episode10


涙に溶けた嘘


 煉獄さんの熱い告白を断った夜から、時間は矢のように飛んで過ぎた。あの夜、煉獄さんはまるで私の答えを分かっていたかのような納得顔を浮かべ、優しく頷いてくれた。そこから今日までの煉獄さんは、今までのことはまるで何もなかったかのように、通常運転だった。
「おい、名字。今日の店、人数確定の電話入れといてもらってもいいか?結局、全員出席。そりゃ煉獄さんの送別会だもんな〜。因みに主役は出先からそのまま来るってよ」
 こちらも通常運転の村田くんに送別会参加者のリストを手渡される。こんな会話を少し前にもしたな、と記憶が蘇る。あれは城ヶ崎さんの歓迎会の時であった。あの頃は、煉獄さんと一夜を共にすることも、煉獄さんが海外に行くことも、煉獄さんから熱い告白を受けることも、何一つとして考えられなかった。異動してからの数か月、私の全ては煉獄さんだった。そして彼は数日後、この日本を発ってしまう。
「そいやさ〜海外転勤になる男性って、だいたい連れて行きたい彼女が居ないかどうか、上司から聞かれたりするんだろ?」
 何もしらない村田くんが、頭の後ろで手を組んでのんびりとした口調で世間話を続ける。
――まっさきに名字の顔が浮かんだよ
 あの時の煉獄さんの台詞が、昨夜のことのようにはっきりと記憶に浮かび上がる。
「やっぱり煉獄さん、城ヶ崎のこと連れて行くのかな?でも城ヶ崎が辞めるって話も聞かねぇよな。第一、海外から帰ってきたばっかりだもんな。なぁ名字、煉獄さんと仲いいだろ、なんか知らねえの?」
「村田くんうるさい!知ってるわけないでしょ、私が。忙しいんだから、あっち行って!!」
 何も知らないとはいえ、あまりにも核心に触れる質問をたたみかけてくる村田くんに、ついに私の怒りが爆ぜる。そんなことこっちが知りたい、という言葉は何とか喉元で引き留める。
「な、なんだよ名字。そんなに怒んなよ、悪かったって。…じ、じゃあ、店頼んだぞ」
 度肝を抜かれた様子の村田くんは、しどろもどろに謝罪の言葉を述べると、自分のデスクへと踵を返す。少し強く言いすぎてしまったかもしれない、と胸の内に溜まった重い息を吐きだす。煙が立ち込めたようなもやもやした頭を切り替えるべく、デスクを離れ自販機へと足を進める。こういう時は、熱い缶コーヒーか冷たい炭酸飲料の一気飲みに限る。
 最近の私は、面白い位に仕事に集中出来ていなかった。あの夜のことを後悔していない、といえば勿論嘘になる。もし城ヶ崎さんの存在がなければ、私はきっと煉獄さんの手を取っただろう。だが今にして思う。私は城ヶ崎さんに遠慮して、煉獄さんを譲る必要があったのだろうかと。善良を気取って、女神にでもなったつもりだったのだろうか。
 出会ったのは遅くても、一緒に過ごした期間は短くても、煉獄さんへの燃えるような思いは、城ヶ崎さんにだって、きっと負けない。
「名字さん、大丈夫ですか?」
 自販機の前で、商品を選ぶこともせずぼーっと考え込んでいた私の背後から、私を気遣う声が聞こえる。声の主は言わずもがなだ。
「…竈門くん。うん大丈夫だよ。何にしようかなって悩んじゃって」
「商品を悩んでる感じじゃなかったですよ。…ねぇ、名字さん、煉獄さんとどうなったんですか?」
「え…」
 耳へ触れるように囁いた竈門くんに、身体がぴくりと跳ねる。肩越しに振り返った私を、そのまま自動販売機に押し付けて、竈門くんは長い両腕を自販機について私を囲う。これは両手の壁ドンだ、なんてことを考えさせてもらう余裕もなく、可愛い後輩から男の顔になった竈門くんの唇が、私のそれに触れてしまいそうな程寄せられる。顔にかかる吐息が驚く程熱く感じる。
「その様子だと、付き合うことにはなってないですよね?」
