守りたいもの


 視界には収まりきらない巨大な屋敷に、私は目を見開く。どうやら杏寿郎くんの正体はとんでもないお坊ちゃまだったようだ。こんな良家のご子息に随分と不自由な生活を強いてしまったものだと、恥ずかしいような申し訳ないような感情が全身に漲る。そんなこちらの様子をまるで気にする様子のない杏寿郎くんは、私の手をとったまま立派な門戸を潜る。お庭も素晴らしい、と観光地の寺のように手入れが行き届いた庭に惚れ惚れしていると、開かれた玄関から「兄上」という声が響く。
「お帰りなさいませ、兄上!」
「うむ、千寿郎、今戻った。変わりはないか?」
「はい!…兄上、そちらの女性は」
 十二歳の杏寿郎くんの丸写しの顔が、不思議そうに私を見た。「兄上」という少年の言葉を聞かなくとも、兄弟であることはすぐに分かった。
「この女性は俺の恩人だ。名は、名前さんという。訳あって、俺の方で預からせてもらうことになった。悪いが、千寿郎にも彼女の世話を頼みたい」
「勿論です。名前さん、私は煉獄千寿郎と申します。さぁ、玄関で立ち話もあれですから、上がってください」
 千寿郎くんという子は、人の好さそうな笑みを口元に刻み、框にあがるように私を促す。
「ありがとうございます。あ、でも、お父様は、大丈夫なのかな?」
 秘密部隊の柱――現代でいう会社の役員のようなものか――であるお父様への挨拶もなしに、人様の家に世話になることが躊躇われた私は、思わず隣の杏寿郎くんをみる。私の愁眉の視線に気が付いた彼は、困ったように眉尻を下げた。
「父には俺から伝えておく。だから気にすることはない。…実は、あまり調子がよくなくてな」
「え…」
 お母様に続いてお父様も、と私の顔が引き攣るのを見て杏寿郎くんは心配するなと頭を撫でる。彼にとって異性の頭を撫でることは、ペットの頭を撫でるそれなのかもしれない。
「父は病気ではない。恥ずかしいことだが、母が亡くなってから酒が手放せなくなってしまってな。今では隊士も引退したのだ」
「そうだったの」
「この話はこれで終いだ!着替えをして夕餉にしよう」
 しんみりとした空気を塗り替えるように、杏寿郎くんは話を転じた。「今日は薩摩芋ご飯です」と口元を嬉しそうに綻ばす千寿郎くんに手をひかれ、私は煉獄家の敷居を跨いだ。

 千寿郎くんお手製の夕飯をご馳走になって、贅沢なことにお風呂までいただいてしまった私は、用意された客間で着慣れない浴衣の帯を締めるのにかなりの苦戦を強いられていた。折角千寿郎くんが気を利かせて準備をしてくれたにも関わらず、なんと情けないことだろう。こんなことなら、亡くなった祖母に着付けを教わっておけばよかった。
「名前さん、入っても大丈夫だろうか?」
「えっ!あ、えっと」
 襖の向こう側から杏寿郎くんの声がする。不意に声をかけられたものだから、心臓が大げさに跳ねる。今、彼に部屋に入られてしまうのは非常に宜しくない。裸に浴衣一枚引っ掛けているだけの見苦しい状態だ。こんな姿を見たら杏寿郎くんも呆れ返ってしまうだろうなと思いつつ、このままでは埒が明かないので私は恥を忍んでお願いする。
「名前さん?」
「…杏寿郎くん。お願いしたいことがあるんだけど」
「なんだ?遠慮せずに何でも言ってくれ」
「あのね、入ってきてくれるのは勿論大丈夫なんだけど、その…私浴衣の帯が締められなくて。よければ…手伝ってもらえるかな」
 自分でも驚くほど情けない声を漏らすと、杏寿郎くんが「失礼する」と静かに襖を開ける。昼間の仕事着――特殊な素材で出来た隊服なのだそうだ――とは違う、浴衣姿の杏寿郎くんに思わずどきりとしてしまう。この時代で男性が浴衣を着ることはそう珍しくはないのだろうが、私の住む現代では夏祭りを除いてお目にかかることはそうない。それだけでも軽く興奮してしまうのに、杏寿郎くんの浴衣姿は妙な艶っぽさを感じてしまう。
「ご、ごめんね。お恥ずかしいことに、自分で浴衣を着ることなんて殆どなくて」
 浴衣の前を合わせて苦い笑いを浮かべる私を見るなり、杏寿郎くんの耳に朱が差した。逃げるように私から視線を逸らすと、音もなく私の傍に寄りそのまま着物の帯をとる。
「着物の前はそのまま合わせていてくれ」
 背後に立った杏寿郎くんの低音が鼓膜に流れ込み、背筋が粟立つ。心臓が可笑しいくらいに早鐘を打ちはじめる。どうしてこんなにも二十歳の杏寿郎くんに胸が高鳴ってしまうのだろうか。
 一人左胸をときめかせている間に、杏寿郎くんは私の浴衣の帯を締め終えたようだ。「出来たぞ」という声に耳を引かれて後ろを振り返り、私の身長を軽々と越えてしまった彼を見上げる。
「貴方のこの首飾り、懐かしいな」
 杏寿郎くんが私の項に手を這わせ、首に飾られた朱色を掬うように手にとった。
「…やっと名前さんにあの時の礼を言うことが出来る。本当に幼少の俺が世話になった」
「お礼なんて大袈裟なこと言わないで。私だってこうやってお世話になってるわけだし、もう貸し借りなしってことじゃだめ?」
「むぅ、貴方がそういうなら仕方あるまいな」
「うん。これからのことはよく分からないけど、お世話になります」
 不安が無い、と言えば嘘になる。だが、帰りたいのか、と言われると不思議とそんな気持ちになれない。それはやっぱり、逞しく成長した目の前の彼が居てくれるからなのだ。
「この奇怪な運命の意は俺には分からない。ともすると、名前さんも俺のように突然元の世に戻ってしまうのかもしれない。だが、今貴方が俺の前にいるのは、疑いようのない事実なのだ。昼間も言ったが、名前さんは俺が必ず守ると約束する。だからもう、安心してくれ」
「…杏寿郎くん。ありがとう…もう、いつの間にそんなに格好よくなっちゃったの」
「…そんな風に言われると、都合のいい勘違いをしてしまいそうだ」
「勘違い?」
「名前さん、明日は街へ出ないか?今度は俺にこちらの世を案内させてくれ」
 私の問いに答えることはなく、杏寿郎くんがどうだろうかと視線を寄越す。当然私に断る理由などない。二つ返事で承諾した私に杏寿郎くんは破顔した。この顔は反則だ、と思う。格好いいのに可愛いいなんて、これ以上私を翻弄しないで欲しかった。
「今日は疲れただろう。ゆっくり休むといい」
「ありがとう。杏寿郎くんも、お休み」
 静かに部屋を後にする、逞しい背中を見送った。あんなに素敵な男性に成長してしまった彼と同じ布団で眠ることなど、もうきっと出来ないだろうと思いながら。