決意の朝


 部活動に勤しむ生徒もまだ登校していない、朝一のしんとした校内。私は「失礼します」と控えめに呟いて、職員室に入室した。
「…苗字?」
「おはようございます。煉獄先生」
 自席に腰掛けパソコンのキーボードを叩いていた煉獄先生は、弾かれたように私を見て大きな双眸をさらに見開く。そんな先生の驚いた表情に苦笑いを浮かべながら、私はゆっくりと窓際の席に近づいて、立ち上がった煉獄先生に向かって体を畳むように恭しく頭を下げた。
「煉獄先生。色々とありがとうございました」
「…今日から登校だったか。…もう、家の方は落ち着いたのか?」
「はい、お陰様で。母からさっさと学校に行きなさいってお尻叩かれちゃって」
 あはは、と笑いながら言った私に今度は煉獄先生が苦笑いを浮かべ、長い睫毛を瞳に被せる。私にかけるべき言葉を探してくれているのかもしれない。
 人工心肺に繋がれてから二週間、父は私達家族や多くの親戚に見守られながらゆっくりと息を引き取った。そこからはもうやらなければならないことが山積みで、時間が光のように過ぎてしまった。生まれて初めて経験した通夜や葬儀の悲しみに浸る暇もないほどだ。
 私は十日間高校を欠席した。担任の煉獄先生が気を遣って色々と連絡をくれたし、父の通夜や葬儀にも出席してくれた。
「苗字も君のお母さんも…本当に凄いな。まだ日もそう経っていないし、色々と辛いこともあるだろう。だが、そうやって笑顔に出来る君を、俺は尊敬する」
 煉獄先生のしっかりとした口調には、敬意がこもっているように感じられた。そんなに大層なことをした訳でもないのに身に余る評価をされてしまったような気がしてこそばゆくなる。緩む口元を引き締めた後、一つ息を吐いて、私はゆっくりと口を開いた。
「…煉獄先生、私、医療者を目指そうと思います」
 一語一句噛み締めるように自分の決意を口にする。煉獄先生が何か言おうと口を開きかけたが、私はそのまま言葉を続けた。
「父を助けようと必死になってくれている病院のスタッフの方々を見て、誰かの命を救う仕事って凄いことだなって思ったんです」
「ああ、凄く立派な仕事だと俺も思う」
「どんな仕事も世のため、人のためになっていると思います。でも…私は、人の命を救って誰かの役に立ちたいって思ったんです。…正直今まではやりたいことが分からなくて、ちょっと個人的な理由もあって良い大学に入りたいっていう一心で勉強してきたんですけど。…私、医療で人を救う仕事に就きたいです。そのために、資格が取れる良い大学に入りたい」
 呆気に取られた様子の煉獄先生を前に、一気にまくしたてるように話してしまった、と少し恥ずかしくなる。窓から差し込む強い日差しの影響もあるのか、胸の前で握りしめた拳がじっとりと汗ばんでいた。
「ご、ごめんなさい。偉そうなこと言って…。そのためにはもっと勉強が必要って分かってるんですけど…」
 気まずくなって最後は尻すぼみになってしまう。
「いや、謝る必要はない。苗字の夢、俺は全力で応援する」
 ゆっくり首を横に振ると、煉獄先生は真剣な眼差しで私を見つめ力強い言葉をかけてくれる。
「煉獄先生…」
「文系の苗字が理系に方向転換するのは少し大変かもしれんが、一緒に頑張っていこう」
「あのっ、煉獄先生!私…社会科は日本史でいきたいって思ってます。…今までは倫理にしようかと思ってたけど…煉獄先生の歴史の教え方分かりやすいし。…だからこれからは昼休み、五分だけでいいので毎日教えて貰えませんか」
 この十日間ずっと考えていたことを口にする。すると煉獄先生は、緊張の糸を切るように目を細め、私の肩をぽんぽんと叩いた。
「勿論だ!いくつか良い参考書と問題集を見繕っておくから、放課後取りに来るといい」
「は、はい。ありがとうございます。じゃあ私はこれで失礼します」
「ああ。きっと苗字の登校、クラスの皆も喜ぶな。…それにしても今日は随分早いのだな。まだ七時前だぞ」
「休んだ分、取り返さないといけないので」
 威勢のいい声で言って、今度は軽くお辞儀をすると、踵を返して職員室を後にする。
 本当は、剣道部に彼氏のいる綾美にこっそり教えて貰っていたのだ。剣道部の顧問の煉獄先生が、朝物凄く早くに出勤していることを。この時間なら、先生とゆっくり話せると思ったから。先生にちゃんとお礼を言いたかったし、何故だか分からないけれど、自分の決意を一番に聞いて欲しかった。
