騎士は夜に消ゆ


 杏寿郎くんが私の元にやってきて、早いものでもう半年が経とうとしていた。最初はどうなることかと思いきや、私達の奇妙な二人暮らしは、意外にもどうにかなってしまっているから不思議だ。そうかといって、このまま永久に戸籍のない彼をそばに置いておくことも出来ないわけで、最近の私はどうしたものかと頭を捻らす毎日である。
 問題を先送りにするのは私の悪い癖だ。しかし、杏寿郎くんのいるこの生活が私の日常になりつつある今、彼が居なくなることを考えると、まるで心が風に吹かれたかのように揺れた。たった二人だけで浮説のような秘密を共有する私達の関係は、今や鉄よりも頑丈で強固なものになっていた。
「さ、杏寿郎くんも私に遠慮なんかしないで沢山食べるんだよ」
「はい!」
「食べ盛りなんだからね。今日はお給料日だったし、豪遊しちゃおう」
 私達はいただきますと手を合わせ、食指を動かす目の前の料理に箸をつける。家族連れも多い近所の子洒落た洋食屋で、オムライスを食べる杏寿郎くんはもう大分この時代の食事にも慣れた様子だった。
 懐が温かい私は、ワインでも飲んでしまおうかとメニューに目を走らせていると、急に食事の手を止めた杏寿郎くんが珍しく物思いに沈んだような表情でこちらを見る。どうしたの、と目で物を言う。
「…名前さんは、俺なんかと一緒にいても大丈夫なのですか」
「え?」
 予想外の杏寿郎くんの言葉に思わず目を見開く。言葉の意味を推し測っている間に、彼は続けた。
「俺の住む時代では、名前さんの齢になれば、縁談の一つや二つあるものです。…もし名前さんが俺のせいで、その、そういう人を作れないのであれば」
 杏寿郎くんの頬がみるみる紅潮するので、私の頬もつられたように朱が注がれる。彼はおそらく、嫁にも行けず縁談の一つの話も舞い込んでこない私の行く末を心配してくれているのだ。
「心配してくれてありがとう。でもね、杏寿郎くん。この時代はね、縁談の方が希少価値があるの。私の年齢で結婚してない人だってざらにいるし、全然気にしなくていいんだよ」
「そうなのですか?」
「うん」
「でも、お慕いしている方は、いないのでしょうか?」
 相変わらず紅葉を散らしたように頬を染め、杏寿郎くんが言い辛そうに私に視線を送る。子犬のように可愛らしい彼に思わず笑みが漏れ、抱き枕のようにぎゅっと抱きしめたくなる衝動をなんとか抑える。その代わりと言ってはなんだが、彼の美しい金糸をわしゃわしゃとかきまわす。
「ふふ、今は杏寿郎くんのことしか考えられないかな」
「名前さん、揶揄わないでください!俺は真面目に言っています」
「揶揄ってないよ。本当にそういう人はいないの、だから安心して」
 杏寿郎くんは眉間に皺を寄せて不服を現したが、暫くすると食事の手を再開した。もし、成長した彼と出会っていれば、祖母のように杏寿郎くんと恋に落ちることもあったのだろうか、とふと考えてしまった自分は、大分疲れが溜まっているのだろう。

「今日も美味しかったね」
 杏寿郎くんが来てからというもの、「美味しい」という言葉を、私は度々口にするようになったと思う。一人でする食事は酷く味気ないのに、二人になった途端、まるで極上のご馳走を食べているような気持ちになるから不思議だ。いや、杏寿郎くんがいつも美味しそうに食べてくれているからなのかもしれないが。
「はい!いつか俺も、名前さんに恩返しが出来たらいいのですが」
「だから、それは前も言ったでしょ。もし私がお世話にならなきゃいけない時がきたら、思いっきり甘えさせてもらうから、覚悟してね」
「は、はい!」
 目をキラキラさせて頷く杏寿郎くんの手をとって、二人仲良く歩いていると、前方から千鳥足の男性が歩いてくるのが目に入る。泥酔している様子であり、絡まれでもしたら面倒だ。私は咄嗟に杏寿郎くんの前に出て、彼を庇うように歩を進める。すれ違いざま、一瞬胸の鼓動が早まったがそうドラマのような展開は起こらなかった。溜まった息を吐きだして、「ごめんね」と杏寿郎くんに笑いかけた所で、なんとドラマが始まる。
「おい、姉ちゃん。トイレどこにあるか教えてくれねぇか?」
 通り過ぎたはずの男の声が背後から鼓膜に響く。私はとにかく無視を決め込み、杏寿郎くんと繋いだ手を強く握り直して、振り返らずに足を速める。
「聞こえねぇのかよ、もう漏れそうなんだよ」
 背後の男の声が大きくなって、気配を感じた時には行く手を阻まれていた。
「ほら、もう漏れそうだろ」
「っ…!!」
 私は堪らず声にならない息を漏らす。前方に立ち塞がった男が、あろうことかスラックスから自身のそれを取り出してこちらに見せつけていたからだ。
 どういうわけか幼少の頃から、変質者に遭遇するのが私の才能――勿論そんな才能はいらないのだけれど――だった。当時の不快な記憶が走馬灯のように蘇り、地面と足が接着剤でくっつけられてしまったかのように、その場から動けない。呆然と蒼ざめる私に気を良くしたのか、男はなんとそれを私に擦り付けてきた。
「なんだよ、男の性器に興味あんのか?もしかして処女なのか」
 そんなわけないでしょ!!
 という私の怒号は息となって空気に溶けた。隣で手を握っていたはずの杏寿郎くんが、私達の間に割って入って男を突き飛ばしてしまったから。相手の男が酔っぱらいだったからなのか、杏寿郎くんが武道のセンスに溢れているからなのかは定かではないが、よろけた男は地面に寝転がるようにして伸びてしまった。
「名前さん、大丈夫ですか」
 息を弾ませてこちらを振り返った杏寿郎くんが、不安と焦燥を湛えた瞳で私をみる。
「だ、大丈夫…。杏寿郎くんは?怪我はなかった?」
「俺は大丈夫です。よかった、貴方に怪我がなくて」
「もう、ダメだよ。危ないから、あんなことしちゃ」
「心配には及びません。武の道は、生まれながらにして俺の使命ですから」
 今度は杏寿郎くんが私の手をとって、行きましょうと腕を引くように歩を進める。揺るぎない決意を灯す彼の瞳の裏には、どんな真実が隠されているのだろうか。

