けじめの接吻


 口内に唾液が溜まってくるような温かな香りで目が覚める。同時に、まな板の上にトントンと包丁を落とす小気味好い音が鼓膜に触れた。
 杏寿郎くんの部屋から客間に逃げ帰った私は、再び眠ってしまっていたようだ。障子窓から差し込む朝の日差しが畳に四角い陽だまりを作っており、枕元の時計を見なくとも一日の始まりを認識する。
 気まずいな、と思いながら胸の中を空っぽにするくらいの深い溜息をついて、私はゆっくり布団から起き上がる。布団を三つ折りに畳んで部屋の隅に押しやって、浴衣を脱いで着物に着替える。浴衣以上に上手く結べない帯は見ないふりをして、ゆっくりと障子を開ければ薄い日の光が部屋中に散らばった。
 寝起きには眩しすぎる朝の陽光に目を眇めて、眼前に広がった煉獄家の立派な庭に視線を移す。杏寿郎くんが在宅している時であれば、彼が鍛錬に精を出す時間だ。しかし本日その勇ましい姿は見当たらず、ようやく紅葉の兆しが見えてきた木々の葉が風に揺れているだけだった。
 先ほどの様子からするに、杏寿郎くんが帰宅したのは朝方で、ひょっとするとまだ眠っているのかもしれない。出来れば暫く顔を合わせたくないな、と思いながら台所へと続く廊下を歩く。
「千寿郎くん、おはよう」
「あ、名前さんおはようございます。…もう体調は大丈夫でしょうか?」
 台所を覗き込めば、手際よく朝食の準備をする千寿郎くんが肩越しにこちらを振り返って憂慮の視線を注いでくれる。「風邪がぶり返した」と嘘をついて一日自室に引きこもっていた私を心底心配してくれていることがわかり、なんだか申し訳ない気持ちになった。
「うん、もうすっかり。心配かけてごめんね」
 安堵を大きな瞳に滲ませた千寿郎くんが相好を崩す。「手伝うね」と彼に教えてもらったたすき掛けで準備を整えると、火にかけられた鍋の中身をおたまでかき混ぜる。味噌の香りが胃袋を揺すり、食欲を刺激した。
 よくよく考えれば、もう一日以上何も口にしていなかった。こんな状況でも空腹は感じるんだ、となんだか情けない気持ちになって手をゆっくり動かしていると、ぐつぐつと白くふきこぼれそうなお粥が目に入る。
「あ、こぼれそう!」
 私の言葉よりも一瞬早く、千寿郎くんが火から鍋を引き上げる。土鍋を冷ますように濡れた布巾の上に置くと、溶き卵を注いでいく。卵がふんわりと黄金色に広まって、視覚からも空っぽの胃袋が刺激される。それにしても朝からお粥とは珍しい、と私は単純な疑問を口にする。
「お粥なのにこんなに美味しそうに作れちゃうなんて、千寿郎くんはさすがだね。それにしても、朝からお粥なんて珍しいね」
「実は兄の体調が良くないようなのです。珍しく食欲もないようで。それで、少しでも食べられそうな食事をと思ったのですが」
「え?…杏寿郎くんが?」
 鍋をかき混ぜていた手が自然と止まる。思いがけない千寿郎くんの言葉に、すぐに言葉を続けることが出来なかった。
「はい。朝方任務から戻ったようなのですが。…あ、名前さん、そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫ですよ」
 千寿郎くんが、出来立ての湯気を燻らすお粥を器に盛りながら私を見る。まるで慰撫するような口調は、私が心底情けない顔をしていたことを物語っていた。
「先刻、蟲柱の胡蝶様に鎹烏を飛ばしました。後ほど診察に来て下さるそうです」
「胡蝶さんが?」
 信頼出来る名前に心が少しだけ軽くなる。
「彼女であれば、直ぐに良くしてくれるはずです。では、私はこれを兄に持っていきますので」
 私が持っていく。きっといつもの私であればその言葉を容易く口にしただろう。しかし今日は、当然ながらそれが出来ない。
「…うん。私は、このまま朝食の準備しちゃうね」
 千寿郎くんが少しだけ意外そうな表情を滲ませた。まだ幼い彼に、私と杏寿郎くんの関係は一体どんな風に見えているのだろうか。
「名前さんも後で様子を見に行ってあげてください。その方が兄も元気になると思います」
 過分なお粥が盛られた小さめの器と蓮華を載せたお盆を持ち上げると、やや苦み走った微笑を残して千寿郎くんは台所を後にする。言葉が胸中で複雑に乱反射する。
――少しでも俺のことを思ってくれるのなら…今すぐにこの部屋から出て行ってくれ。
 つい数時間前の場面が、ゆっくりとした映像で頭に再生される。今にも泣き出しそうな杏寿郎くんの表情と切羽詰まった声が、私の心臓をちぎってしまいそうなほど痛くさせた。