「告白を…してもらったけどお断りした」
 竈門くんは一瞬大きな双眸を見開くも、どうして断ったんですかと言いたげな視線を私に向ける。
「城ヶ崎さんに、煉獄さんを奪わないでって…言われたの。彼女は、煉獄さんのこと本当に好きなんだって思ったら、後からひょっこり出てきた私が二人を邪魔する権利なんて無いのかなって思って――」
 最後まで言い終わらないうちに、竈門くんの形のいい唇が私のそれを奪った。以前の時みたいに軽く触れるようなものではすまずに、性的なものを感じさせる濃密な口付けだった。竈門くんのざらりとした舌が私の歯茎を舐めまわして、優しく舌を絡めてくる。抵抗しようと胸を押すも、いつのまにかがっしりと掴まれてしまった両肩は悲しいことにぴくりとも動かすことが出来ない。
 誰かに見られてしまうのではないかと冷や冷やしながら、苦しさに思わず喘ぐような小さな声を漏らしたところで、竈門くんが漸く私の唇を解放する。色っぽい瞳が私を誘惑する。
「な、何するの!?竈門くん、最低っ!もう知らない」
「どっちが最低なんですか?所詮名字さんの煉獄さんを思う気持ちはその程度だったってことですよね?今の名字さんに、煉獄さんを好きって言う資格はないと思いますよ。煉獄さんの気持ちを踏みにじっているように思いますけど」
 竈門くんは珍しく突き放したような言い方をして、唾液に濡れた私の唇をそっと太い親指で拭うと、そのまま私の前から立ち去った。先ほどよりもさらに混乱してしまった頭を抱えながら、私は火照った顔を冷ますため、その場に蹲るしかなかった。

 煉獄さんの送別会は、まさかの主役が遅れて登場するという展開で幕を開けた。仕事が早い煉獄さんがここまで忙しそうにしているということは、凡人であれば音を上げてしまう膨大な仕事を捌いていることが、容易に想像出来た。
 仕事でも殆ど会話をする機会が無くなってしまった煉獄さんと、この送別会で話したいような、話したくないような妙な気持ちを抱えていた。しかし上司からも同僚からも大人気の煉獄さんだ。皆最後の酒の席ということもあって、ここぞとばかりに彼の隣を代わる代わる陣取っていたため、私が煉獄さんと二人きりで話す機会は訪れそうもなかった。
 ふと城ヶ崎さんに目を遣ると、こちらもこちらで煉獄さんとは一定の距離をとっていた。一体二人の関係は、どうなったのだろうか。
 煉獄さんの涙を誘う最後の言葉で、無事送別会は幕を閉じた。彼の肺腑を衝く言葉に送別会の会場にはすすり泣きの声が響いていた程だ。改めて煉獄さんの偉大さを感じつつ、彼への思いの強さを自覚する。恋い焦がれてやまない煉獄さん。本当にこのまま彼と離れ離れになってしまっていいのだろうか。
「名字さん、二次会行きますか?」
 店の前で二の足を踏んでいた私の頭上から、竈門くんの声が降ってくる。
「あ、えっと…」
「行かないなら、俺と帰りませんか?」
「え、でも」
「ほら、早く」
 答えを待たずに、竈門くんは私の手首を強く掴んでそのまま集団から距離をとる。同僚からは「あの二人付き合ってるの?」という好奇に溢れた囁きが聞こえてくるも、竈門くんはまるで気にする様子もない。
 もういいのではないか。竈門くんは凄くいい子だし、恋人になったらきっと私を大切にしてくれることは想像に難くない。煉獄さんは城ヶ崎さんと寄りを戻して、一件落着。幸せな愛の物語が出来上がるというわけだ。
 これでいい。これが正解だ。これで皆が幸せになれる。呪文のように暗示をかけて、私の手をひく大きな背中を見つめるも、脳裏を掠めたのは皮肉にも竈門くんの言葉だった。
――俺は今の自分の気持ちを大事にするかな。過去に縛られてても、前にはすすめませんから
――自分よりもずっと素敵ないい子が恋敵だったら?
