百年越しのラブレター


 無機質な電話の着信音で、引き戻されるように目を開けた。眼前には見知った天井。やはり私は夢を見ていたのだろうか、とぼんやりする頭で枕元のスマートフォンに手を伸ばす。画面のディスプレイには母親の名前が表示されていた。
「あ、名前?仕事前にごめんね。まだ家に居た?」
 通話ボタンをタップすると、言葉とは裏腹にちっとも悪びれる様子のない母親の第一声が鼓膜に流れ込む。
「ん…今起きた所」
「あら、そんなにのんびりしてて大丈夫なの?もう八時よ。昨日の一周忌で疲れたんじゃない?」
「昨日?…一周忌って…おばあちゃんの?」
 母の言葉に脳が覚醒する。
「何言ってるのよ、まだ寝ぼけてるんじゃないの。そうよ!おばあちゃんの一周忌。昨日そっちに新幹線で戻ったんじゃない」
 母の訝し気な声が電話口から聞こえる。予想通りこれは長い夢だった?ではどこからが夢だったのだろう。幼い杏寿郎くんがこちらに来たことも、私が都合よく作りあげた夢物語だったのだろうか。
「あ、そうそうそれでね、電話したのはね…」
 スマートフォンを耳に当て、夢と現実を彷徨う重い頭ごと身体を起こす。たとえ何が真実であろうと、今の私には仕事という現実が待っている。思ったよりも冷静な自分に不思議な気分になって、ベッドを降りる。
「昨日ね、おばあちゃんの遺品をまた少し整理してたら、手紙が出てきたのよ。ほら、名前、おばあちゃんのネックレス譲り受けたじゃない?それと一緒に入っていたものじゃないかと思うんだけど…」
 さも不思議そうに呟く母の言葉に、私の心臓が早鐘を打ち始める。
「かなり昔のものみたいで、随分ぼろぼろなの。それに字が達筆でよく読めないのよ。でもね、…『名前』って文字だけは読めるの。おばあちゃんから何か聞いてない?」
 母が電話の向こうで問いかける。床に足を着いた私は、自分が着物を着ていたことに、今初めて気が付いた。

 あれから随分と日が経った頃、私は電車に揺られていた。窓の向こう側に流れる見慣れたはずの風景が、何故だか別世界のように感じられるのだから不思議なものだ。
 今日の目的地である図書館は自宅から1時間もかからない所に位置していた。大学に併設された巨大なそこは一般市民へも門戸を開いており、休日は勉強熱心な若者や暇を持て余す高齢者などで賑わっていた。
 図書館に入って螺旋状の階段を昇ると、私は一直線に民俗学のコーナーへ足を向ける。林のように並ぶ書架の間を縫って目的の一角まで辿り着いた私は、両手に抱えきれるだけの本を抱えて近くの閲覧席に腰掛ける。
 杏寿郎くんの不思議な出会いの答が、この夥しい本のどこかに隠されているのではないかという一縷の望みを、私は未だに捨てきれないでいた。しかし、半年ほど虱潰しに関係書物を調べたが、未だに何の収穫も得られていなかった。
 まるで昨日のことのように思い出される彼との物語は、私の胸をきりきりと締め付け苦しめ続けた。今日も分厚い書物を開いて湿った目尻を拭う。最近の私は、杏寿郎くんに想いを馳せてセンチメンタルな気持ちになってばかりだと自嘲してページを捲っていると、熱くなる両目が見知った名前を捉えた。
 目を皿にして這いつくばるようにページの文字を追ううちに、一層瞼が膨らんできた。今にも溢れそうになる涙を寸前で堪えながら、切れ目なく羅列する文字を何度も何度も読み返した。それは、現代の民俗学者が書いたある論文だった。その論文の概要にはこう書かれていた。
『昭和の学者、煉獄千寿郎の手記によると、大正時代以前から時空を飛び越えたと考えられる人の行き来が何度か確認されている。その興味深い現象の発生に規則性はない。しかし煉獄は、月の満ち欠けと家財の勾玉が関係しているのではないと考察している。大正時代以降この現象は見られていない。その理由として、勾玉が当時の持ち主と一緒に破壊されたからではないかと煉獄は記している』
 背中にざぁっと鳥肌がたっていくのが分かった。透明な二粒の水滴が瞬きと一緒に弾き出され、閲覧用の机を濡らした。「ぅぅっ」と唸るような嗚咽が漏れて、静かに本を閉じる。私が杏寿郎くんと一緒にいた時間は確かに存在した。しかしもう、二度と彼と邂逅を果たすことは出来ないという事実を突きつけられた気がした。私の首元に揺れる勾玉の片割れは、杏寿郎くんごと無くなってしまったのだろうから。

