作り笑いで背を押した


 先日の体調不良が嘘のように心も身体もすっきりしていた。薬が効いたのだろうか。情けないことに記憶を辿っても、あの日のことはぼんやりとしか思い出せなかった。杏寿郎くんの熱い唇と舌の感触が残っているような気がしないでもないが、普段と全く変わらない様子で接してくる彼を見れば、あれは熱と痛みで濁りきった私の脳が見せた都合のいい夢だったのだろう。
 すっかり自分の仕事となった煉獄家の玄関掃除を終えた私は、額に滲む汗を拭って日本晴れの空を仰ぐ。まだまだ残暑は続いているが、頬を掠める風は秋の温度に変わっていた。こちらにきて早いもので一か月が経とうとしていた。漸くここでの暮らしも慣れてきた私は、反対する煉獄兄弟を押し切って、微力ながら家事を手伝わせてもらっていた。家事えもんの千寿郎くんには到底及ばぬスキルだが、私が家事を手伝うことで彼の負担も少しばかりは減るようなので、居ないよりはましだろうと常々自分に言い聞かせる。
 今日は家事を済ませたら、杏寿郎くんと宇髄さんのお屋敷にお邪魔することになっていた。一月も経ってしまったが、宇髄さんの奥様達とパンケーキを作る約束を果たしにいくのだ。
「ごめんください。…おや、新しい女中さんかい?」
 早く屋敷の拭き掃除を終えて準備をしなくては、と気合を入れて門戸から踵を返した所で、私は突然の訪問者に呼び止められる。肩越しに振り返れば、年配の住職が人の好さそうな笑みを浮かべて立っていた。
「あ、あの、私は…」
 住職の質問に思わず言い淀む。言われてみれば、私はどういう立場なのだろう。杏寿郎くんは「恩人」なんて言ってくれるが、実際はただの居候だ。目の前の住職は特に訝しむ様子もなく、柔らかな笑みを湛えて私の答えを待っている。ここは一旦、女中ということにしてしまおうと口を開きかけた矢先、溌溂とした声が空気を震わす。
「こちらの女性は俺の恩人なのですよ、和尚様」
 先程まで庭先で剣を振っていたはずの杏寿郎くんが、いつの間にか私の隣に立っていた。羽織のない隊服姿の彼を見上げて、こんな姿も新鮮だと私の頭は場違いなことを考える。
「おお、杏寿郎くん!そうかそうか、それはすまなかったね」
 住職が申し訳なさそうにこちらに声をかけるので、慌てて杏寿郎くんから視線を外し、私は全力で首を左右に振る。
「それより和尚様。今日はどうしたというのです?母の命日には、まだ日がありますが」
「まさか君が家にいるとは思わなんだが、それならば話は早い。先日お父上に君の縁談の話をさせてもらったんだが、何か聞いているかい?」
「…それは」
 杏寿郎くんが虚を突かれたように押し黙る。
「…縁談…ですか?」
 杏寿郎くんに出会ってから、恐らく一番長いであろう沈黙を受け止めて、私はゆっくり口を開く。
「そうなんだよ。お相手は煉獄家に相応しいお家柄だよ。器量も気立てもいいお嬢さんでね。…お節介かとも思ったんだが、杏寿郎くんもそろそろ身を固めてもおかしくない齢だろう。それに、孫の顔でも見せれば、お父上の体調も少しは良くなるんじゃないかと思ってね」
 住職が諭すように言葉を紡ぐ。一方の杏寿郎くんは眉根を寄せて困惑した表情を浮かべている。彼の様子から察するに、恐らく縁談の話は既知のことであったのだろう。
 この時代において杏寿郎くんの齢で妻を娶るのは、動揺の余地などないごく自然のことだ。住職の言うように、今は芳しくない様子のお父様も可愛い孫の顔を見れば、嬉しいに決まっている。しかも相手は良家の素敵なお嬢様。この縁談を断る理由などないだろう。
 しかし私の心は灯が消えたように闇が立ち込めて、もやもやとした気持ちが掻き立てられる。自分が杏寿郎くんと結ばれる運命が最初から選択肢にないことなど、分かりきっていることなのに。いつ元の世界に戻るかも分からない不確かな自分が、想いを伝えるなどご法度だ。
「和尚様、すまないがその話は――」
「素敵なお話じゃないですか!お相手の方はどんなご様子なんですか?」
 逡巡の末口を開いた杏寿郎くんの言葉に被せるように、私は努めて明るく住職に尋ねる。隣で小さく息を呑む気配が伝わってきたが、気が付かないふりをした。
「杏寿郎くんを嫌がる女性がいたら見てみたいものだよ。先方も大変乗り気でね」
 そうですよね、と大きく頷いて相槌を打つ私に気をよくしたのか、住職は楽しそうに言葉を続ける。
「一度会うだけでもどうだろう?ほら、もうすぐ神社で秋祭りがあるじゃないか」
「秋祭り、いいですね!先日その話を少し聞きました。どんなお祭りなんですか?上京したばかりでこの辺りのことは詳しくなくて」
「毎年この時期は賑わうんだよ。秋祭りも歴史が古くて、以前は町興しの一環だったが、今では皆この行事を楽しみにしているんだ。私のところの檀家さんもはりきって準備をすすめているようだし、是非足を運んでみるといい」
