思い出ひとつ


「杏寿郎くん、準備出来た?」
「はい!名前さん」
 袴ではなく洋服に身を包んだ杏寿郎くんの手を取って、私達は最寄り駅までの道を歩く。子供用の服は彼と一緒に買いに行った物だ。まさかこの時代に、袴で街をうろつかせるわけにはいかない。杏寿郎くんの首を飾るお揃いのネックレスが、太陽の光で微かに輝く。祖母の遺品と対になるその朱色の勾玉は、この奇妙な邂逅に十中八九影響を与えているはずだ。そんな大切な物を無造作に放置しておくことも出来ず、こうして肌身離さず身に着けられるよう、ジュエリーショップでネックレスに仕立てて貰ったのだ。
 結局あの日、私は警察には出向かなかった。神の悪戯なのかは分からないが、不思議な力が働いているのを感じずにはいられなかったからである。祖母の話も加味されて、杏寿郎くんが私のもとに辿り着いたことも宿命的なものだったのではないかと最近では思うようになっている。
 私の脳をフル回転させて導きだした結論はこうだ。
 大正時代の世界線と私の生きるこの時代の世界線が、朱色の勾玉が引き金になって四次元空間を介して繋がった。
口に出せば思わず自身でも鼻で笑ってしまいそうになるが、繋いだ手から伝わる杏寿郎くんのお日様のような体温が、今この空間が現実であることを証明しているのだから仕方がない。
 色々と問題が山積みなことは理解しているが、人間は困難にぶち当たってもなんとか乗り越えていける生き物だ、ということを社会人になってから嫌という程経験した。きっとこの奇妙な状況もなるようになる…のではないだろうか。
 彼がこちらの世界に来て早二週間。私の適応力は大したものだと自負する一方で、杏寿郎くんの凄まじい環境適応能力にも舌を巻かざるを得なかった。こんな小さな子がたった一人異国――この場合は異国ということにするが――の地で、見ず知らずの女と生活する淋しさや苦痛は想像に難くない。それなのに杏寿郎くんは泣き言一つ言わないで、まるでこれまで一緒に生活してきたかのように、この時代にも私の生活にも溶け込んでいた。
「名前さん、今日は何処にいくのですか?」
 電車に乗り込みシートに腰をかけると、すっかり電車にも慣れた様子の杏寿郎くんが隣に座る私の顔を興味深そうに見上げる。当然ながら私が暮らすこの時代には、彼が目にしたことがないもので溢れ返っていた。私達の生活に溶け込むように存在している文明機器に、杏寿郎くんがいちいち興奮して慌てる様子が可愛くて可愛くて仕方がなかった。私のこの気持ちは、多分姉か母親のそれなのではないかと思う。
「今日はね、美味しいものが沢山売ってる楽しい場所」
「美味しいものですか、楽しみです!」
 頬を染めて破顔する杏寿郎くんと二十分程電車に揺られ、私達が辿り着いたのは都心中枢の駅に根を張るように店舗を連ねるデパ地下だ。この広大な売り場を見て、ワクワクしない人間がいるのなら是非ともお目にかかりたい。
「な…なんですかこれは…」
 食指を動かす食品たちが陳列されたディスプレイに視界を埋め尽くされた杏寿郎くんは、大きな双眸を見開いて興奮した様子で口を開いた。
「ふふ、すごいでしょ?杏寿郎くん、食べたいもの選んでいいよ」
「そんな…俺は大丈夫です。ただでさえ、ご迷惑をおかけしている身」
「それは言わない約束でしょ?私も色々美味しいもの食べたいの、付き合ってよ」
「ですが…」
「じゃあ、もし私が杏寿郎くんにお世話にならなきゃいけないことがあったら、その時は宜しくね」
 自分で言っておきながら、そんな日が訪れることがあるのだろうかと考える。私の手をぎゅっと握りしめるこの少年は、いつか私の元からいなくなってしまうのだろうか。
「はい、勿論です!俺が名前さんを守ります」
 たった十二歳の少年の力強い声が鼓膜を揺らし、私の意識を引き戻す。頬を染めて小さく叫ぶその姿は、さながら小さな騎士のようだ。
「うん、じゃあ約束」
 杏寿郎くんの目線に合わせてしゃがみ込み、私は彼にそっと小指を差し出した。嬉しそうに頷いて私の小指に絡められた彼の体温を確認し、私達はデパ地下を堪能した。

「あぁ、美味しかったねぇ」
「名前さん、食後に寝転んでいると牛になってしまいますよ」
 デパ地下で購入した大量の総菜やデザートを全て腹に収めてソファに寝転ぶ私に、杏寿郎くんが呆れた様子で声をかけてくれる。
