おとぎ話をもう一度


 ぼんやりとテレビを眺めていたが、内容はまるで頭に入ってこなかった。目はめまぐるしく変わる画面を追い、耳は騒々しいほどの音を聞いているのだが、それが意味のあるものとして頭の中に像を結ばなかった。
 今日、祖母の一周忌を終えた。もうあれから一年、と思うと時の流れの速さを感じた。人はこうして一瞬のうちに齢を重ねていくのだと思うと、重い息が胸中に立ち込める。それをを思いきり吐き出して、テレビのリモコンに手を伸ばす。忌引きで休みをもらっていたが、明日からまた当たり前のような現実が待っている。
 テレビ画面には、興奮気味に何かを語る専門家の顔が映っている。どこかで目にしたことがあるような気もしたが、それを思い出すことに何も意味はなさそうだった。電源を切ってソファから重い腰を上げると、室内をこうこうと照らす明かりも切ってベッドに潜りこむ。
 月明かりが、真っ暗な室内をぼんやりと浮かび上がらせた。今日も月が近いようだ。重たくなる瞼に抗うことが出来ずに目を閉じると、鼓膜に流れ込んだテレビの音を漸く脳が認識する。
 彼がこちらに来た日も、いなくなった日も、同じような月が見えてはいなかっただろうか。薄れゆく意識の中、今日は彼に会えるだろうかと私は荒唐無稽な妄想を弄んだ。
『こんなに高頻度で皆既月食が見られるのは非常に珍しいことなんですよ。テレビの前の皆さんも月を見てみてください。真っ赤な満月が見えるはずですよ』

 地の底から沸き上がるような低い唸り声で重たい瞼を持ち上げた私の頬を、生ぬるく粘ついた液体が濡らしていく。その正体が、まるでホラー映画に登場するゾンビのような化け物の口から零れ落ちる唾液だと気が付いた時、戦慄が全身の皮膚を風のように這い回り、駆け巡る。咄嗟に上半身を起こそうとするも、未知の恐怖に膝が震え立ち上がることさえ困難だ。怖い、怖い。今すぐ助けを求めて叫びだしたいのに、喉から漏れた乾いた息は声にならずに空気に溶けた。
 そうだ、これはきっとリアルな夢だ。だって私は先程ベッドに入ったばかりではないか。身を裂かれるように襲ってくる恐怖とは裏腹に、私の頭はどこか冷静だった。この化け物に食べられたところで目が覚めて、今日も朝から思い脚を引きずり出勤だ。どうせなら、もう少し幸せな夢を見たかった。
 凄惨な野獣のような唸り声が轟くと、人をまるごと喰ってしまいそうな大きな口と鋭い犬歯が視界を覆う。襲われる。食べられる。死んでしまう。強く目を閉じ、覚醒までの一瞬の苦しみに耐えようとした私の鼓膜を力強く鋭い声が突き抜けた。
「――不知火」
 予想していた苦痛は訪れず、私は地面に倒れ込んで再び瞼を持ち上げる。背中から伝わる地面の冷たさが現実味を帯びている気がして怖くなる。
「炎柱!この民間人は無事です。怪我もないようです」
「うむ、そうか!間に合ってよかった」
「ですが、なにやら妙な身なりをしております。気配からして鬼ではないのですが、この辺りの者ではないのでしょうか」
「どれ、見せてみろ」
 ぼんやりとした頭が、慌ただしく繰り広げられる会話を拾う。目覚めていない所をみると、私はこの夢の中で何者かの手によって助けられたのだろうか。それともこれは現実なのか。思考を止めた脳がその答えに辿り着くのは不可能だ。インクをぶちまけたような闇の中の赤黒い月だけが、不気味なほどくっきりと浮かんで見えた。
「……貴方は」
 ぐったりとした身体を抱え起こされた私の視界に飛び込んできた人物の瞳に、吃驚の色が揺れた。
――名前さん。
 彼の唇は確かに私の名前を紡いで動いた。君は…まさか…。
 私の声は絞り出すような音が微かに漏れただけだった。何度か叫ばれる自分の名前を聞きながら、私は意識を手放した。
 
 目を開けると見慣れない天井が目に入る。まだ夢でも見ているのだろうかと布団の中で身体を捩ると、視界を端正な顔が覆った。
「む、目が覚めたか!」
「っ…!」