 教室へ向かう人っ子一人いない廊下の両側の窓から、濃い夏の光が差し込んでおり、眩い光に思わず目を眇める。窓の外には雲一つない優しい水色の空が広がっていた。まるで私の決意を、後押ししてくれているような晴天だった。

「名前―!良かった。しのぶちゃんとね、心配してたんだよ」
 登校し教室に入るなり私の姿を見つけた綾美が、こちらに駆け寄って来てくれる。その後には、心配そうな表情を浮かべたしのぶちゃんの姿も見えた。
「二人共、心配かけちゃってごめんね。この通り今日から無事に復帰しましたので、…休んでた間のノート取らせてください」
 顔の前で両手を合わせ眉根を窄めて懇願すれば、すっと目の前に何冊かの大学ノートが差し出される。
「え…これ」
「勉強熱心な名前さんならそう言われるかなと思いまして、綾美さんと手分けしてとっておきました」
「私がとったところはしのぶちゃんのより分かりにくいと思うけど、無いよりはましだよね」
「嘘…。凄い嬉しい…ありがとう」
 鼻の奥が暖かく塞がり、喉が詰まって上手く声が出せなかった。そんな私の様子を見た二人は顔を見合わせると、言いづらそうに口を開いた。
「なんかさ…名前、お父さんのことがある前からちょっと元気なかったでしょ。上位者が貼りだされるテスト結果にも名前がなかったから…もしかして勉強のことで色々悩んでるのかなって思って」
「綾美…」
「お父様のこともあって色々大変だと思いますけど、名前さんは一人じゃないですから。私も、綾美さんも居ますし、困った時は頼ってください」
「しのぶちゃん…」
 涙ぐみそうになり唇を噛み締める。すると綾美が私の肩を思いきり叩いて「泣かないの」と苦笑いを浮かべる。そして、しんみりした空気を押し散らすように話題を転じた。
「それで、煉獄先生と何の話したのよ」
「えっ?」
「とぼけないの!私に煉獄先生のこと、メールで聞いてきたでしょ。何があったのかちゃんと報告してもらいますからね」
「べ、別に何もない――」
「あら、そうなんですか?それは私も凄く興味があります」
 慌てて否定の言葉を口にしようとすれば、珍しくのりのりのしのぶちゃんが、小さな唇に笑みを浮かべ目を細めて私を見た。二人からの圧力に耐えられなかった私は諦念の息を吐いて、受け取ったノートの端を爪でカリカリと弄りながら口を開く。
「…二人にも話そうと思ってたんだけど。…私、医療関係の資格が取れる大学を目指そうかなって思って」
「いいじゃん!名前に向いてると思うよ。お母さんも看護師さんだもんね」
 綾美が間髪入れずに言って、先を促すように私を見るのでそのまま言葉を続ける。
「うん。…それで、理系の方の勉強頑張らなきゃいけないから、煉獄先生に相談して。ついでにセンター試験では日本史を選択しようと思うから、煉獄先生に見てもらえないかお願いして」
「え!名前、それって個別指導?」
「ち、違うよ!いや、違くないけど…毎日五分だけ。今まで日本史をちゃんと勉強してなかったし、でも煉獄先生の教え方分かりやすいから、センター試験に向けてしっかり勉強しようかなって」
 慌てて言い添えるも、綾美はニヤニヤした笑みを口元に作って私の脇腹を肘で小突く。
「名前、もしかして煉獄先生のこと気になってる?」
「え?な、なんでそんな風になるの。だって、担任の先生だよ」
 綾美の突飛な言葉に目をぱちくりさせて首を振る。私が煉獄先生を気になるなんて、そんなことあるはずがない。私はただ単純に志望大学に受かりたいから、煉獄先生に教えを乞うだけだというのに。
「でもさー、嫌いな先生だったら個別指導とか嫌だなぁ。まぁ、個人的には煉獄先生は個別指導受けたいけど」
「でも綾美だって、それで煉獄先生が好きってならないよね。彼氏もいるんだし」
「うーん、まぁそっか。確かに煉獄先生は憧れって感じかな」
「そうでしょ。だから私も気になってるとか、全然そんなのないから」
 綾美はどこか腑に落ちない表情をしていたが、煉獄先生が教室に入ってきたため、そこで話は終了になった。それまで黙っていたしのぶちゃんが莞爾として笑いこちらを見たので、私は窺うように彼女の名前を呼ぶ。
「し、しのぶちゃん?何?」
「名前さん、顔、真っ赤ですね」
「っ」
「――皆おはよう!今日は久しぶりにクラス全員が揃ったな。さっそくホームルームを始めるとしよう」
 お腹に響くような煉獄先生の大きな声がする。先生は一瞬私にちらりと視線を向けて、きゅっと口角を持ち上げた。
 刹那、心臓がどくどくと妙な打ち方をして、私はぱっと先生から視線を逸らしてしまう。何故だか、煉獄先生の顔を直視することが出来なかった。