愛したい


「胡蝶さん、ありがとうございました」
「礼にはおよびません。もし、何か自覚症状があればまたいらしてください」
 眼の所見や四肢の可動を確認した胡蝶さんは、花のように微笑んだ。
 私がこちらの世界に来てから、既に二週間近く経った。煉獄家の皆様が――お父様には未だまともにご挨拶が出来ないが――甲斐甲斐しくお世話をしてくれるおかげで、私は大きな不自由もなくこの時代で生活が出来ていた。確かに、便利な電子機器やTVやスマホは無いけれど、それならそれでどうにかなるものだ。現代の自分は、文明機器に甘えて随分楽な生活を送っていたと反省することさえあった。
 私の診察を終えた胡蝶さんは、何やらカルテのようなものに筆を走らせている。相変わらず素敵な人だな、と抜けるように白い佳麗な横顔を盗み見る。才色兼備とは胡蝶さんのためにある言葉だ、と一人得心していると、彼女は手を止めて思い出したように「そうそう」と言葉を続けた。
「先日途中になってしまったお話のことですが」
――幽霊かと思ってしまいましたよ。煉獄さんからは、もう会えない方だと聞いていたものですから
 そういえば、と私も先日の彼女の言葉を思い出す。
「あれは、まだ煉獄さんが炎柱を襲名される少し前のことだったと思います」
 記憶を辿るように胡蝶さんがゆっくりと語り出す。
「煉獄さんが重要な任務でかなりの大けがを負われて、この蝶屋敷に運ばれてきたのです」
「杏寿郎くんが大けがを?」
「ええ。でも流石煉獄さんです。怪我はあっという間に良くなったのですが、こちらで処置をしている際に、隊服に大切そうに忍ばせているある物を見つけてしまったんですよ」
 胡蝶さんが一息ついて、何やら楽しそうに唇を綻ばす。
「…ある物…ですか?」
「ええ。見たこともないような鮮やかな色彩画でした。…まるで写真に色を加えたような」
「色彩画…」
「そうなんですよ。随分古くなっていましたが、そこには幼少期の煉獄さんと…」
 最後まで聞かずとも、胡蝶さんの言う「幽霊」の謎が解ける。思わず瞠目した私に何かを察した様子の彼女は、笑みを絶やさず言葉を続けた。
「それでついつい聞いてしまったんです。ふふ、気になるじゃないですか。女性に人気の煉獄さんが、わざわざ絵にして大切に持ち歩いている人なんて」
 気恥しくて思わず目を泳がす私を見る胡蝶さんは、殊更楽しそうだった。杏寿郎くんが持っていたもの。それは多分、いや間違いなく、あの日一緒に撮った写真だろう。私とのあの瞬間をずっと大切にしてくれていたのかと思うと、嬉しさで身が裂かれそうだった。
「そ、それで杏寿郎くんが『もう会えない』って?」
 私は声の大きさを上手く調整することが出来なかった。自分でも情けないほど動揺している。
「ええ。だから名前さんのお顔を拝見した時は驚いたのですよ。……でも、嬉しい気持ちもありました。人は、自分が想い、守りたい人が傍にいてくれるだけで、燃えるような力が湧いてくるものですから」
 しばらくして顔が熱くなるのを自覚する。胡蝶さんの言葉はまるで、杏寿郎くんが私のことを特別大切に思ってくれているというように聞こえてしまう。
「初恋なんだそうですよ」
「……え?」
 不意に立ち込めた静寂の後、私は思わず聞き返す。
「名前さんが、初恋の人だと、当時の煉獄さんが教えてくれたんですよ」

 熱さがひかない頬に両手で風を送りながら、私は診療所の玄関を出る。胡蝶さんの衝撃的な発言のせいで、私は杏寿郎くんの前で平静を装う自信がなかった。今は立派で素敵な青年になった彼だ。たとえ現在進行形で私のことが好きではないとしても、意識してしまうのは論を待たない。
「炎柱様、ずっとお慕いしておりました!」
 胡蝶さんの屋敷の庭を一周しても姿が見えない杏寿郎くんを探して門戸に近づくと、明らかに緊張を滲ませた高い声が耳に届く。咄嗟に立派な門に身を隠し、そっと声の方に視線を遣れば、杏寿郎くんと女性の姿が目に入る。