「杏寿郎くんは相変わらず厳しいなぁ。ね、夕飯美味しかった?」
 母親のような小言を言う杏寿郎くんに向かってぺろりと舌を出し、身体を起こした私は彼に問いかける。すると杏寿郎くんは太陽のような瞳をさらに煌めかせ興奮したように答えてくれる。
「はい、とても美味しかったです!とくに、薩摩芋の甘味が絶品でした」
「大学芋だね。うん、あれ美味しかったね。私も大好きなんだよ」
「はい…あのような物は母も作ってくれたことがなかったので」
 「母」とこぼした後の杏寿郎くんの瞳が一瞬翳ったのを見逃すことが出来なかった。明るく振る舞っていてもまだ十二歳の少年だ。寂しくないわけがないのだ。
「杏寿郎くんのお母様は、きっと料理も上手な素敵な人なんだろうね」
 ソファから少し離れた所に正座をする杏寿郎くんを手招きし、私はもう何度撫でたか分からない金糸に手を滑らす。
「あの…、はい。母は、とても優しく強い人です」
「杏寿郎くんを生んでくれた人だもんね。お父様はどんな方なの?」
 初めて聞く杏寿郎くんの家族の話に興味が湧いて、私は思わず質問を重ねる。話すのが辛ければこれ以上聞くのはやめにしようと、彼の表情を伺うもその表情はどことなく誇らしそうだった。
「父もとても情熱的な人です。強く、優しく、いつも俺と弟に剣の稽古をつけてくれます」
「杏寿郎くんには素敵なご家族がいるんだね。……寂しいよね、帰りたいよね。…ごめんね、何もしてあげられなくて」
 こんな弱気なことを言えば杏寿郎くんが気を遣うだろうことは分かっていたけれど、家族に思いを馳せる彼を見れば、瞼の裏に熱いものが滲んでくる。私だけの力では海とも山ともつかないこの状況がもどかしく、例えようのない無力さに胸が苛まれる。
「名前さん…」
 声を潤ませ項垂れる私の背中を、杏寿郎くんがさすってくれる。本当にどこまでもしっかりした子なのだろう。これではどちらが子供か分かったものではない。
「……寂しくない、と言えば嘘になるのかもしれません」
 呟くような杏寿郎くんの声に、私は眦に溜まった涙を拭ってゆっくりと顔を上げる。
「ですがこれも自分の運命と受け入れるしかないと思っています。…それに、俺には名前さんが居てくれますから心強いです」
 私を真っ直ぐに見つめる杏寿郎くんが、引き結んだ口元に微かに笑みを湛えて頷いた。
「杏寿郎くん」
「それより、名前さんのご家族の話を聞かせて欲しいです」
「え…私の?煉獄家みたいに大層なものじゃないけど。あ、じゃあ写真でも見せようか」
 十二歳の男の子に気を遣わせてしまったと内心忸怩たる思いでいっぱいになりながらも、杏寿郎くんの強さと優しさに甘えてしまった私は立ちあがり、収納棚から小ぶりのアルバムを取り出した。下手の横好きだがカメラを趣味にしている私は、ズボラな性格の割には撮り溜めた写真をきっちりとアルバムに収めていた。
「恥ずかしいけど、これが私の家族だよ」
 杏寿郎くんの傍に再び腰掛けて、家族の写真を披露する。
「これは…色彩豊かなのですね」
 私の家族は二の次で、別の所に衝撃を受け目を丸くする杏寿郎くんに私は思わず吹き出した。確かにそれは最もな感想だ。大正時代であれば、カラー写真は殆ど普及していなかったか、まだその存在自体がなかったのかもしれない。
「そうだよ。今の時代は全部こうやって色がついてるの。今、自分が目にしているこの一瞬を切り取って、思い出にすることが出来るんだよ」
「…俺、名前さんと写真を撮りたいです」
「え…」
「もし俺が元の時代に帰ることがあっても、恩人の貴方の顔を忘れたくないのです。それに…名前さんにも俺のことを忘れて欲しくない」
 まるで私達の別れがすぐ傍にあるような言い方をする杏寿郎くんの頬に、最後の方は朱がさした。
「ありがとう。…私も杏寿郎くんのこと忘れたくないよ。カメラ、持ってくるね」
 自宅では滅多に使うことのない三脚の上に、私はご自慢のカメラをセットした。
「さ、杏寿郎くん、笑って」
「は、はい!」
「ふふ、じゃあ撮るね」
 大きな双眼に緊張の色を滲ませる杏寿郎くんの肩を引き寄せたところで、フラッシュの光とシャッター音が私達を包んだ。
 後日プリントした写真には、今の私と十二歳の杏寿郎くんの零れるような笑顔がしっかりと映し出されていた。