与え合うもの


 一泊二日の修学旅行に出かけた千寿郎くんに代わって、私は杏寿郎くんと肩を並べて煉獄家の台所に立っていた。大正時代から修学旅行が存在したことに驚いていると、どうやらその歴史は明治時代まで遡るらしい。こちらの世界に来てまだ数日だが、初めて見聞するものばかりのこの暮らしはどこか刺激的で、杏寿郎くんも私のもとに来た時は同じような気持ちだったのだろうかと、隣で夕食後の食器を洗う彼を見上げる。
「ん?どうした」
 私の視線にすぐに気づくと、手を動かしたまま杏寿郎くんがこちらを見る。なんて理想的な身長差なんだろう。これでキスなんてしたらまるで少女漫画の一ページみたい。と、頭の中に浮かんでくる雑念を振り払い、杏寿郎くんの眼差しから逃げるように台所の結霜ガラスへ視線を移す。
 外ではガラス窓を叩きつけるような激しい雨が降っており、時折闇を裂くような光が走って、数秒遅れて遠くの方で雷鳴が轟いていた。
「折角の修学旅行なのに、千寿郎くん雨に降られて残念だったね」
「そうだな。明日までには止んでくれるといいのだが」
「私、雨女だから。もしかするとそのせいかも…」
 小さく溜息をついて呟くと、一瞬の沈黙があってすぐに杏寿郎くんの小気味よい笑い声が聞こえた。
「もう、笑わないでよ。私は本気で言ってるの」
 眉根を寄せて再び杏寿郎くんを見れば、彼もまた慈しむように私を見つめていた。まるで付き合いたての恋人みたいだ、なんてまた自分に都合のいい妄想を膨らます。
 杏寿郎くんと再会してからの私の脳はすっかりのぼせあがっていた。それもこれも、彼がこんなに素敵な男性に成長してしまったせいだ。幼少期の杏寿郎くんと一緒にキッチンに立っていた時は、こんなにむず痒くて焦れったい気持ちにはならなかったと思ったけれど。
「そういえば…私が使わせてもらってるこのご飯茶碗、お母様の物だったんだよね」
「ああ、そうだ。もうかなり古い物で申し訳ないが」
「こちらこそ申し訳ないよ。お着物もそうだけど、お母様の大事な形見を私なんかが使っちゃって」
 冷たい水で濯いでいた手中の小ぶりな茶碗を眺める。煉獄家に来て初めての食卓で、杏寿郎くんが気を遣って用意してくれたものだ。なんだか自分も煉獄家の一員になれたようで、泣けるくらい心にしみた。
「名前だから使って欲しいのだ」
「杏寿郎くん…」
 暫くの間互いの視線を外せずにいると、フラッシュを焚いたかのような眩しい光が差し込んで、その直後に建物を揺さぶる地震のような雷鳴が轟いた。
「ひやっ…!」
 耳が裂けんばかりのけたたましい轟音に私の口からは色気のない声が零れ落ち、それに続いてガチャンとガラスが割れるような音がする。はっと気づいた時には手中にあったはずのご飯茶碗が、稲妻が走ったように真っ二つに割れて台所の床に転がっていた。
 背中を氷で撫でられたような悪寒が走った。私、なんてことを。杏寿郎くんのお母様の形見の茶碗を。
「ごめんなさい!嘘、どうしよう」
「名前、触るな!指でも切ったらどうするのだ」
「でもっ!…本当にごめんなさい、私……痛っ!」
 慌てて床に膝を付き、割れた茶碗を慌てて掴んだ私の人差し指にぴりっとした痛みが走る。一瞬のうちに小さな傷から鮮血が滲み出て、じんじんとした痛みが広がっていく。
「だから言ったではないか。ほら、見せてみろ」
 呆れたように息を吐いて腰を落とした杏寿郎くんが、私の手首を掴んで血が噴き出る指先をぱくりと口に咥える。
「ちょっ…杏寿郎くん!」
