触れたい


 甘味処でお腹を満たすと、浅草の街を案内する、と杏寿郎くんが私の手をとった。指を絡ませるように握られてしまえば、掌から汗がじんわりと滲んでくる。これは、現代でいうところの「恋人繋ぎ」というやつだ。女性であれば誰もがどきどきしてしまう振る舞いを涼しい顔でやってのける杏寿郎くんは、もしかするとこの八年でかなりの女性を手玉にとってきたのかもしれない。
 いやいや、彼に限ってそんなことはないだろうと、脳に浮かんだ疑点を隅に押しやる。それでも、流石に彼女の一人や二人くらいは居たであろうことを考えると、心が灰色の雲に覆われたようなもやっとした気持ちになった。人並みに男性とお付き合いをした経験のある自分を棚に上げ、私は何を嫉妬しているのだろうと煩悩を振り払うように頭を左右に振った。
「ここに寄っても構わないか?」
 昼時で混雑を極める浅草の街を二十分ほどぶらぶらしたところで、杏寿郎くんが足をとめる。勿論、と頷いて視線を移した先は歴史がありそうな文房具店だった。趣のある古い店構えは、思わずカメラのシャッターをきりたくなるほどだ。
「文房具屋さん?」
「ああ、千寿郎が毛筆を駄目にしてしまったと話していてな」
「そっか。千寿郎くんは學校で使う機会も多いもんね。この時代の學校もまだ筆を使うの?」
「學校によっては、鉛筆も大分普及していると聞く」
「凄いなあ。私が筆を使うことなんて、御祝儀袋に名前を書く時くらいだよ」
「名前の世には、この時代では想像も出来ない便利なものが溢れているのだから、仕方あるまい」
 杏寿郎くんが当たり前のように私の名を呼び、想像以上の破壊力に心臓が跳ねる。確かに、杏寿郎くんに名前を呼ばれたら嬉しいと私は言った。言ったのだが、名前を呼び捨てにされたという些細なことで胸をときめかすなんて、まるで初恋を知った中学生のようだ。
「おや、杏寿郎くんいらっしゃい。随分と久しいねえ」
「ご主人、息災だろうか!今日は弟の筆を買いにきたのだが…」
「ああ、千寿郎くんの。どれ、今用意するからちょっと待っていなさい」
「ああ、すまない」
 二人して店に入るなり、商売が上手そうな店主が寄ってきて杏寿郎くんと親しげに会話を始める。目の前でやりとりされる会話からしても、杏寿郎くんがこの店の常連であることは容易に想像出来た。
 二人のやりとりの傍らで想像以上に広々とした店内を見回す。てっきり文房具のみを取り扱っているのかと思いきや、店の三分の一は髪飾りやアクセサリーといった女性達の心を擽る可愛らしい和小物が陳列されていた。現代では中々お目にかかることのない大正ロマンを感じさせる雑貨達に胸が弾み、思わずその一角に足を向けると、目のくらむような色彩が飛び込んでくる。宝石箱の中身を散りばめたようなそれらは、色とりどりの勾玉のネックレスだった。
「…綺麗」
 自分の首にぶら下がるそれとはまた違った色彩に目を奪われて、思わず声を漏らした。
「おや、嬢ちゃんお目が高い。綺麗だろう?」
 店の奥へ踵を返そうとしていた店主が、勾玉のネックレスを手にした私に目敏く気が付き声をかけてくる。
「は、はい。とても綺麗ですね」
「ひと昔前はじいさんばあさんが有難がって買っていったが、今は巷の若い女性達に人気でね。なんでも、肌身離さず身に着けて、それが割れた時には願いが成就するって話だ」
 現代のミサンガのようなものだろうか、と店主の話を聞きながら考える。勾玉が割れるなど、なんだか不吉の予兆のような気がしてしまうが。
「勾玉は古くから魔除けや厄除けとして身につけられていたものだろう。己に降りかかる厄災の身代わりとなるという話を聞いたことはあったが、願いが成就するという話は初耳だな」
 いつのまにか隣に立っていた杏寿郎くんが、陳列された勾玉を眺めながら呟いた。
「あくまでも噂の域を出ないがね。そんなことより、この嬢ちゃんは杏寿郎くんのこれかい?どうだ、お揃いで一つずつ。恋仲の男女が贈り合うのも最近の流行りって話だ」
 店主は好奇的な視線を私達に浴びせ、まるで漫画の一コマのように右手の小指を立て揶揄うような笑みを口角に刻む。
「ご主人!」
「はは。君も隅に置けないなぁ、この色男」
 ばつが悪そうな杏寿郎くんと言葉に詰まる私達を残して、店主は豪快に笑って店の奥へ引っ込んだ。こそばゆい空気が私たちの間で揺れる。
「…悪い人ではないのだ。気のいい主人なのだが。嫌な思いをさせたならすまない」
 少し間をおいて杏寿郎くんが申し訳なさそうに謝罪の辞を述べる。
「…嫌な思いなんて、するわけないよ」
 独り言めかしてぽつりと呟いた言葉は、杏寿郎くんには果たして届いていたのだろうか。
「やぁ、待たせたね」
 まるで間合いを見計らっていたかのように店主が再登場し、机に大きさや太さの異なる毛筆を次々と並べていく。筆にも随分と色々な種類があるのだと感心しながら眺めていると、杏寿郎くんがそのうちの一つを手に取った。