 彼と同じ出で立ちの所を見ると、恐らく同じ組織の子なのだろう。人の告白シーンを覗くなど、なんて悪趣味なのだろうと思いつつも私は息を潜める。もし、杏寿郎くんが彼女の告白を受け入れたらと考えると、胸が小さく痛んだ。
「君の気持ちは嬉しい、ありがとう。だが…すまない。気持ちに答えることは出来ない」
「分かっております。分不相応な申し出をどうぞお許しください。炎柱様への強い思いを抑えきれなかったのです」
「む、分不相応などというものではないぞ。階級こそ違うが、俺も君も鬼殺隊士であることに変わりはない。これからも一緒に頑張っていこう」
 杏寿郎くんは、女性の頭をそっと撫で柔らかな笑みを口元に刻む。しかしとても優しいその言葉が、猫の鋭い爪のように私の心を引っ掻いた。当然この痛みが分からないほど私は子供ではない。
 私は杏寿郎くんを異性として本気で好きになりかけている。いや、きっともう最初から好きなんだ。
 しかし、彼への気持ちを認めてはいけない気がした。だって私は、いつこの世界を去るかも分からない身なのだから。
「――胡蝶の診察は終わったのか?」
 いつのまにか耳元で杏寿郎くんの声が揺らぎ、見上げれば彼と視線が絡む。
「うん…。何かあったら来てくださいって」
「そうか!何ともないようで、安心した」
「…杏寿郎くんてさ、もてるんだね」
「よもや聞いていたのか」
「そりゃあ、こんなに白昼堂々と告白されてたらねぇ」
 ばつが悪そうに眉間をかいた杏寿郎くんを置き去りにして、私は歩を進める。ここから煉獄家まではゆっくり歩いて三十分ほどだろうか。どうやらこの辺りには、杏寿郎くん専用に与えられた屋敷もあるのだと、胡蝶さんが話していた。柱という階級に就く隊士は、皆同様なのだそうだ。
 しかし杏寿郎くんは任務で留守の日を除いては、お父様や千寿郎くんや私が待つ煉獄の生家で過ごすことが多かった。元々不在にすることが多かったという千寿郎くんの話から、私に気を遣ってくれていることは明白で、それがとても嬉しかった。
 ひょっとすると杏寿郎くんも私と同じ気持ちを、今もなお抱いてくれているのだろうか。だが、その気持ちを確かめ合った所でどうなるというのだ。再び別れが訪れることになれば、余計に辛くなってしまうのではないか。
「――名前!ぶつかると言っているだろう」
 大声で叫ぶ声が聞こえ、強引に意識を引き戻された。一瞬にして私の身体には逞しい腕が回されていて、大きな胸に背を預ける形となっていた。どうやら脳内で思考を旋回させていた私は、自身でも気づかぬうちに大木に激突寸前だったようだ。
「ご、ごめん。ありがとう、杏寿郎くん」
「まったく。…危なっかしくて目を離せたものではないな」
 杏寿郎くんが耳元で息を吐くように苦笑すると、全身の血が滾り私の身体を熱くする。心臓がありえないスピードで打ち付けており、このまま身体を突き破って外に飛び出してきてもおかしくないほどだ。
「…杏寿郎くん。もう大丈夫だから離して」
 自分の掠れた声が耳に滲む。私は今どんな顔をしているのだろうか。恐らく首に光る朱色の勾玉より真っ赤なのではないだろうか。
「…嫌だ、と言ったらどうするのだ」
 いつのまにか杏寿郎くんと向き合っていた私の唇に、彼のそれが触れてしまいそうなほど近くで囁かれる。甘い吐息が唇を掠め、煽るような視線が私を誘惑する。二人の間に差し込む木漏れ日が風に揺れ、触れるようで触れないじりじりとした距離が、身を焦がしてしまいそうだった。
 私達は恐らく、同じ気持ちだった。お互いの気持ちを口にし合って、唇を重ね合って…。そんな当たり前のことが出来たらどんなに幸福だったことだろう。
 しかし私達はそれが出来なかった。怖いのだ。来るかもしれないその時が。
 いつ崩れ去るかもわからない氷の上を、私達は出会った時から歩き続けているのだから。