお預けだ、と考えると、申し訳ないがもう少しこの寝顔を堪能させてもらうことにしよう。
 しかし、私の熱い視線を感じてしまったのか、杏寿郎さんの温かな唇が、突如私の額に押し付けられた。
「んっ…ごめんなさい。起こしてしまいましたか?」
「おはよう、名前」
「お、おはようございます。れんご…、杏寿郎さん」 
 極上に優しい視線が注がれて、少し掠れた声で名前を囁かれる。いつもの凛々しい瞳とは違う少し重たそうな瞼を擦る杏寿郎さんを目の前にし、これこそ彼女の特権だ、とどうしようもない幸福感で満たされる。しかしここで、向き合わなければならないもう一つの現実か脳裏を過る。
「杏寿郎さん…私、城ヶ崎さんと、月曜日にちゃんと話します」
 唇から思わず零れた私の言葉に、杏寿郎さんが少しだけ目を見開くのが分かった。
「私…、城ヶ崎さんと杏寿郎さんの間には入れないと思ったんです。お二人の間には特別な空気が流れていたし、まだ好き合ってるんだって、一度は貴方を諦めました」
「…名前」
「でも、やっぱり杏寿郎さんが好きで好きで堪らなくて、この気持ちは誰にも負けないって思ったんです。城ヶ崎さんには申し訳ないけど、私は正々堂々彼女と戦って向き合います」
 胸元で両拳を握りしめ、決意を湛えた瞳で杏寿郎さんを見れば、彼の唇が私のそれに重なる。
「名前、ありがとう。…君の言う通り、えりかとは長い付き合いで、結婚したいほど愛していた女性だった」
 杏寿郎さんの口から、「他の女性を愛していた」などと聞かされてしまえば、それがたとえ過去形であったとしても、劣情が刺激され、ずきりと胸が痛んだ。
「だが、もうそれは過去のことだ。前にも言ったと思うが、俺とえりかは二年前に終わった。今は名前のこと以外考えられない。…だからそうむくれるな」
 無意識に嫉妬心を剥き出しにし、不愉快な表情を浮かべていたであろう私にもう一度口づけをくれた杏寿郎さんが、困ったように笑って私の頭を撫でる。
「それよりも名前はどうなんだ?昨日竈門が、君に二回も口付けたと話していたな」
「あ、あれは不可抗力なんです!だって、竈門くんが突然してくるから」
 杏寿郎さんの言葉に、確かに昨夜そんなやり取りがあったことを思い出す。かぁっと恥ずかしくなり、慌てて弁解の言葉を並べる私の唇を、杏寿郎さんが荒々しく奪う。唇で唇をこじ開けられて、簡単に舌を入れられ私のそれを絡めとる。いつの間にか上から覆いかぶされてしまえば、昨晩の熱が舞い戻る。
「はぁっ…きょ、じゅろ…さん」
「やはり妬けるな。…名前、もうそんな顔を俺意外の男に見せてくれるなよ」
 名残惜しそうに唇を離して、杏寿郎さんが耳元で囁いた。そんな顔ってどんな顔?杏寿郎さんが好きで好きで堪らないという顔だろうか。
「杏寿郎さんも、私以外の人を見ないでください。私だけ愛してください」
 体中の熱が顔に集まっているような火照りを感じたが、私は負けじと杏寿郎さんの大きな瞳を見つめ返して仕返しする。杏寿郎さんは嬉しそうに柔らかく微笑むと、その表情を一変させた。雄々しい瞳に艶っぽい色が浮かぶ。
「そんなに可愛いことを言うな。名前、また君を抱いてもいいだろうか」
「…意地悪です…。私の答えなんて、分かってるくせに」
 柔らかな朝の光に包まれて、私達は再び身体を重ね合った。

「名字さん、ちょっといいかな?」
 杏寿郎さんと過ごした幸せな週末も終わり、城ヶ崎さんとの決着をつけなければと少しだけ憂鬱な気持ちで出社した私の耳に、透き通った声が響く。オフィスの女子トイレに設置されている鏡の中の自分を見つめ、顔を両掌でパチンと叩いていた最中に呼ばれた自身の名前に思わず心臓がびくりと跳ねた。