 こちらを見下ろす二つの大きな瞳は私が意識を失う前に見たそれだ。勢いよく身体を起こして周囲を見れば、ここはどうやら診療所のようだった。病院で嗅ぐあの独特の香りが揺動する。備え付けの寝台に寝かされていたであろう私は、漸くベッドの傍らで心配そうな視線を注いでくれている人物へと視線を向けた。
「…名前さん…やはり貴方は名前さんなのだな」
 目の前の彼は、懐かしそうに私の名前を呟いた。立派な大人の男性に成長した彼は、私が記憶している姿からはかけ離れていたけれど、少し癖のある金糸に太陽のような大きな瞳は特徴的で忘れようがない。
「……うそ…でしょ」
「俺は――」
「杏寿郎くん、なの?本当に?でも、でもっ…」
「名前さん…会いたかったのだ、ずっと。貴方を忘れた日はなかった」
 人生二度目の青天の霹靂に狼狽していると、杏寿郎くんはあっという間に私を胸に引き寄せた。記憶よりもずっと大きな胸の中に私はすっぽりと包み込まれてしまう。薬品の香がたちまち杏寿郎くんの匂いに塗り替えられる。少し早いリズムを刻む心臓は夢と一蹴するにはやけにリアルだ。
「これ…私が見てる都合のいい夢だよね?」
「俺も狐につままれたような気持ちだ」
 杏寿郎くんの胸から顔をあげ、視線が絡めば彼は出会った頃のように破顔した。その顔には面影がたっぷりと残っている。
「…杏寿郎くん、随分大きくなったんだね」
「あれからもう八年が経った。名前さんは全然変わっていないな」
「うん、私の方では杏寿郎くんが居なくなってから、そこまで日は経ってなかったから。…でも…なんでこんなことが…」
 科学的に説明のつかないことが自分の身に起きて戸惑う傍ら、頭のどこかでこんなことがまた起きるのではないかと考えていたのも事実だった。だって実際に私は、杏寿郎くんが突然現れて消えるという摩訶不思議な体験したのだから。だから私は今、こんなに冷静でいられるのだ。勿論理由はそれだけではない。自分のことを知る人が一人居るというだけで、こんなに安心感が生まれるものなのだと、私は今日身をもって知った。
「分からない。俺が名前さんの住む世に行ってしまった時のように、煉獄家で見つけた例のものが関係しているのかもしれないが…。正直自分が何故こちらに戻って来られたのかもよく分からないのだ。貴方に別れを言えず仕舞いになってしまったことを、とても後悔していた」
 その謎に関しては、私も図書館で四次元空間のタイムスリップについて調べてはみたが有力な情報は得られていない。時空を繋げるアイテムが煉獄家の蔵に眠っていた朱色の勾玉で、その片方を私が相続して持っていたから、というのがやはり一番考えるには有力な説なのかもしれない。
「うん…。私もその謎は杏寿郎くんがいなくなってから少し調べてみたけど、結局よく分からなくて。最近は、都合のいい夢だったんじゃないかとも思い始めてたんだけどね」
 顎に手をあててうんうん唸る私を、彼はもう一度胸の中に収めた。
「…夢を…見ているようだ」
 私の耳元で呟く杏寿郎くんの低音は間違いなく大人の男の人のもので、嫌でも彼を大人の男性として意識せざるを得なくなる。私の心臓が早鐘を打ち、顔に熱が集まってくる。
「こ、これから私どうしたら」
 気恥しくなって、誤魔化すように早口で言葉を紡ぐと、杏寿郎くんは決まっているだろと私の頭を撫でた。
「俺が言ったことを忘れてしまったか?」
――じゃあ、もし私が杏寿郎くんにお世話にならなきゃいけないことがあったら、その時は宜しくね」
――はい、勿論です!俺が名前さんを守ります
 あの日、彼が精一杯言ってくれた言葉を思い出す。杏寿郎くんは八年という月日が経ってもなおあの約束を忘れずにいてくれたのだろうか。
「…勿論、覚えてるけど。でも、あれはほんの冗談のつもりだったし…。本当にいいのかな」
「いいもなにも、あの時約束したはずだ。こうやって」
 杏寿郎くんが私の手をとり小指を絡めた。そう。確かに私達はあの日指切りげんまんで約束をした。あんなに小さかった掌は、もう私の手を包み込んでしまいそうなほどに逞しくなっていた。
「杏寿郎くん…。そんなことまで覚えてたの」
