和解

「苗字!ちょっといいか」
 授業と授業の合間の短い休み時間、どこか慌てた様子で教室のドアを開けた煉獄先生が私を呼んだ。あの日以来、どうしても煉獄先生と接することが気まずくて距離を取っていたが、深刻そうな顔つきに焦燥感を覚えて、心臓がどくんと嫌な打ち方をした。
「は、はい!」
 読んでいた参考書を急いで閉じると、私は慌ただしく席を立つ。休み時間のためクラスメートは思い思いに過ごしており、担任に呼ばれた私を気にする者はいない。
 煉獄先生の元に辿り着いた私は、「何でしょう?」と恐る恐る先生を見上げる。すると先生は眉間に皺を刻んで、私にしか聞こえないような低い声で言った。今まで聞いたことがないくらい重々しくて真剣な声音だった。
「苗字…お父さん、入院していたのか?」
「えっ…」
 言葉を失うと同時に、不吉な心臓の鼓動が速くなっていく。
「たった今、ご家族から連絡が来た。…病院へ急いだほうがいい。俺が送っていくから。荷物を纏められるか?」
 煉獄先生の口ぶりから、のん気に笑ってなどいられない深刻な事態であることが分かった。ほぼ確実に、父に何かあったのだ。病院へ急いだほうがいいということは、命が危ないということなのだろうか。でも、死ぬなんて医師は言っていなかったはずだ。片足はなくなってしまっても生きることは出来ると確かに聞いたのに。
「苗字、大丈夫だ」
 茫然として廊下の床を見つめる私の肩を掴んで、煉獄先生が力強い言葉をかけてくれる。はっとして顔を上げた私の視界に飛び込んできた先生の労わるような優しい瞳に、泣きそうな衝動が喉元からせり上がってくる。
「っ…先生、ごめんなさい。ありがとうございます」
「謝る必要などない。苗字は何も悪くないのだから。さぁ、急ごう」
 目の縁から微かに染み出た涙を指で擦って頷くと、教室に戻って荷物を引っ掴む。心配そうに声をかけてくれるしのぶちゃんと綾美に「またメールするね」と言い残し、私は煉獄先生の車で父が入院する病院へと向かった。

 病院に到着すると、父はいつもの病室には居なかった。集中治療室という場所に移されたのだそうだ。ベッドに横たわる父は、疾うに会話が出来る状態ではなくなっていた。
 口からは太い管が出ていて、人工呼吸器というものに繋がっていたし、身体じゅうの至る所に夥しい数の針や管が留置されていた。中には、心臓の役割をするというポンプもあって、父の重症度を物語っていた。
 病院独特の消毒液のような臭いが充満し、死の宣告のようなアラームの音がそこら中から聞こえるこの場所は、否が応でも私に「死」を連想させた。
「ねぇ、お父さんどうしてこんなことになったの?昨日まで元気だったんじゃないの?」
 私よりも沢山泣いたのだろう。目を真っ赤に腫らしてモニターを見つめる母に縋るように言う。すると母は私の頭を撫で、潤んだ声で教えてくれる。
「抗がん剤を投与したらね、ショック状態になって心臓が止まっちゃったの」
「え?」
「主治医の話だと、凄く珍しいことなんだけど、癌が心臓に転移していた可能性があるんだって」
「でも、でも…今こんなに沢山の治療してるから、治るんだよね?お父さん、死なないでしょ?」
 死なないから大丈夫、どうしてもその言葉が欲しくて勤務中である母の白衣をぎゅっと掴んで懇願するように言う。しかし母は言いにくそうに目を伏せて、首を小さく横に振った。
「分からない。でも…先生や看護師さん、お父さんも皆頑張ってるから。…私達も泣いてちゃいけないね」
 母は弱々しい笑みを浮かべて言った。最後の方は、涙声で良く聞き取れなかった。母の悲しい笑顔が全てを語っているようだった。
 引継ぎのため一旦仕事に戻るという母から少し遅れて、集中治療室を出た。面会者も多い賑やかな一般病棟とは違い、閑散とした集中治療室の待合室のソファでは、煉獄先生が待っていてくれた。こちらに気づいた先生は、太腿の上で広げていたノートパソコンを閉じ、私の元に駆け寄ってくる。
「煉獄先生…待っててくれたんですね。すみません。お忙しいのに」
「気にするな。今日はもう授業もないから、丁度良かった」
 煉獄先生は心配そうな表情を浮かべて私を見ていたが、取り立てて何かを聞こうとはしなかった。私が自分のタイミングで話すのを待ってくれているのかもしれない。その優しさと気遣いが嬉しくて、堪えていた涙が溢れそうになりぐっと唇を噛み締める。
 しかし、瞼を膨らます私の様子に敏感に気づいてしまった先生がそっとハンカチを差し出してくるものだから、遂に温かい涙が不甲斐なく流れてしまう。
「ふぇっ…っ…」
「苗字、我慢するな。…この大変な時期に辛かっただろう。君は…本当に凄い」
 大きくてごつごつした掌が私の頭を撫でる。その温もりに堰を切って涙が溢れ出す。
「煉獄先生っ…お父さん、死んじゃうのかなぁっ」
 私は差し出されたハンカチを顔に押し付けて、子供みたいにえんえんと泣いた。寂然な空間に場違いな鳴き声が響く。きっと煉獄先生は凄く困ったことだろう。でも先生は、私から少しも離れることはせず、ずっと頭を優しく撫で続けてくれていた。

