不意打ち


 三年生にとっては高校生活最後の大会を控え、一層力が入る運動部の掛け声を聞きながら、私は校庭の端を通って学園を後にする。進路を変更することを決めたのはつい数日前のことだ。今の私には一分も時間を無駄にすることは出来ない。明日からは、煉獄先生にお願いした歴史の個別指導も始まる――といっても、昼休みの五分だけだが――ため、先生が用意してくれた問題集もしっかり解いていかなければならない。
 こんな姿を実弥くんに見られたらまた怒られてしまうな、と思いながらも私はパンパンの鞄から数学の参考書を取り出し、目を通し始める。何を隠そう、私は昔から数学が大の苦手だった。今回の進路変更で、一番難解な壁として私の前に立ちはだかっているのは「数学」なのだ。
 最近梅雨入りしたとニュースで盛んに放送していたが、コンクリートの地面に初夏の光が眩しいほど照り返り、今日は真夏のように熱く感じた。なるべく日陰を選んで歩くように心がけても、身体にはじっとりと汗が滲んでくる。制服のシャツももう半袖でも良いかもしれない。
 暑さで参考書に集中出来ない頭でそんなことをぼんやりと考えていると、自動車がクラクションを鳴らす鋭い音が鼓膜に流れ込んでくる。突如意識が引き戻されて参考書から顔を上げれば、自分が歩道から車道にはみ出て歩いていることに気がつく。数十メートル先に見える赤いスポーツカー。相当スピードが出ているように見える。当たり前だ。ここは車通りの多い交差点なのだから。
 まずい、一刻も早く歩道に戻らないと。そう思うのに上手く足を動かすことが出来ず、歩道に戻ろうとした私は側道に設置された花壇に爪先を引っ掻け、転倒した。一瞬、全身に嫌な汗が滲む。これでは車との衝突は避けられないかもしれない。
 先日母親が、誰かが亡くなると連鎖のように人が亡くなることがあると縁起でもないことを話していた。まさかそれが私ということなのか。死にたいと思ったことは何度もあるが、実際に死ぬのはやはり怖い。ぎゅっと目を瞑った瞬間、腕を強い力で引かれに、柔らかな温もりに包み込まれる。
「おい!てめぇは、馬鹿か!あれだけ参考書読みながら歩くなって言っただろうが」
 いつもよりずっと冷静さを欠いた声に釣られるように顔を上げる。すると、安堵したように大きな溜息を吐く実弥くんの顔が飛び込んできた。どうやら私は危うく車に轢かれそうになったところを、幼馴染に助けられたようだ。実弥くんの体温が伝わってくるほど身体が密着しており、私はそこで初めて地面に二人で倒れ込み、彼に抱きとめられていることを認識する。
「しなずがわ…先生」
 恐怖、驚き、安堵、羞恥といった様々な感情がごちゃ混ぜになって、上手く声が出せなかった。周囲からは「大丈夫?」「事故?」と囁く声が聞こえ、好奇の視線が注がれているのが分かった。
 しかし実弥くんは自分が注目されることなどお構いなしに、グーにした手で私の頭をこつんと叩き、「これで懲りただろ」と呆れたように呟いた。私は何も言い返せず俯くことしか出来なかった。膝の少し上あたりまで捲れたスカートから覗く脚に、先ほど転倒した時に出来たであろう傷が確認出来る。高校三年生になってから足を擦りむくのは二回目だ。じわじわと増していく傷の痛みを深呼吸でやり過ごしていると、「立てるか」と耳元で声が揺らぐ。
「えっ?」
「足、俺の家で手当てしてから帰れェ」
 ぽかんとする私の脇に手を差し込んだ実弥くんは、いとも簡単に私を立たせて「歩けるか?」と確認する。反射的に首を縦に振ると、私のスクール鞄を自身の肩にひょいとかけてしまった。
「あ、鞄」
 慌てて実弥くんが持ってくれた鞄に腕を伸ばせば、逆にその手を取られてしまう。
「怪我人は大人しくしてろォ」
「っ…分かった!分かったから、手は…大丈夫。私、全然歩けるし、この辺り…まだうちの学校の生徒、結構いるから」
「…そうだなァ。気を付けて歩けよ」
 無性に熱くなる顔を見られたくなくて、実弥くんから視線を逸らしたまま掴まれた手を振り払う。一瞬の沈黙を挟んだ後、踵を返して呟き歩き始めた彼の背中を、私はゆっくりと追いかけた。

 初めて訪れた実弥くんの家に、私はおたおたすることしか出来なかった。「俺の家」なんていうから、当然小さい頃から何度も遊びにいった不死川家を想像していた。しかし実際に連れて来られたのは、実弥くんが一人暮らしをするマンションだった。装飾を極力排除した家具を使い、シャープな印象を与えるモダンスタイルの部屋が、実弥くんが立派な大人であることを感じさせて、妙に落ち着かない。
「名前、足出せ」
 救急箱を抱えた実弥くんが、ソファに座る私の隣に腰を掛けながら言う。自宅に立派な救急箱を常備しているあたりが長男で面倒見の良い実弥くんらしい。
「実弥くん…名前…。名前になってる」
「あァ?今は二人だけなんだから、別に問題ねぇだろ」
「でもっ」
「ほら。さっさと足だせェ」
