誰にもあげない万能薬


 とうとう来てしまった、と私は煉獄家の厠で愕然とする。身一つでこちらの世界に来たのだからいつかは向き合わなければならない問題だと思っていたが、時が来たら考えればいい、とどこか高を括っていた。
 本当に女というものは厄介だ。月一回訪れるブルーデーを閉経のその日まで乗り越えなければならないのだから。
 本当に困った、と私は胸に溜まった重い息を吐きだして頭を捻る。そもそも大正時代にナプキンや紙おむつといったものは存在するのだろうか。いや、確か日本での生理用ナプキンの歴史はかなり浅かったはずだ。この時代で私のよく知るナプキンにお目にかかれるとは到底思えなかった。
 ではこの時代の女性はどうしているのだろうか。身近な女性に聞くのが一番であるが、残念ながらこの煉獄家には殿方しかおられない。煉獄家当主の杏寿郎くんのお父様には当然相談出来ないし、年頃の千寿郎くんにするには忍びない話だ。とすると、杏寿郎くん?と考えて左右に小さく頭を振るう。杏寿郎くんは「遠慮せずになんでも言ってくれ」と言ってくれたけれども、流石にこの手の話題は遠慮してしまう。初経を迎えた時の父親の気まずそうな顔を思い出せば、殿方側としても困ってしまう相談だろう。
 トイレのちり紙を数枚拝借し血液の排泄口となるそこに押し当てると、私は一旦厠を出る。今日はブルーデーの初日であるから、なんとしてでも今日中に対策を考えなければ。やはり、頼れるのはあの人しかいないだろう。
「名前おはよう!」
 背後から爽やかで張りのある声がする。
「お、おはよう杏寿郎くん。今日も早いね」
「名前こそ今日は随分と早いな…む、なんだか顔色が良くないな?大丈夫か?」
 既に隊服姿の杏寿郎くんが私の顔を覗き込み、心配そうな視線を注ぐ。なんて人の感情の機微に敏感な人なのだろう。この一瞬で動揺を見抜かれてしまうなんて杏寿郎くんに隠し通すことが出来るのだろうか。
「大丈夫!今日も元気いっぱいだよ…杏寿郎くんは昼間から任務に出るの?」
「ああ、今日は柱の担当地区の見回りでな」
「そっか、気を付けて行ってきてね。……あ、あのさ杏寿郎くん。今日って胡蝶さんはお屋敷にいらっしゃるかな?」
「胡蝶は長期の任務には出ていないはずだが…。名前、やはりどこか具合が良くないのか?」
 胡蝶さんの名前を出した途端、杏寿郎くんの端正な顔に不安そうな色が滲む。
「ち、違う違う。ちょっと…胡蝶さんに相談したいことがあって」
「本当か?」
 杏寿郎くんが間合いを詰めて、大きな掌を私の頬に這わす。身体と身体が触れてしまいそうな近距離で見下ろされ、下腹部が疼いて血液ではない何かがじわりと滲んだ気がした。
「本当だよ。杏寿郎くんは何も心配しないで。あ、じゃあ今日は、ちょっとだけ胡蝶さんの所に行ってくるね」
「うむ。それであれば俺も一緒に行こう。名前を一人で行かせるのは心配だ」
「い、いい、来ちゃダメ!一人で行くから!」
 ただ知られることが恥ずかしかっただけなのに、何故こんな言い方しか出来なかったのかと言い終わってから後悔する。杏寿郎くんの瞳に憂愁の影が差す。
「……そうか。ならば馬車を手配しておく。くれぐれも気を付けて行ってきてくれ」
 少しの静寂のあと、呟くような声が耳を打った。私の頭をひと撫でした杏寿郎くんが、羽織を翻して離れていく。本当にブルーデーが憎い。今日ほど強く思うことは、今までもこの先もきっとないだろう。

「名前さんは今までどうされていたのですか?」
