昔語りの証明


「またその話?おばあちゃん、それ何回も聞いたからね」
 私は、プラスチックの湯飲みに注がれたほうじ茶にとろみ剤を入れかき混ぜながら、ギャッチアップされたベッドに横たわる目の前の祖母に苦笑を返す。アルツハイマー型認知症を患っている祖母がこの介護施設に入って、もう一年ほどたっただろうか。月日を追うごとに筋力や脂肪が落ちて小さくなっていく祖母の認知機能は、もうかなり低下していた。
 忙しく働く両親に代わって祖母に育てられた私は、根っからのおばあちゃん子であり、月に一度か二度は帰省して、こうして祖母を見舞っていた。いつか私のことも分からなくなってしまうのではないかとびくびくしているが、今のところそれはない。
 だが最近は、やたらと同じ話を繰り返しそれが荒唐無稽な話でとても信憑性がないので、死期が迫っているのではないかと一抹の不安を感じていた。
「名前ちゃん、だからね、おばあちゃんが死んだらその首飾りは、ちゃんと名前ちゃんが相続するんだよ」
「はいはい、分かってるよ。朱色の勾玉のネックレスだっけ」
「忘れもしないよ。あれは私が丁度今の名前ちゃんくらいの齢だったよ」
 とろみ付きの茶をスプーンで掬って祖母の口元に持っていくも、彼女は小さく首を横に振って拒否するので、私は来客用のパイプ椅子に腰を戻して何十回と聞かされた話に耳を傾けた。
 祖母の話はだいたいこんな感じだ。娘時代に祖母の祖母――つまり私の高祖母――から相続した首飾りによって日本ではあるが自分が知っている日本とは少し違う世に飛ばされた。何者かが、突然別の場所に飛ばされて困り果てた祖母を救ってくれた。一緒に生活するうちに恋仲となったが、ある日突然こちらの世界に戻った、というものだ。
 この話を聞かされて、「認知症は小康状態です」と説明する医師がいるのならば是非ともお目にかかりたい。
「なんでそんな超常現象が起きたんだろうね?」
 趣味で書いている小説のネタにでもしようかと、私は祖母に尋ねてみる。詳しく聞くのは初めてだが、当然答えを期待していたわけではない。しかし珍しく話に喰いついた私を見て、祖母の瞳が少女のようにきらきらと輝いた。
「それはね、首飾りの勾玉が関係しているんだよ」
「勾玉?」
 勾玉とはなんだったか、と私は手元のスマホを操作する。なんてことはない、誰もがどこかで一度は目にしたことがある、アルファベットの「C」に似た形の石ではないか。説明によるとこの変てこな形は、太陽と月を表しているのだそうだ。古来から不思議な力が宿るとされ、魔除けや厄除けとして身につけられていたという。成程、また一つ勉強になった、とスマホに視線を落とす私に祖母は続けた。
「朱色の勾玉は対になっていてね、私を助けてくれた彼がその片割れを持っていたんだよ」
「ふーん。じゃあその勾玉?がおばあちゃんとその彼を引き合わせたってこと?」
 作り話にしてはロマンチックな内容だ、とついつい質問を重ねてしまう。祖母の答えによっては本当に長編小説の一本でも書けるかもしれない。
「おばあちゃんはそう思ってるよ。彼の家には代々伝わる手記があってね。それによると、以前にも同じことがあったって言うんだよ。素敵な人だった、男前でね」
 記憶の中の恋人に思いを馳せてうっとりと恍惚の表情を浮かべた祖母は、まるで娘時代に戻ったかのように可愛らしかった。
「おじいちゃんが知ったら泣いちゃうね」
「やだねぇ、おじいちゃんには秘密だよ」
「分かってる。いい話聞かせてくれてありがとね」
「…忘れもしないよ。あれは私が丁度今の名前ちゃんくらいの齢だったよ」
 そして祖母はまた最初から語り出した。