 痺れを切らした実弥くんが私の足首を掴んで、自身の大腿に乗せる。ぷにぷにと柔らかい自分のものとはまったく違うそれに、男女の差を感じてどぎまぎしてしまう。先ほど助けてもらった時といい、こんな風に身体を密着させるのは小学生以来かもしれない。
「自分で出来るのに…」
 恥ずかしさを誤魔化したくて、わざと不満そうに言ってから膝下まであるスカートを少しだけ持ち上げる。下着が見えてしまわないだろうか、と一瞬不安になるも、きっと見えた所で実弥くんにとってはどうということもないだろう。
「少し染みるかもしんねぇかど、我慢しろよォ」
「う、うん。…ありがとう」
「…なぁ、名前。親父さんのこと、もう大丈夫なのか?」
 消毒液を染み込ませたガーゼをピンセットで傷口に優しく押し付けながら、実弥くんはぽつりと言葉を漏らした。
「え?」
「親父さん、入院してからいきなり亡くなっちまっただろ」
「あ…うん。そうだね。さねみく…不死川先生も…色々ありがとうございました」
 消毒液がじわじわと傷口に染み込んでいく様子を見つめながら、ぺこりと頭を下げる。父親が亡くなった時、大黒柱を失ったことでばたばたしていた苗字家をサポートしてくれたのは親戚だけではない。実弥くんにも不死川家にも随分とお世話になってしまった。
「思ったより元気そうで安心したけどよ…無理してねぇか?」
「心配してくれてるの?」
「普通するだろ。名前は俺の」
「幼馴染だもんね。…優しいね、相変わらず」
 消毒を済ませて大き目の絆創膏を貼り終えたのを見届けると、私はぱっと顔を上げ、静かに口を開く。
「…本当はね、お父さんの心臓が止まったって聞かされた時、目の前が真っ暗になっちゃってどうしたらいいのか分からなかったんだ。病院に行くのも凄く怖くて、実際に機械で生かされてるお父さんの姿を目の当たりにしたら、さらに混乱しちゃって」
「……そうか」
「でもね、ずっと煉獄先生が付いててくれたんだ。それで、面会が終わった後もずっと私がメソメソ泣くのにも付き合ってくれて。…凄く救われたっていうか、安心したっていうか」
「煉獄が?」
「うん。生徒のことを大切にしてくれる優しい先生だなぁって。あっ、勿論煉獄先生に変な恋愛感情とか抱いてるわけじゃないからね!そこは勘違いしないで」
 やや語尾の高ぶった声で念のため付け加えると、実弥くんは釈然としない顔をしていた。そんな彼の様子に小首を傾げながら、私は実弥くんの太腿から足を降ろしてソファに深く腰掛け直し、言葉を続けた。
「でね、私、医療系の資格が取れる大学を目指すことにしたんだ。煉獄先生が歴史の個別授業もしてくれるって言うし…ただ厄介なのは数学なんだよね。ほら、不死川先生も知ってるでしょ。…私の数学の成績がすこぶる悪いこと。だから、参考書で勉強してました。…本当に、ごめんなさい。今日は…ありがとうございました」
 実弥くんに向き直り、今度は居住まいを正して謝辞を述べる。本当に今日は実弥くんが助けてくれなければ、私はこんな擦過傷では済まなかったかもしれない。
 すると、ずっと口を開かなかった実弥くんが恐ろしく真剣な顔つきのまま、私との間合いを詰めてくる。あっという間に後頭部に手を回されると、整った顔をぐっと近づけられる。
「な、何?ちょっ、実弥くん!」
 男女が顔を近づけてすることといえば、一つしかないのではないか。訳が分からず狼狽する私は、思わず実弥くんの名前を叫んで、ぎゅっと目を瞑る。イケメンすぎて、どこを見ていいかも分からない。
 しかし、次の瞬間私に訪れたのは、想像していなかった衝撃だった。軽い痛みが額に走り、私は思わず「いったぁ」と可愛げもない悲鳴を上げる。
「居るだろ、ここに数学教師が。…ったく、何遠慮してんだよ」
 実弥くんに頭突されたのだと気づいた時には、既に彼は私から身体を離しソファから立ち上がっていた。
「あ…あの」
「数学は俺が見てやるから安心しろォ」
 突然の申し出に、私は目を丸くする。実弥くんからマンツーマンの指導だなんて考えてもいなかったし、何より他の女子生徒の反感を買ってしまいそうだ。それに、やっぱり今みたいに二人きりになるのは、昔実弥くんに振られている私には少々気まずかった。
 しかし、折角の好意を無下にするのもいけない気がした。これは勉学の神様が、私に勉強しろと試練を与えてくれているのかもしれない。
「じゃあ…お願いしてもいいですか。不死川先生」
 おずおずと言葉を発した私に、実弥くんは漸く硬い表情を崩し形の良い唇を微かに綻ばした。この顔にノックアウトされてしまう女性がうちの学園だけでもどのくらい居るのだろうか。きっと四肢の指全てを使って数えても、到底足りないだろう。
「送ってく。…歩けるか?」
「う…ん」
 当たり前のように私の鞄を担ぎ、当たり前のように私を送ると言う実弥くんに、どういうわけか左胸がむず痒くて堪らなかった。