「城ヶ崎さん、実は私も話が――」
「ごめんなさいっ!!」
 鏡越しに城ヶ崎さんを捉え、慌てて彼女へ向き直り言葉を紡ごうとするも、先手を取られ勢いよく頭を下げられてしまう。
「私ね、実はこっちに戻って早々、杏寿郎に告白して振られてたの。ほら、私の歓迎会を開いてくれた日あったでしょ」
 城ヶ崎さんの突然の告白に思わず言葉が詰まる。頭を上げて言葉を続ける城ヶ崎さんの目は、深い憂いの光を湛えており胸が痛む。
「その日にきっぱり振られたの。名字さん、貴方のことが好きだからって」
「え…」
「それに、前にも言ったと思うけど、杏寿郎の目を見たらすぐに分かった。名字さんを愛しそうに見つめていたし、名字さんも同じだった。二人が両想いなこと、本当はずっと分かってたの。それなのに、私は杏寿郎のことがどうしても諦めきれなくて、名字さんの優しさに甘えちゃった…。本当に、本当にごめんなさい」
「城ヶ崎さん」
「杏寿郎と一緒に行くの?」
 桜色の唇が優しい形に笑いをつくり、私に問いかける。悲しみに翳った瞳はいつのまにか姿を消して、梅雨明けの夏の日差しみたいに晴れやかな色を湛えていた。
「う…うん。今すぐにではないけど、煉獄さんと…離れたくないって思ったから」
「そっか。名字さんは強いね。…私にも名字さんみたいな勇気があったらな」
 なにかを吹っ切るように、はぁっと短い吐息をついた城ヶ崎さんは、彼女らしい天真爛漫な笑みを浮かべる。
「…名字さん、杏寿郎を宜しくね。私の分も、彼をずっと好きでいてね」
「も、勿論だよ!」
「ふふ、杏寿郎が名字さんのことを好きになったこと、よく分かるな。……さ、私は早速新しい人でも探そうかな!もういい歳だし、うかうかしてられないもんね!」
 太陽のような眩しい笑顔で宣言し、「先に行くね」と言葉を残して去った彼女の眦に涙が光っていたことを、私は一生忘れてはならないと思った。

 何度訪れても高揚感を覚える空港独特のざわめきの中に、出発を知らせるアナウンスが響く。今日、杏寿郎さんは海外へと発つ。
「そろそろ時間だ。離れがたいが、名前、向こうで待っているぞ」
「私も寂しいです、杏寿郎さん。…仕事の方で決着がついたら、直ぐにおいかけます」
「…名前、本当に良かったのか?」
 入国審査のカウンター前で、杏寿郎さんは私の頬に大きな掌を這わせて、複雑そうな表情で私を見下ろす。私が仕事を辞めて彼について行く選択をしたことを、心配してくれているのだろう。
「杏寿郎さん、何回も言わせないでください。仕事は世界中にあるけど、杏寿郎さんは世界でたった一人しかいないんです。私はずっとずっと、貴方といたいんです」
 杏寿郎さんの掌に自身の手を重ね合わせ、気持ちを送りこむように切々と思いの丈を訴える。私のほとばしる彼への想いに、杏寿郎さんは形のいい唇を柔らかく綻ばし、そのまま私に口付けた。
「き、杏寿郎さん!?だめです…こんな人前で」
 人でごった返す空港での突然のキスに、私は思わず彼の胸を押す。
「すまない。だが今のは君が悪い。そんなに可愛いことを言われてしまったら、我慢しろという方が無理な話だな!」
 困ったように笑った杏寿郎さんが、もう一度私の額に口づけを落とし一足先に旅立った。
「杏寿郎さーん!大好きでーす!!」
 彼の大きな背中に向かって叫んだ私の気持ちに、もう嘘なんて一つもなかった。