 胡蝶さんのお屋敷で、至極真っ当な質問をされているにも関わらず、私は明らかに動揺していた。杏寿郎くんを除いて、私が違う世界から辿り着いたトラベラーであることを誰も知らないのだ。初経を迎えたばかりの少女でもあるまいし、「月経の時はどうしたらいいのでしょうか?」と質問された場合の返答は、胡蝶さんのそれが正解だ。
 二の句が継げなくなってしまった私の答を待たずに、胡蝶さんは棚から大量の布と脱脂綿を取り出して、大きな紙袋に入れてくれた。
「煉獄さんのお家は殿方だけですから、こういう時に困っちゃいますね。こちらの布と脱脂綿をあてがって下着で抑えれば問題ないと思いますよ」
「胡蝶さん」
 まるで千里眼のように、胡蝶さんは何でもお見通しの様子だった。真意は定かではないが、希望の光が見えた私は胸を撫で下ろし、彼女に礼を述べて屋敷を出た。門戸の傍には馬車が待機しており、杏寿郎くんへの申し訳なさに胸が痛んだ。
 その日杏寿郎くんは、正子になっても帰ってこなかった。千寿郎くんの話によれば柱一人に割り当てられているエリアは相当広大な範囲なのだそうだ。確かに私の住む時代と違い、大正時代での二十歳は立派な大人だ。それを加味しても彼が背負っているものは大きすぎるのではないかと、こちらに来てから私は度々不安になった。
 杏寿郎くんの帰宅を待てずに床についた私は、障子から差し込む月明かりで目を覚ます。見慣れない天井がまだ元の世界に戻っていないことを証明しており、何故かほっとした気持ちで枕元の時計に視線を向ける。時計の針が指し示す時刻はまだ真夜中だった。杏寿郎くんは無事に任務から戻って来たのだろうかとぼんやりと考えて、再び瞼を閉じようとしてはっとする。下半身が水浸しになったように冷たいことに気が付いたからだ。
 勢いよく掛け布団を剥いで起き上がり眼下を見れば、敷布団を包む真っ白なシーツに染みをつくる鮮血に愕然とする。シーツがこの状態であれば浴衣も、と恐る恐る臀部に手を這わして確認すれば案の定血液により濡れていた。
 額に手をあてて重い息をつくも、こうしてはいられないと私は自身の浴衣とシーツを剥ぎ取った。替えの浴衣を羽織ると夜中であることも忘れて流し場に向かう。冷たい水で血液が付着した箇所を洗い流した後は、大きな煉獄家の庭の片隅にある物干竿にひっかけた。窮地を乗り切った私は安堵の息を吐く。
 夏にしては頬を掠める風は冷たかった。それでも朝方までにはきっとシーツも浴衣も乾いてくれるだろう。晩夏の夜風に冷やされた汗が身体の体温を奪い、鼻孔から飛び込んできた空気によって色気のないくしゃみが続く。
 本当であれば朝まで見張っていたかったのだがそういう訳にもいかないと、私は震えはじめた自身の肩を抱きしめる。明日朝一で起床して、煉獄家の殿方達にばれないように取り込むことを決意して踵を返そうとしたところで、冷えた背中を温もりが覆った。それが杏寿郎くんがかけてくれた羽織だと気が付くまでに時間はかからなかった。
「名前、どうした?こんな真夜中に…身体が冷えているではないか」
「杏寿郎くん!まさか、今帰り?」
「ああ、担当地区の隣街で鬼の目撃情報が入ってな。そちらの討伐を終えて来たのだが…こんな時間に…洗濯か?」
 心底驚いた様子で開かれた双眸が私を見下ろす。一方の私は当然ながら決まりが悪く、顔に熱を集める。鋭い勘をこんな時でも働かせてしまった杏寿郎くんは、含羞を頬に浮かべる私と物干竿で揺れる衣類を見て全てを悟ったようだ。端正な顔に紅葉が散る。
「名前…よもや」