「煉獄先生、今日は本当にすみませんでした」
「苗字の悪い所は謝りすぎるところだな。…担任の俺がしてやれることはこのくらいしかないのだ。もう謝るのはなしだぞ」
「はい。それじゃあ、ありがとうございます…ならいいですよね」
 煉獄先生が運転する車の助手席で、私は笑顔を作って頭を下げる。先ほど沢山泣いたからだろうか、父のことは心配だが、妙にすっきりとした気持ちになっていた。
 窓の外を流れる景色に目を遣れば、燃えるような夕日が街をオレンジ色に染め上げていた。交通量も多くなっており、世の中の会社員達も帰宅の時間なのだろう。随分長い時間煉獄先生を拘束してしまったと申し訳なくなる。私はもう帰宅するが、きっと先生は今から学校に戻って仕事を片付けなければならないのだろうし。所謂、残業というやつだ。
「…青木…俺は君に謝らなければいけない」
「え?」
 唐突な言葉に釣られ、私は窓の外から運転席の煉獄先生へと視線を向ける。運転中の先生は、横目で私を一度だけ見るとすぐに前方へと視線を戻し、一つ息を吐いてから言葉を続けた。
「俺は君の話も碌に聞かず、一方的に酷いことばかり言ってしまったな」
 煉獄先生と言い合いといっても私が一方的に感情的になってしまったのだがになった日のことを言っているのは直ぐに分かった。確かにあの日以降、煉獄先生と接するのは気まずかったけれど、先生は生徒のことを、私のことを思って言ってくれていたことは分かっていたし、先生にだけ謝ってもらうのは心苦しかった。
「私の方こそ…心配してくれた先生に生意気なことを言ってすみませんでした。…丁度あの日は、勉強しても自分の成績が上がらないことに落ち込んだり、…その…父が入院していたこともあったので、色々心が不安定になっちゃってて」
「…ああ。だからこそ、苗字の気持ちを聞こうともしないで、偉そうに言ってしまった自分が不甲斐ないのだ」
「ち、違います!煉獄先生は悪くないです。言わないでいたのは私だし。むきになっていたところもあって」
「担任なら生徒が相談しやすい雰囲気を作れて当たり前だ」
「先生…」
 ゆっくりとスピードが落ちて車が停止する。エンジンを止めた煉獄先生越しに窓の外を見ると、見慣れた景色が広がっており、自宅に到着したことに気がつく。
「教師は、いつも生徒に教えてもらってばかりだ。…俺では頼り無いかもしれんが…苗字の進路のことも、お父さんのことも、力になりたいと思っている」
「全然頼りなくなんかないです。今日も…一緒に病院に付いて来て下さって、凄く心強かったです」
「苗字…。君のような良い生徒に恵まれた俺は幸せ者だな」
 思わず大きな声で気持ちをぶつけると、煉獄先生は太陽のように力強くて眩しい素敵な笑顔を浮かべ、噛み締めるように言った。
「さぁ、もう暗くなる。お父さんの件で学校を休まなければならないことがあれば遠慮なく相談してくれ。…大丈夫だ。苗字の積み上げてきたものがあれば、数日勉強しなくともどうということはないだろう。いくらでも補習の時間は作ってやれるから」
「はい。…煉獄先生、本当に、本当にありがとうございます」
 私はもう一度襟を正してお辞儀をすると先生の車を降り、小さくなるテールランプを見送った。
 煉獄先生の言葉は、私のわだかまりを溶かすのに充分すぎるほどのものだった。