「これは、練り混ぜ法の奈良筆か」
「お、流石煉獄家の坊ちゃんだ。お目が高いね。どうだい、試してみるかい?」
「む、だが」
「なぁに、遠慮するな。煉獄家にはいつも贔屓にしてもらってるんだ」
 正直、目の前で繰り広げられる二人の会話には珍紛漢紛だが、杏寿郎くんが手に取った筆がこの時代でとても高級な希少品だということは容易に想像することが出来た。
 杏寿郎くんが、店主が準備した和紙に墨汁を浸した筆を走らせていく。和紙に流れるような文字が踊る。
「凄い…達筆」
 思わず感嘆の溜息に混ぜて言葉を零した私に、杏寿郎くんは不思議そうな表情を湛えてこちらを見る。
「あ、ごめん。あまりにも綺麗な字だったからびっくりしちゃって」
「そうだろうか。自分の字を褒められたのは初めてかもしれない」
「すっごく達筆だよ。二十歳でこの字は書けないなあ。この字でラブレター貰ったらぐっときちゃうな」
「らぶ…?」
 杏寿郎くんが、勘定台の奥に引っ込んでこちらに背を向ける店主にちらりと視線を走らす。無関心を装っているが、私達の話に耳をそばだてていることはすぐに分かった。あまり迂闊なことは言えない。
「恋文ってこと。…こんな達筆な字でもらう恋文は、凄まじい破壊力だよ」
 声の調子を落として杏寿郎くんに囁くと、彼は私の言葉をどう受け止めらたらいいのか分からない、といった顔をした。言った後に自分の言葉を後悔する。これではまるで、杏寿郎くんにラブレターを送って欲しいと強請っているようなものではないか。
「あ、で、でも、なんて書いてあるか、達筆すぎて読めないんだけどね」
 照れ隠しに、机に並べられていた筆を手に取りなんでもないふりをする。
「…では、名前が読めるように書かねばな」
 ふっと息を吐くように微かな笑みを零した杏寿郎くんが、いくつか筆を手に取って勘定台へと足を進めた。
 それは私に恋文を書いてくれるということなの?
 当然その疑問を口に出来ない私は、熱を持った顔を誤魔化すように両手で扇ぐ。
「そういえば…一緒に買わなくていいのか?」
 杏寿郎くんが立ち止まり、思い出したようにこちらに問う。それが、先程私が手にしていた勾玉のネックレスを指していることはすぐに分かった。
「うん。大丈夫、だって」
 ――既に私達はお揃いのそれを持っているから。
 最後まで言わずとも、彼は察してくれたようだった。僅かに顎を引くと、今度こそにやにやとした笑いを浮かべる店主が待つ勘定台に向かった。

 その日、學校から帰った千寿郎くんも一緒に三人で夕食を済ませると、報告書を書き上げる、と杏寿郎くんは自室に篭った。きっと彼は私が想像しているよりもずっと忙しい人だ。そんな彼の貴重な一日を独占した心苦しさを感じながら、襖の向こう側の部屋の主に声をかける。
「杏寿郎くん?お風呂先にいただいたよ」
 少し間を置くも期待した返事がなかったものだから、襖を少しだけ開けて部屋の中を覗き込む。すると、書き物用の机に突っ伏す杏寿郎くんの姿が目に入る。彼の規則正しい寝息が水を打ったように静かな部屋の空気を震わせており、強く逞しい杏寿郎くんも眠気には抗えなかったのだと容易に想像がついた。母性本能が擽られ口元に笑みが浮かぶも寒々しく見えた背中が気になって、私は無礼を承知で影のように部屋に忍び込む。
 抜き足差し足で杏寿郎くんの元へ近づいて、見下ろすように彼を覗き込めば、文机に広げられた紙の上に達筆な文字たちが踊っていた。本当に美しい字だ、と改めて感心していると、杏寿郎くんが「んっ…」と小さく声を漏らす。起こしてしまっただろうかと息を止めるように慌てて自身の口元に手を当てるも、彼は身を捩っただけだった。
 すぅすぅとした寝息が継続していることにほっと胸を撫で下ろし、杏寿郎くんの顔をまじまじと眺める。本当に整った顔立ちだ。初めて出会った時から、素敵な男性に成長するだろうことは想像に難くなかったが、二十歳の青年へと成長した彼の魅力がここまでとは、流石に想像が及ばなかった。
 ゆっくりと上下する大きな背中に近くの掛物をかけてやり、ふわふわとした金糸をそっと撫でる。今目の前にいるこの人が、私が守りたいと思った男の子なのだと思うと愛しい気持ちがどこからともなく滲み出て、引き寄せられるように杏寿郎くんの髪にそっと唇を付けていた。
 自分の行動を認識するのに少し時間がかかり、気づいた時には全身の血が熱く波打った。
冷静になればなるほど、顔に熱が集まってきて、これ以上この部屋にいることは躊躇われた。
――私何してるの!?この大馬鹿もの!
 脳内で自分の変態めいた行動を罵りながら、そっと踵を返して部屋を出る。どうか杏寿郎くんに気が付かれていませんようにと、心の中で何度も念じながら。