「…もう、そんなこと出来ないよ」
 ひとりでに漏れた言葉は、ぐつぐつと煮える味噌汁に吸い込まれるように消えていった。

「傷が原因で炎症を起こしてしまっていたようですね。抗生剤を入れましたからもう心配いりませんよ。発熱もじきに治まると思います。…煉獄さんがお怪我なんて珍しいと思いましたが、新米隊士を庇って負傷されたようですね」
 杏寿郎くんの診察を終えた胡蝶さんが草履に足を通して振り返る。彼女の笑顔はいつ見ても花が咲いたように美しい。
 胡蝶さんが煉獄家を訪れたのは、陽がかなり高くなってからだった。彼女は一人ではなく、可愛らしい少女を一人連れたっていた。まだ中学生ほどに見えるその少女も、杏寿郎くんや胡蝶さんと同じく、鬼殺隊の一員なのだそうだ。こんなに小さな子が、と胸を痛めずにはいられない。
「胡蝶さん、ありがとうございました」
 學校で不在の千寿郎くんに変わって、私は胡蝶さんにぺこりと頭を下げる。
「名前さん、お気持ちは分かりますがそんなに不安そうな顔をしなくても大丈夫ですよ。煉獄さんなら直ぐに良くなりますから」
「あ…はい。そうですよね」
 胡蝶さんが眉尻を下げて苦笑する。優秀な彼女が診察してくれたのだからきっと大丈夫なのだろう。
「…名前さん、何かありました?」
 胡蝶さんの美しい額に、眉間から薄らと影が走る。杏寿郎くんもそうだが、彼女も人の感情の機微にとても敏感な人だとつくづく思う。そして、まるで胸中を全て見透かされているような気持ちになるから不思議なものだ。
「ち、違うんです。ごめんなさい!気にされないでください」
「カナヲ、先に戻っていてくれますか?私は後から追いかけます」
 胡蝶さんが同行していた少女にゆっくり告げる。少女は小さく顎を引いて私に目礼し煉獄家を後にした。彼女の背中を見送ると、胡蝶さんがさて、というように私に向き直る。
「胡蝶さん…」
「少し外を歩きませんか?名前さんもずっと殿方達の中にいたら、息が詰まることもあるのではないですか」
 気遣うような視線に添えて温かい言葉をくれる胡蝶さんに胸が熱くなり、きっと私は行き場のない思いを誰かに聞いて欲しかったのだと気が付いた。
 胡蝶さんと肩を並べて煉獄家の大きな門戸を潜ると民家を抜けて、川筋に沿って歩く。もう少し進めば、いつか杏寿郎くんと訪れた神社が見えてくるはずだった。柔らかい風が頬を撫でた。髪がなびき現代で使っていたシャンプーとは違う石鹸の香りが鼻先をくすぐる。
「何か気にかかっていることがあるのですね」
 胡蝶さんののんびりとした声が耳元で揺らぐ。そういえば、胡蝶さんに「杏寿郎くんの初恋が私である」と教えて貰ったんだっけ。柔和な笑顔を浮かべる彼女は、やはり私の気持ちなどとっくにお見通しなのだろう。
「…どうしたらいいか分からないんです」
「どうしたら、というのはどういうことでしょうか?」
「…私……好きな人がいるんです。多分、出会った時からずっと好きな人」
 まぁ、素敵ですね、と大げさに口にした彼女にちっとも驚いている様子はなかった。
「でも、私は自分の気持ちを言葉にしちゃいけない気がするんです」
「…そうですか。…好きな人に想いを伝えられないというのは、お辛いことですね」
「最近は、彼に出会わない人生の方が良かったのではないかと思うくらい苦しいんです」
「色々とご事情はあるのでしょうが、それは少し違うのではないですか?」
 胡蝶さんの表情は相変わらず春風のように柔らかいが、その口ぶりはしっかりしている。
「名前さんは頭に隕石が落ちる確率をご存知ですか?」
「えっ?隕石…ですか?」
 胡蝶さんの虚を衝いた質問に、私は思わず聞き返す。
「ええ。西洋の学者の話によりますと、百億分の一、なんだそうですよ」
 ぴんとこない数字ではあるが、限りなく零に近い奇跡の確立であることは容易に理解出来た。しかしそれがなんだと言うのだろう。言葉の意味を推し測るように胡蝶さんの整った横顔を見つめる。
「今この瞬間に自分が大切に思う人と出会う確率は、その確率よりもずっとずっと少ないのだそうです」
 まるで奇跡を紡ぐような口ぶりで言葉を続けた胡蝶さんが、目を張った私を見て微笑んだ。彼女の微笑は、どんな言葉よりも多くを語っていた。
「さて、私はそろそろ行きますね。あ、そういえば解熱剤を処方しておきましたので、あとで煉獄さんに飲ませてあげてください」