――俺は全力で相手と勝負すると思います。何もしないで身を引いたら、一生後悔する気がするんです。
 気が付くと、海の中にいるように風景が滲んで見えた。瞼の裏が熱くなると、暖かい水玉がとめどなく頬を伝っていた。
「竈門くんっ…ごめんなさい。私、やっぱり、やっぱり煉獄さんが好き。煉獄さんじゃなきゃ嫌だ。戦わなきゃいけなくても、誰かを傷つけることになっても、…煉獄さんがいいよぉ」
 大の大人が辺りかまわず泣きじゃくり、無数の涙が散らばっていく。すると、脚をとめた竈門くんが私に向き合うように振り返る。はぁ、と分かりやすく溜息をついて言葉を紡ぐ。
「…俺、名字さんの笑顔が大好きなんです。優しくてあったかくて元気がでて。でもその笑顔はきっと、煉獄さんじゃないと引き出せないんですね」
 竈門くんはまるで人ごとのようにしみじみと呟いていたが、その瞳が寂しそうに翳ったのを見逃すことは出来なかった。
「竈門く…」
「俺なら、名字さんに悲しい顔はさせないって思ってたけど、俺なんかじゃ、名字さんを笑顔にすることも出来ないんだってうちのめされました」
「…うぅっ、ごめん、ごめんね竈門くんっ、わたし、わたし」
 顔を真っ赤にして泣きじゃくり、喉から絞り出すような声を出した私を、竈門くんは自分の胸に引き寄せる。
「謝らないでください。俺の方こそ、二回もキスしてごめんなさい。俺も、煉獄さんみたいないい男になれるように、これからも頑張ります。……名字さんに悲しい顔、させないでくださいね」
 竈門くん最後の台詞は私にかけられているものではない?と思った時には、私の身体は別の温かな胸の中にあった。
「愚問だな。…君は俺を挑発しているのか?勝負なら受うけてたつぞ」
 私を抱きしめる逞しい腕。心地のいい低い声。大好きな匂い。温かく大きな胸。私は紛うことなく、煉獄さんの腕の中にいた。
「今の俺じゃ、煉獄さんに勝てる気しないですよ」
 竈門くんの、細く吐く息に混ぜた「お幸せに」という声が聞こえたかと思うと、次第にその気配は遠ざかっていく。
 状況が分からない私は、埋めている顔を上げたいと思いつつも、化粧が剥げてぼろぼろになった真っ赤な顔を見られてしまうことがしのびなく、それが出来ないでいた。こんなに不細工な顔を見られてしまったら、流石に煉獄さんもドン引きしてしまうかもしれない。それよりもどうして煉獄さんがここにいるのだろうか。竈門くんに連れられる私をみて追いかけてきてくれたのだろうけど。だとしたら物凄く嬉しい。
 脳内は混乱しているのに、どこか冷静な自分がいることに内心驚いていると、煉獄さんの大きな手が私の顎を持ち上げる。雄々しくて、柔らかくて、優しい瞳が私を愛おしそうに見つめている。
「れ、煉獄さ…」
「先ほどの言葉、よもや二言はあるまいな」
――やっぱり煉獄さんが好き。煉獄さんじゃなきゃ嫌だ。戦わなきゃいけなくても、誰かを傷つけることになっても、…煉獄さんがいいよぉ。
 自分の言葉を思い出し、あまりにも熱い台詞を口走ったものだと、全身の熱が顔に集中する。突き上げてくる羞恥心。それでも私はもう、自分の気持ちに嘘は付けない。
「あるわけないです…。煉獄さん、煉獄さん大好きです!一生、一緒にいたいです」
 近くに居合わせた人々が遠巻きに様子を眺めているのも気にならず、私は煉獄さんの大きな身体を抱きしめた。