 どう堰き止めていいか分からないほど呆然とした気持ちで図書館を後にする。周りの形色も物音もぼうっとなって、まるで夢の中を歩いているような私は気づけば浅草に辿り着いていた。彼との思い出を辿りたかったのかもしれない。
 国内外の観光客で賑わう仲見世通りを人波を縫って進む。私の手を引いて優しく微笑む杏寿郎くんは当然ながらここには居ない。余計に悲しい気持ちになって、来るべきではなかったかもしれないと臍を噛むも、脚は二人で訪れた文房具店へと向かっていた。
 文房具店はまだそこにあった。外観は変わってしまっていたけれど、当時の趣を残している気がした。杏寿郎くんと一緒に入った店に、今日は一人で入店する。「いらっしゃいませ」と鈴が鳴るような声が聞こえ、陳列された商品を整えていた妙齢の女性店員がこちらを見て微かな笑みを浮かべた。
「何かお探しですか?」
「あ、えっと……ふ、筆を見たいなって。…奈良筆って」
 特に目的もなかったが、咄嗟にそんな言葉が口を衝いて出た。あの日の杏寿郎くんがそう言っていたからだ。
「奈良筆ですね。凄い、書道をおやりになるんですか?」
「あ、違うんです。最近…手紙をいただいて。その筆字がとても…心に響いたものですから」
 女性が興味深そうな表情を湛えて声を弾ますのを申し訳なく思いつつ、私は正直に言葉を続ける。
「筆で書かれた手紙ですか?いいですね、とても素敵です。最近の意思疎通の手段はSMSやメールになってしまったので、この仕事をしていても滅多にそんな話は聞かないですよ」
 女性が殊更嬉しそうに笑い、筆がディスプレイされている一画へ案内してくれた。「これが奈良筆ですよ」と一本の筆を手渡されると、泣きそうな衝動が喉元からせりあがり言葉に詰まる。目頭が熱くなり鼻の奥が暖かく塞がってきた。
「…大丈夫ですか?」
 目を丸くした女性の心配そうな声が滲む。私は今にも泣きだしそうな顔をしていたに違いない。何か言葉を発すればきっと涙が溢れてしまうだろう。直ぐに筆を突き返して、ごめんなさいの代わりに頭を下げて踵を返す。不審者の烙印を押されるのを承知で慌てて店を出ようとすれば、体から何かが落下していくのを感じた。鼓膜を震わす落下物と床との微かな衝突音。
「お客様!これ、落ちました!」
 言葉に耳をくいと引かれるように振り返れば、女性が床にしゃがんで落下物を拾い掌に乗せたそれをゆっくりと差し出してくれた。瞳に飛び込んできたのは、真っ二つに割れてしまった祖母の形見の勾玉だった。
――肌身離さず身に着けて、それが割れた時には願いが成就するって話だ
 杏寿郎くんと一緒に聞いた店主の言葉が脳裏を過った。その言葉が真実ならば、私のたった一つの願いを叶えてくれるのだろうか。
 しかし、数秒の沈黙は何も起こしてはくれなかった。当たり前だ。彼との邂逅は天変地異にも勝るとも劣らない凄まじいことなのだ。
「この近くに神社があるのはご存知ですか?」
 女性が近くのティッシュを数枚取って私に手渡しながら問いかける。涙は頬をゆっくりと伝っていた。私の挙動不審な行動を訝しむことなく慰撫するように接してくれる彼女に甘えて、礼を述べてティッシュを受け取り顔に貼り付いた水滴を拭う。
「割れた勾玉はそこに返納するといいですよ。今でこそ勾玉神社と言われていますが、昔から勾玉にゆかりがある神社だったんだそうです」
「…勾玉、神社」
 喉から漏れるように出た空気がなんとか言葉を形作る。
「昔、うちの店でも勾玉を商品として扱っていたことがあったみたいで。それで興味があって調べたんですけど。なんだか神秘的ですよね、勾玉って。あ、神社の場所お教えしますね。えっと――」

 文房具店の女性は丁寧に神社までの道順を教えてくれた。その場所は杏寿郎くんと訪れた、あの神社だった。
 目的地に足を向けながら、私はふと目を閉じた。周りの風景はすっかり変わってしまっていたが、頬を撫でる風や鼓膜を揺らす川のせせらぎは、杏寿郎くんと歩いたあの日の記憶を鮮明に呼び起こす。

『前略 名前、元気にやっているだろうか。俺がこうして名前に文を書くことを、どうか笑わないで欲しい。おかしなもので、なぜか名前がこの文を、手にするような気がしたのだ』