「そんなことではない。俺にとってはとても大切なことだ。やっと貴方に恩返しが出来る」
 杏寿郎くんの言葉に、目頭に熱いものが込み上げてくる。こんなにも立派になった杏寿郎くんを見せつけられてしまえば、彼が過ごしてきた八年という月日の長さを感じてしまう。彼は一体、どんな人生を送ってきたのだろうか。
 それはまたおいおい聞くとして、まずは引き戸から顔を覗かせて恐る恐るこちらの様子を伺っている可愛らしい女の子達の要件を確認した方が良さそうだ。

 問題なさそうですね、と診察を終え上品な笑みを唇に浮かべた女性に、私はぺこりと頭を下げた。彼女は、胡蝶しのぶさん。私よりも若いだろう妙齢の彼女は、この立派な診療所の当主なのだそうだ。現代で言うところの女医さんと思って、まず間違いなさそうだ。
「さて、それでは煉獄さんをお呼びしましょうか」
 明らかにこの時代には似つかわしくない出で立ちの私を、胡蝶さんは特に気にする様子もない。杏寿郎くんがどこまで事情を説明してくれているかは分からないが、何かを聞かれてもきっと上手く説明することは出来そうもないので、今の私には有難いのだけれど。
「それにしても驚きました。煉獄さんが血相を変えて屋敷に飛び込んできたのもそうですが、名前さんのお顔を拝見した時は」
 そういえば、といった感じで胡蝶さんが言葉を続けた。一方私は彼女の言葉の意味を推し測る。
「私の顔…ですか」
「ええ。幽霊かと思ってしまいましたよ。煉獄さんからは、もう会えない方だと聞いていたものですから」
「それはどういう」
「――胡蝶様!急患です、お願いいたします」
 私の言葉は、扉の向こうから聞こえた声と、慌てて廊下を掛けるばたばたとした複数の足音により続かなかった。このお屋敷は、日本でいう救急外来のような役割も担っているのかもしれない。ともすると、重傷者も運ばれてくるのではないか。
「すぐに行きます。名前さん、すみませんが続きはまた次の機会に。頭を打っているようですので、念のため一週間後また屋敷にきてくださいね」
 そよ風のような優しい声で告げると、胡蝶さんは病室を後にした。少しして杏寿郎くんが病室の引き戸を開けたので、私は自然と頬が緩む。
「無事診察は終わったのだな。そこで胡蝶に聞いたが、特に問題ないようで安心した」
 こちらに近づいた杏寿郎くんが、瞳に安堵の色を滲ませて私の髪をそっと撫でる。再会後の彼のスキンシップが多いのは、私の気のせいではないはずだ。肋骨の内側が疼く。こんな子だっただろうかと疑問符すら浮かんでしまう。
「頭を打っているから、一週間後にまた来て下さいって」
「そうか、承知した。また俺が連れて来るから安心してくれ。…外に馬車を呼んだのだが、玄関まで歩けるか?」
「馬車?」
「名前さんの住んでいた時代のように、汽車…電車も多くはないからな」
 杏寿郎くんが悪戯っぽく言ってのける。あぁ、やっぱり目の前のこの人は、私が一緒に過ごした彼なのだ。乗心地は保証できないと続けた彼に、私は小さく首を振る。
「気を遣わせちゃってごめんね。…あの、私、本当にいいのかな。やっぱり杏寿郎くんも迷惑なんじゃ…」
「迷惑なものか、そう何度も言わせないでくれ。名前さんは俺の生家に来るといい。俺が必ず守ると約束する」
「杏寿郎くん。生家ってことは、確かご両親と弟さんが」
「…母は、俺がこちらに戻って間もなく亡くなったのだ。もともと病気がちだったからな」
 溌溂とした表情に、ほんの少しだけ深い翳が落ちる。
「そうだったんだ…。ごめんなさい、辛いことを思いださせて」
「いや、気にしないでくれ。人間の死は抗えない。遅かれ早かれ人は死ぬ」
 まるで死がすぐ隣にあるような言い方をする杏寿郎くんに息を呑む。いつかの夜、彼が話してくれた「鬼殺隊」とは、そういう場所なのだ。
「立ち止まってはいられないのだ。亡くなった人の分まで、残された俺たちは精一杯生きなければならない。だからそのように、悲しそうな顔をしないでくれ」
 私はそんなに情けない表情をしていたのだろうか。杏寿郎くんが苦笑して、寝台の端に腰掛けていた私の手をそっととった。