やはり病気の影響がかなり出てしまっているのだろうと、私は気落ちした息を吐き、暫く祖母の話に耳を傾けた。
 どのくらいそうしていたのか、祖母の声がいつしか寝息に変わる。壁掛け時計は午後八時を指しており面会終了の時刻を告げていた。窓の外はすっかり闇が立ち込めている。
「また来るからね」
 楽しい夢でも見ているのだろうか。どこか幸せそうな表情を浮かべて規則正しい寝息を立てる祖母に呟いて、私はリモコンに手を伸ばす。一日中付けっ放しになっていた病室のテレビでは、数日後に控えた月食について専門家がとうとうと弁じていた。

 あの夜からほどなくして、祖母が亡くなった。付き添っていた母の話では、ふっと糸が切れたような安らかな臨終だったそうだ。覚悟は出来ていたとはいえ、枯れるくらい涙がでた。
 通夜と葬儀を無事に終えた私は、実家から帰宅する新幹線の窓際のシートに腰掛けて、ガラスを隔てた向こう側の猛スピードで流れていく景色をぼんやりと眺めていた。私の住む都心と比べると、驚くほど灯りが少ないこの地域は、月がなければ本当に真っ暗闇といっても過言ではない。しかし今日は不気味な赤黒い色をした月が、地上を墨絵のように浮かび上がらせていた。
 先日祖母の病室で耳に流れ込んできたニュースをふと思い出しながら、首元に飾られたそれに手を這わす。祖母の遺言通り、私は彼女を不思議な世界に導いたという首飾りを形見分けしてもらった。思わず目を惹かれた朱は、太陽が重なった今日の月とどこか似ているような気がした。

「坊や…君は一体…」
 無事に一人暮らしをするマンションへと帰宅して、玄関のドアを開けた私の目に飛び込んできたものは、脳天に雷を落とされたような衝撃的な光景だった。ドアを隔てた向こう側では、上がり框で居住まいを正す袴姿の少年が、大きな瞳に不安の色をたっぷり湛えて私のことを見つめていた。
 一体この子は誰なのだろう。私は夢を見ているのだろうか。それとも、亡くなった祖母が化けてでたとでもいうのだろうか。
 脳へ直接語り掛けるようにフルスピードで思考と状況を整理するも、目の前に突き付けられた現実に、とても処理が追いつきそうもなかった。酷く狼狽し二の句が継げないどころか足がその場に縫い付けられたかのように動くことが出来ない私に、少年は律儀に座礼をし、こちらも尋ねたことすら忘れていた問いの答をくれた。
「俺は、煉獄杏寿郎と申します」

「じゃあもう一度確認するけど、貴方の名前は煉獄 杏寿郎くん。煉獄家のご長男で家族四人暮らし。年齢は十二歳。生まれは大正時代。出身地は荏原群の駒沢村。えっと蔵?で探し物をしていたはずが気付いたらこの家にいた。ここまでは…合ってるかな?」
「はい!間違いありません!」
 目の前の少年が曇りなき眼でこちらを見つめて声を上げる。一方私は掌で顔を覆い、盛大な溜息を吐く。やはりこれは悪い夢なのだろう。先ほどから何度もそう思っては頬を抓ったり頭を叩いたりしているが、一向に目覚める気配はない。
 とにかく状況を確認する必要があると、美しい金糸をもつ可愛らしい顔立ちのこの少年をリビングへ通して話を聞いた所、私の頭は余計に混乱することとなった。
 まず、「大正時代」とはなんだろう。私の記憶が正しければ、それは昭和の一つ前の年号で祖父が生まれた時代だったということだ。次に、「荏原群 駒沢村」とはどこだろう。通勤バックからスマートフォンを出して検索するも、私の住む現代の日本では使われていない地名ではないか。三つ目が一番厄介で「気付いたらこの家にいた」は、もうお手上げ状態だ。
「じゃあもう一度確認するけど…」