 それだけ言って、胡蝶さんは瞬時に姿を消した。何気ない言葉のようだったが、私の耳にはまるで選択を迫られているように聞こえて仕方がなかった。

 煉獄家に引き返した私は、もう三十分ほどこうして杏寿郎くんの部屋の前で逡巡していた。彼とひと悶着あったのはまだ数時間前の話であるのに、いくら病人に薬を飲ませるためとはいえ軽々しく部屋に入ることなどあっていいものなのだろうか。額に掌をあて小さく息をついていると、苦しそうな呻き声が部屋の中で揺らいだのが分かった。そんな声を聞いてしまえば無視することは出来なくて、私はそっと襖を開けて部屋の中を覗き込む。
 縁側へと続く障子もぴたりと締められており、日中であるにも関わらず部屋の中は少し薄暗かった。布団に身体を横たえる杏寿郎くんの姿が目に入り、微かに乱れた呼吸が聞こえてくる。
「杏寿郎くん…」
 少しだけ声を張って部屋の主の名を読んだ。もし彼が起きていたら、きっとこの部屋に入ることは出来なかっただろう。しかし私の呟きに答える声はなく、相変わらず不規則な呼吸が部屋の空気を微かに震わせているだけだった。
 ほっと胸を撫で下ろし、私はいつかの夜みたいに影のように部屋に忍び込む。抜き足差し足で杏寿郎くんの眠る布団に近づいて、枕元で腰を落とす。「はぁ、はぁ」という呼吸に合わせて、布団が大きく上下していた。額には玉のような汗が滲んでいるが顔色は悪くなさそうだ。身体が発汗によって熱を放出しているのだろう。私は着物から手拭いを取り出して、水滴を吸い取るように額に軽く押し付ける。
 ふと、胡蝶さんが言っていた解熱剤の薬袋が目に入る。音を立てないように慎重に中身を確認すれば、懐紙に包まれた粉薬が数回分に分けられていた。
――今この瞬間に自分が大切に思う人と出会う確率は、その確率よりもずっとずっと少ないのだそうです
 先程の胡蝶さんの言葉を反芻する。胡蝶さんは奇跡の出会いを大切にすべきだと、そう私に諭していたのだ。
 私は薬袋と一緒にお盆の上に置かれていた白湯を口内に流し込む。続けて懐紙に包まれた一回分の粉薬を取り出して口に入れると、そのまま杏寿郎くんの少し開いた唇に自分のそれを合わせた。咽てしまわないように、ゆっくりと少しずつ生ぬるく苦いそれを送りこむ。  
 今なら分かる。私が風邪に罹った時、唇に感じた溶けてしまいそうな熱はきっと幻なんかじゃなかった。杏寿郎くんもこうやって、私に薬を飲ませてくれたんだ。
 杏寿郎くんの喉が上下して、薬が体内に取り込まれたのが分かった。それなのに私は唇を離すことが出来なかった。自分の両目が溶けだすように熱くなるのを感じ、ぐにゃりと視界が歪んだ。火のような涙が噴きこぼれて、私の頬を伝い杏寿郎くんの顔を濡らしていく。
 私にとっての今この瞬間は、想像もつかないような天文的な数字。だから神様今だけは、素直な私でいさせてください。杏寿郎くんのことが大好きな一人の女として、苗字名前として、彼にキスをすることを許してください。
 滂沱として溢れ出る涙で、いつの間にか口内の苦味が塩味に変わっていた。こんなにしょっぱいキスは生まれて初めてだった。目を閉じれば、杏寿郎くんとの一つ一つの思い出が、まるで昨日のことのように瞼の裏を駆け抜ける。
 杏寿郎くん。素直に気持ちを言えない私をどうぞ怒らないで。でも私は、きっと出会った時から杏寿郎くんに心を奪われていたの。こんな出会いをしていなければ、同じ世界を生きることが出来ていれば、私達はきっと素敵な恋人同士になれたよね。
「…ぅ…っづ」
 胸の奥で何かが砕けたような切ない痛みが起こり、繋がった唇から呻くような自分の嗚咽が零れた。
 その瞬間、後頭部に大きい手が回されて、ぐっと眼前の彼に引き寄せられた。重なっていた唇がさらに密着する。
 涙にぐっしょりと濡れた目を開けば、私が大好きな杏寿郎くんの目と視線が絡む。これまで以上に熱をもった舌に私の舌先が巻き取られると、杏寿郎くんの口内に引き込まれるように絡み合う。
「貪るようなキス」という表現を使うのだとしたら、まさにこの瞬間だと思うほどの激しいキスを送り合い、はっ、はっ、という互いの荒い息遣いが重なって徐に唇が離れる。
「っ…ごめん…ごめんね、杏寿郎くん…っ」
「……それが名前の、答えなのだな」
 ぽとりと零れる雫のように呟いた杏寿郎くんの眦に何かが光った。それが彼の涙だと気が付いた時には、再び唇が合わさっていた。