 あの日、母から届いた手紙の文章はこんな風に始まっていた。何度も何度も読み返したその内容は、一語一句違わず私の脳に刻まれていた。
――恋文ってこと。…こんな達筆な字でもらう恋文は、凄まじい破壊力だよ
 いつかの自分の言葉が脳裏を過る。全て読み終えなくても、それが熱い恋文なんだとすぐに分かった。

『名前が居なくなってから、こちらはもう一月が経った。まるで長い夢を見ていたかのような不思議な気分だ。名前の居ない日常がこんなにも色褪せて見えることに、俺自身も驚いている。千寿郎も元気でやっている。どうやら貴方が別の世から来たことなど、とうの昔に見破られていたようだ。父は相変わらずだが、よくなってくれると信じている』

 そういえば、千寿郎くんとの会話はあれきりになってしまった。あの日、千寿郎くんが背中を押してくれなければ、私は杏寿郎くんともっと辛い別れをすることになっただろう。そして予想通り、彼は立派な学者となって今世にも名を残していた。お父様と関わる機会は殆どなかったが、二人のお父様なのだ。きっと立ち直ってくれたのではないか。

『俺の話になるが、数日後、任務で汽車に乗ることになった。名前がこちらにいるうちに、俺の時代の汽車にも乗ってもらいたかったが、中々一緒に居る時間を作ることが出来なくてすまなかった。名前と過ごした時間は、俺の人生の中のほんの一部にすぎなかったが、共にあった日を決して忘れることはない。もし、名前も同じように思ってくれていたら嬉しく思う』

 神社の鳥居を潜ると思い出す。生暖かい夏の空気、耳元で揺らいだ女子学生達の声、逞しい背中、触れ合った部分から身体中に伝播した火傷しそうなほどの熱。それは、写真よりも鮮明に私の記憶の中に焼き付けられていた。

『鬼殺隊に居る限り、この命がいつ尽きるかは分からない。この生を全うし、もし、名前の居る世に生まれ変わることが出来たなら、今度こそ俺と共にその人生を歩んで欲しい。俺は名前を最後まで守り抜くと誓う。名前、君を愛している。
 ところで、俺の文は名前の胸を打つことが出来ていただろうか。邂逅を果たした暁には、どうか聞かせてくれ。 草々 煉獄 杏寿郎』

拝殿が近づくと、視界の端に祀られた石を捉える。あの日、杏寿郎くんと神社で目にしたそれは「願い石」として姿形をそのまま現代に残していた。
「――勾玉って、変な形してるじゃん?」
「うん、なんか月と太陽が関係してるんだっけ」
「それもあるけど、二つ合わさると丸くなるでしょ?だから、縁を結ぶって言われてるんだって」
「えー超ロマンチックじゃない!やばいねそれ」
 直前に石に願掛けを済ませた様子の若い女性達の楽しそうな声が耳を突き、今日何度目か分からない涙が突き上がる。周囲に誰もいなくなった「願い石」の御前に膝をつき、雨のように目から零れ落ちる水滴で地面を濡らす。
「…っ…胸を打つどころじゃないよぉ。…っ…ふ…杏寿…郎くん…っ」
 割れた朱色の勾玉を握りしめ、何度も「願い石」に冀う。例えそれが絶対に叶うことがないものだと分かっていても、私はこうして一生願い続けるに違いない。
 世界は濃紺の夕闇に沈み、もう間もなくすれば真っ黒な闇に包まれてしまうだろう。
 人がいないのをいいことに、私は声を押し殺しながら泣き続けた。もう誰も神社に残っていないのかもしれない。水を打ったように静かな空間に響く嗚咽をどうにか静めた時、背後で声が揺らぐ。
「大丈夫か?」
 心配そうに浴びせられた声で、身体がかぁっと熱くなる。まだ人が残っていたのか、それとも宮司が早く帰れと急かしに来たのか、いずれにせよ羞恥で穴があったら入りたかった。
「す、すみません」
 服の袖で涙を拭い伏目のまま勢いよく立ち上がると、手中から勾玉が零れ落ちた。
「…何故君がこれを?」
 心臓を鷲掴みにするような声が耳に飛び込んできた。眼前に立つ声の主の闇で隠された表情が、月明りであぶり出したみたいにうっすら見えてくる。
「……もしかすると、何か知っているのか。…俺も気が付いたら、これが手元にあったのだが」
 太陽のような力強い瞳。夜風にふわりと揺れた金糸。大きな掌に乗せられた二つに割れた朱色の石。私は、この人を知っていた。
 勾玉が再び出会って縁を結んだ。
 明るい月の光が降り注ぐ。そういえば今日は、月食ではなかったか。
(完)