 もうこうして一時間、私は杏寿郎と名乗るこの少年へ同じことを繰り返し確認し、自分の混沌とした頭を整理していた。そして漸く三つの可能性を導き出した。
 一つ目は、全て夢。夢オチの展開だ。正直これが一番有難いし、然もありなんだ。
 二つ目は、この少年が記憶喪失か嘘を言っている可能性があることだ。子供を使って同情を誘う新手の詐欺かもしれないし、記憶をなくした子供が私の家に迷い込んでしまった可能性も百パーセント無い、とは言い切れない。
 最後の一つは、タイムスリップのような四次元を介した移動というやつだ。興味があって、大学時代の図書室である研究論文に目を通したことがあった。私達の生活している空間の直ぐ隣には、目には見えない四次元の空間が存在しており、何かをきっかけにして別の時間軸の空間に飛ばされてしまう、というものだ。非常に興味深い内容でありぼんやりとは覚えているが、所詮机上の空論、砂上の楼閣だ。そんなことは実際、ありえないはずなのだけれど。
 でも可笑しなことに最近私は、目の前で起きている事象と似通った信憑性のない話を永遠と聞かされた記憶があった。既に帰らぬ人となってしまった、彼女から。
 いや、やはり一度警察に連れて行くのが得策だ、と頭を振る。
「…杏寿郎くん、お姉ちゃんと警察行こうか?」
 相変わらず居住まいを正して不安そうにこちらを見つめる杏寿郎くんには申し訳ないと思いつつも、私では手が付けられない状況であることは間違いなく、重い腰を持ち上げる。幸いなことに、自宅から十分程歩いた所に交番があるのだ。
「…警察ですか。俺は、何か悪いことをしてしまったのでしょうか」
 私が立ち上がるのを見て、杏寿郎くんが打ちひしがれたように肩を落とす。
「いや、そういうことじゃないよ!杏寿郎くんは何も悪くないの。あくまでも警察に保護してもらうだけ。私なんかより、警察の方がよっぽど頼りになるからさ」
 立ち上がろうとしない杏寿郎くんに視線を合わせて座りこみ、大丈夫だからと問いかけながら少し癖のある金糸を撫でる。育ちのよさそうな見た目通り、物わかりの良い杏寿郎くんは私の言葉にこくりと頷き、武道の作法でよく目にする綺麗な所作で立ち上がる。
 その瞬間、ことり、と小さな音を立て杏寿郎くんの袴のポケットから何かが落ちて、さらなる衝撃が脳裏を突き抜けた。
「これって…」
 私は思わず自身の首を飾るネックレスに手をかける。私のものは、間違いなくここにある。フローリングに落下した朱色の勾玉を拾い上げ、杏寿郎くんとそれを交互に見遣る。
「これは、先程申し上げました蔵で探し物をしていた時に、偶然見つけたものです。ここで目が覚めた時、俺の傍に落ちていたのです」
「嘘…だってこれって」
 困惑した様子で私に視線を注ぐ杏寿郎くんにお構いないしに、私は慌てて自身のネックレスのチェーンを外し、彼の落とした物と重ね合わせる。
「…なんで…。なんで一緒なの」
 私と杏寿郎くんの朱が不思議なことにぴったりと重なり、綺麗な円を形作った。
――朱色の勾玉は対になっていてね、私を助けてくれた彼がその片割れを持っていたんだよ
「……嘘でしょ…」
 先日の若い娘のような表情を湛えた祖母の顔が過り、息のような声が零れおちる。
 呆然としてまるっきり放心状態になった私の瞳に、不安と当惑と緊張を混ぜ合わせたような表情を湛える杏寿郎くんが目に入る。出来れば夢オチであって欲しかった。百歩譲って警察の世話になるのも良しとしよう。
 しかし私の眼前に突き付けられたのは、まるで祖母の荒唐無稽な話に信憑性を持たせるような現実だった。
 タイムスリップ。四次元を介した空間移動。考えられる可能性としては、これが一番有力だろう。