「ねぇ、杏寿郎くん。…今日、ありがとね」
 一人暮らしにしては少し大き目のセミダブルのベットの中で、私は隣で横になる杏寿郎くんに声をかけた。生憎一人暮らしのこの部屋には来客用の布団もないので、彼が来て半年間、夜は一緒のベッドで就眠していた。
「いえ、当然のことをしたまでです」
「…さっき、『生まれながらにして俺の使命』って言ってたよね?…あれって、詳しく聞いてもいいものなのかな」
「え…」
 消灯した暗いベッドルームで姿が見えない杏寿郎くんの、はっと息を呑む気配がした。
「あ、ごめんね。言いたくないなら聞かないよ」
「いえ、言いたくないわけではありません。…ただ、信じてもらえないかと思って」
「この期に及んで信じられないことなんて、多分そうないと思うけどな」
 だから遠慮しないでよ、と続けた私に安堵したのか、杏寿郎くんはぽつぽつと煉獄家やその家業について話してくれた。
 人を喰らう鬼。それを討伐するための秘密裏の組織、鬼殺隊。鬼殺隊最高位の柱を代々襲名している煉獄家と現役の杏寿郎くんのお父様。煉獄家に代々伝わる呼吸法。まるでフィクションの小説のような話だと思った。
「…やはり信じられないですよね」
 全てを話終えた杏寿郎くんが、何も言わない私に諦念を滲ませた声でぽつりと呟く。
「そんなわけないでしょ」
 おそらくしょんぼりとした顔をしているであろう杏寿郎くんの頭を引き寄せて、彼を胸にすっぽりおさめた。
「名前さん!」
 腕の中でまごまごとする杏寿郎くんにお構いなしに、私は言葉を続ける。
「こんなに小さいのに、偉いな、凄いなって思っただけ。私が杏寿郎くんと同い年の時なんて、恥ずかしくてとても言えたもんじゃないよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。杏寿郎くんならきっとなれるよ。その立派な柱、ってやつに」
 杏寿郎くんが元の世界に戻れる確証もないこの状況で、こんなことを言うのは無責任なのかもしれない。それでもなぜか、重くなって閉じられた瞼の裏側に、成長した彼の姿がぼんやりと浮かんだ気がしたのだ。
 
 すっかり遅くなってしまった、と、私は駅から自宅へと続く道を急ぐ。夜も深まり、いつもであれば闇に沈む寂しい帰路が、月光のもとに青白く浮かび上がっている。今日はとても月が近いようだ。
 私の右手には、片手では持ちきれない程の紙袋が揺れる。中にはご当地土産が隙間なく詰まっていた。杏寿郎くんの喜ぶ顔が目に浮かび、つい口元が綻んだ。その地域の美味しいものに巡り合えるという意味では出張も悪くない。
そうはいってもやはり泊りがけの出張は大変だ。一人暮らしならまだしも、現在は奇妙な同居生活を継続中であり、この半年で彼を一人にしたことがなかったものだから、内心ひやひやした思いも無いわけではなかった。杏寿郎くんのようなしっかりした子であれば、問題ないと思うのだけれど。
 それよりも、杏寿郎くんのこれからのことを考えなければならない。色々調べてみると、この日本においても無戸籍者がいるのだそうだ。もし彼がずっとこの世界にいるのだとしたら、その人生を私と共に歩むことになるだろう。私はそれでも構わなかった。泣き言一つ言わずに自分の運命を受け入れようとする杏寿郎くんを私が守っていきたいと思った。
「ただいまぁ」
 自宅のマンションについた私は、玄関のドアを引きながら自身の帰宅を知らせ、「おかえりなさい」の声を待つも、一向に返事はない。まるで隙間風が漏れているような寒々しい空気を肌に感じる。ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
「杏寿郎くん!」
 ヒールを脱ぎ捨てて勢いよくリビングへ駆け込み杏寿郎くんの名を呼ぶが、自分の甲高い声が耳に刺さっただけだった。ガラスケースのようにしんと静まり返った狭い部屋に、私の乱れた息だけが虚しく響いた。
 そこに、杏寿郎くんの姿はなかった。
 どこかに出かけているだけかもしれない、と私はパニックに似た焦燥感を胸の奥へと押しやって慌てて玄関へと引き返して外へ出る。まるで尻に火がついたみたいに家の周りを走り回り杏寿郎くんの名前を呼ぶも、期待した返事はない。それでも私は足を動かし続けた。時折すれ違う人が、怪訝そうな視線を私に向けているのも気にならないくらい、私は必死だった。
 どのくらいそうして近所を探し回ったのだろうか。すっかり息が上がった私は、暗く冷たいアスファルトに崩れるように膝をつく。首元に手をあて呼吸を整えれば掌に冷たいものが触れ、はっとして空を仰ぐ。まるでこちらを嘲笑うかのような赤黒い月が、妖しく私を見下ろしていた。
 突然私のもとにやってきた杏寿郎くんは、この日、突然私のもとから姿を消した。