 当たり前のように住職と会話を続ける私は、相変わらず杏寿郎くんを見ることが出来ない。彼は今、どんな顔をして私達のやり取りを聞いているのだろうか。
「どうだい、杏寿郎くん。君さえよければ、お父上にも伝えてはもらえないだろうか?」
 住職が思い出したように杏寿郎くんをみるので、私もその視線に倣う。視界に捉えた杏寿郎くんは、どこか悄然とした表情を浮かべていた。
「だが俺は…」
「会うだけ会ってみたらどうかな?ほ、ほら、女性からしたら会わずにお断りされたらきっと傷つくと思うし」
 私の言葉は再び杏寿郎くんのそれを遮った。増していく左胸の痛みを感じながら、私は身を切る思いで言葉を紡ぐ。彼の目をちゃんと見ることが出来なかった。
「……あぁ…それもそうだな」
 杏寿郎くんが息を吐くように呟いたのを聞いて、住職の顔が明るく弾ける。「先方にもいい返事が出来るよ」とどこか安堵した様子の背中を見送って、私は今度こそ門を潜る。杏寿郎くんが少し遅れて私に倣う気配がしたが、もう、「羽織のない隊服姿も素敵だ」などという気持ちで彼を見ることなど出来そうもない。
「さ、お屋敷の拭き掃除しちゃうね。宇髄さんご夫妻、待たしちゃいけないもんね」
 玄関の扉に手をかけて無理やり笑顔を作った私は、肩越しに杏寿郎くんを振り返る。これでいい。私は間違ったことはしていない。
「そうだったな。では俺も手伝おう」
 大きな声で言い放った杏寿郎くんが、いつも通りの彼だったことに安堵する。それでも少しだけ寂しくて、左胸がずきずきと痛み続けた。

「名前さん!お久しぶりです」
「須磨さん、お久ぶりです。雛鶴さんも、まきをさんも」
 宇髄さんの屋敷の門を潜るなり、笑顔を満開にした須磨さんが迎えてくれる。呆れた様子で彼女に続いた雛鶴さんとまきをさんに挨拶を済ませた私は、目の端に捉えた巨大な体躯に目を見開く。
「あれ…宇髄さん?」
 思わず声が零れる。少し離れたところに宇髄さんの姿があった。以前街で遭遇した際は着流しだったため身体のラインがよく分からなかったが、杏寿郎くんとは少しデザインの異なる隊服から伸びる剥き出しの腕が筋骨隆々なことに驚いてしまう。物騒な刀を持て余しており、手合わせの準備は万端といったところだろうか。
「名前さんは、この姿の天元様は初めてでしたよね」
「そうですね。だいぶ印象が違ってびっくりしました」
「―――なんだ、炎柱様達はやっとご到着かよ。日が暮れちまうかと思ったぜ。煉獄、さっさと始めようぜ」
 私と杏寿郎くんの到着に気が付いた宇髄さんの声が遠くで響く。
「すまない宇髄。急な来客があってな!」
 杏寿郎くんはまるで「行ってくる」とでも言うようにこちらに小さな笑みを向けると、そのまま突風のように私の横をすり抜けて、瞬く間に宇髄さんの元へ移動した。間もなくして二人が木刀を構えて向き合うと、素人でも分かるような鋭い空気が皮膚を刺す。光のような早さの鍔迫り合いが始まれば、その動きを目で追うことは不可能だった。すごい。これが柱という階級に就く杏寿郎くんと宇髄さんの力なのだろうか。
「まだまだ序の口ですよ。お互い二割の力も出していないと思います」
 驚異の身体能力を見せつけられて感嘆の息を吐く私に、雛鶴さんが相変わらず落ち着いた口調で声をかける。
「に、二割?あれでですか?ひゃあ…強くて素敵な旦那様ですね。羨ましいです」
「あら、名前さんは煉獄様と恋仲ではないのですか?」
「え、違うんですか?」
 大きな瞳を丸くした雛鶴さんに続いて、須磨さんが私達の話に割って入る。
「ち、違いますよ!…私は事情があって煉獄家にお世話になってる身で…」
「でもお互い好き同士に見えたけど?」
 慌てて否定する私に、今度はまきをさんがそれとなく水を向けてくる。
「そっ、そんなことは本当になくて…」
 三人の畳み掛けるような質問に、思わず声が上擦って顔に熱が集中する。明らかな動揺を滲ます私に、美女三人衆は冷やかすような笑みを浮かべている。夫婦が似るというのは本当だ、と私は街での宇髄さんとのやり取りを思いだして得心する。
「そんなに照れなくても大丈夫ですよ」
「そうそう。男と女が一つ屋根の下で暮らしてたらね」
「さ、私達はぱんけーきを作りましょう!名前さん、言われた材料揃えておきました」
 一際張り切っている様子の須磨さんが、否定の言葉を羅列する私の手をぐいぐいと引くものだから、強制的に玄関へと足が向く。去り際に、杏寿郎くんにちらりと視線をやれば、凛々しい顔に玉のような汗を光らす彼の姿が目に入った。僅かに息を弾ませて剣を構える姿に、頬が火照り胸が弾む。
 日々杏寿郎くんへの気持ちが大きくなる自分に、彼の雄々しい姿は目の毒だった。