 予想外の彼の行動に狼狽し、思わず手を引っ込めようと力をいれるも掴まれた手首はびくともしなかった。熱くざらりとした舌が私の傷口を這うように舐めていく。
「杏寿郎くん…だめ、汚いからぁ…ぁっ」
 ただ指の傷口を舐められているだけなのに、妙に官能的な杏寿郎くんの舌使いに思わず艶っぽい声が漏れて、もう片方の手で慌てて口を塞ぐ。
 大事なお母様の茶碗を割ってしまったというのに、私は何を考えているのだろう。しかし、私を見つめる彼の瞳がまるでこちらを煽っているように見えたものだから、心臓は大げさに肋骨の内側を暴れまわっていた。
「血が止まらないな…。居間で手当てだ。名前、立てるか?」
 暫くして私の指を解放した杏寿郎くんが、こちらの蚊の鳴くような返事を待って立たせてくれる。そのまま手を引いて私を居間へ誘導すると、杏寿郎くんが丁寧に処置を施してくれた。
「杏寿郎くん、あの…ごめんないさい。お母様の大事なお茶碗。私、本当にドジで。もう、…本当にごめんなさい」
「何度も謝るな。形あるものはいつか壊れる。それよりも、名前の怪我の方が心配だ」
 雷に打たれたように項垂れて、しつこいくらいに謝罪の言葉を口にする私の髪を、杏寿郎くんの大きな掌が滑る。
「でも、お母様の大事な形見を…」
「壊れるのが嫌なら、最初から名前に使わせてなどいない」
「…杏寿郎くん」
「物だけが思い出ではない。名前と過ごした日々が俺の胸の中に残っているように。だからもう悲しそうな顔はなしだ」
 優しく柔らかい声が鼓膜を打ち、私は首を大きく縦に振る。杏寿郎くんの言う通りだ。いつだって大切な思い出は、自分の一番傍にある。
 二十歳の青年とは思えない言葉の重みに胸が熱くなり、思わず涙が出そうになった私の耳に、窓を震わすほどの雷鳴が刃物のように突き刺さる。
「ひっ!」
 予想外の出来事続きですっかり忘れていたが、どうやらまだ天雷はこの辺りの空にのさばっているようだ。再び色気とは無縁の声が漏れて、私の身体が大げさに跳ねる。
「ふ…今日は一緒に眠るか?」
「…えっ…」
 杏寿郎くんが小さく息を吐く気配がし、囁くような低音が耳元で揺らいだかと思うと、私は彼の胸の中にいた。今度こそ肋骨が粉砕されてしまうかと思うほど、私の心臓は跳躍し、恐怖が一瞬にしてときめきへと変貌を遂げた。
「…すまない。これでは、また貴方を困らせてしまうな。もう幼少の俺ではないのだから、嫁入り前の名前に言う台詞ではないな」
「杏寿郎くん…あの、私」
 どういうつもりで言っているのだろうか。とにかく極上に甘く聞こえる彼の囁きが私の思考回路を直撃し二の句が告げないでいると、杏寿郎くんは言葉を続けた。
「名前は覚えているだろうか。…あの日、俺が鬼殺隊や家のことを打ち明けた夜に、貴方がこうして抱きしめてくれたことを」
 勿論覚えていた。ただただ立派な十二歳の杏寿郎くんに感動して、可愛くて、守ってあげたくて、今、彼が私にしてくれているように、自分の胸にすっぽりと収めたことを。
「とても、安心したのだ。自分は一人ではないと思えた」
「……私も杏寿郎くんがこうしてくれると…とっても…安心するよ」
 独り言のように呟いた杏寿郎くんに続いてぽつりぽつりと言葉を紡いだ。緊張で自分の声が震えているのが分かった。
「それならば良かった。…今日は名前が眠るまで傍に居る。だからもう、怖くはない」
 まるで幸せをかき集めたような表情を浮かべた杏寿郎くんが、もう一度私の頭をそっと撫でた。
 激しい心音が、雷鳴よりもずっと大きな音をたてて私の中で響き続けていた。