「そうなの!その、今日、生理…月のものが来ちゃったの。こっちでは、いつも使ってる生理用品もないし、どうしていいか分からなかったから胡蝶さんに聞きに行ったの。恥ずかしかったから杏寿郎くんには言いにくくて…。今日は一番出血が多い日だったから…その…」
 気まずい空気を断ち切るように一気に言い放つ。最初は威勢が良かった声も最後は火が消えたように萎んでしまった。恐る恐る杏寿郎くんを見上げれば、彼は敏感に表情を曇らせていた。
「すまない。名前にそんな思いをさせていたとは…不甲斐ない。煉獄家は見ての通り男所帯だ。そういうことに関しては…どうも疎くてな」
「杏寿郎くんは何も悪くないんだから謝らないでよ。謝らなきゃいけないのは私の方だよ…。朝、ごめんね。あんな風な言い方しか出来なくて。…傷つけたよね」
「こちらのことはどうでもいいのだ。俺の方こそ名前を傷つけただろう。本当にすまない」
「ふふ、杏寿郎くん謝りすぎ」
「…名前」
 杏寿郎くんが私の名前を囁いて一気に空気が艶めいた。斜め後ろに立っていた杏寿郎くんが私の肩を抱き寄せて、後ろから覗き込むように私の唇に自身のそれを近づける。
 あ、私このままキスしちゃう。どうしよう、ダメ、拒まなきゃ。頭では分かっているのに身体が動いてくれない。
「――っくしゅ」
 流されそうになった甘美な雰囲気を切り裂いたのは、私の大きなくしゃみだった。森閑とした夜闇に、情けないほど色気のない大きなそれが空気となって溶けた。
「…ご、ごめん」
「風邪をひいてしまうな。もう中へ入ろう」
 蚊の鳴くような声で謝罪した私の髪を撫でつけて、噛み殺すような笑みを浮かべた杏寿郎くんがそっと私の手を引いた。

 その翌日、案の定私は高熱を出した。汗に湿った浴衣を纏ったまま長時間冷たい風にあたってしまったことが原因だろう。こちらに来てからの疲れが蓄積していたことも要因の一つかもしれない。熱だけならまだよかったのだが、最悪なことにブルーデー二日目の激しい生理痛とバッティングしてしまったのだ。
 普段であれば市販薬に頼るところだが、当然ながらこの時代にそんな便利なものはない。医者が処方する薬だってかなり高価なものだろう。本当に自分は便利な時代に生まれたものだと熱に浮かされた頭でぼんやりと考える。激しい腹痛も加わった私の意識は朦朧としており、もう一日中こうやって夢と現実の境界に意識を彷徨わせていた。
 こちらを心配そうに覗き込む杏寿郎くんの唇が言葉を形作る。
「名前、大丈夫か?医者に薬を出してもらった。起き上がって飲めそうか?」
 濁りのない心地いい声がそう言っている気がするのは夢なのか現実なのか。自分ではまともな返事を返したつもりだったが、靄がかかったようにぼんやりと見える眼前の杏寿郎くんが、困ったように眉尻を下げていた。
「きょ…じゅろ…く…」
「…悪く思わないでくれよ」
 低音が耳に流れ込むと、杏寿郎くんの二枚目の顔が近づいて唇から生ぬるい白湯が送り込まれる。同時に口内には顔が歪んでしまいそうな苦みが広がって、生き物のように動く舌が出来るだけ奥へ奥へと、白湯と薬を押し込んでいく。
「んっ…ぁ…」
 辛うじて開いている重い瞼の隙間から、杏寿郎くんの猛々しい瞳が見える。まるで私を焼き尽くしてしまいそうな情熱を孕むそれに、風邪ウイルスとは別の何かが体中の熱を引き上げる。
「名前…頼むからちゃんと飲んでくれ」
 声につられて私の喉が上下する。これは夢なのか現実なのかという問答を、ついにぴたりと閉じてしまった瞼の裏で私は延々と繰り返していた。