安全地帯

「何か学校で嫌なことでもあったのか?」
 ベッドサイドに置かれたパイプ椅子に座り、英語の単語帳をじっと見つめていた私の耳に穏やかな声が流れ込んでくる。はっとして顔を上げれば、読んでいた本を閉じ眼鏡を外した父と目が合った。
 ここは父が入院する病院で、母の勤務先でもあった。私の部屋ほどしかないこの病室に父が入院してから、早くもひと月が経過しようとしていた。
「ううん…何もないよ」
 私は単語帳を閉じて、小さく首を横に振る。本当は父に話したいことが沢山あった。成績が振るわず苦しんでいることも、今日学校で担任の先生に生意気な発言をして後悔していることも。しかし、腕に太い針を留置され二十四時間点滴に繋がれている父の姿を見ると、そんな弱音を吐くことも躊躇われた。父はもっと辛い現実と闘っているというのに。
 しかしそんなこちらの様子などお見通しなのか、父は苦笑して私の肩をぽんぽんと叩いた。
「…お父さん?」
「まぁ名前も年頃だしな。お父さんに話せないこともあるか」
「そういうわけじゃないけど…ちょっと勉強が上手くいかないだけ。…頑張ってないわけじゃないと思うんだけどな」
 独り言のように呟いて窓の方に視線を移す。真っ暗になった外の代わりに、私と父親の姿を反射させている。ぼんやりとその姿を眺めていると、父は大きく伸びをして、ギャッチアップしたベッドに背を預けながら言う。
「名前は頑張り過ぎなくらいだよ。母さんは勉強勉強って口煩く言うけど、俺は勉強が全てじゃないって思うよ」
「でも、学生の本分は勉強ってお父さんも前に言ってたと思うけど」
「それはそうなんだけど。でも学生生活は他にも大事なことがあるだろう。部活も、友達と遊ぶことも、恋愛することも」
「…いいよ、それは大学に無事に入ってからで」
「はは、まぁ名前がそれでいいなら構わないんだが。兎に角、俺は後悔しないようにして欲しいんだ。…こうして病気になってみて、つくづくそう思うよ」
 そう言った父の顔は少し寂しそうだった。治療には前向きな父だが、今日はなんとなく元気がないように見えた。来週から抗がん剤治療が始まるため、多少なりとも不安があるのだろうか。
 お父さん、と口を開きかけたところで、看護師が病室に入ってきて帰宅を促されてしまったので、私と父の会話はそこで終了となった。既に時刻は二十二時を回っており、いくら個室とはいえ、これ以上留まるのは病院側にも迷惑がかかってしまう。これでも職員である母の家族ということで、かなり大目に見てもらっているのだから。
「じゃあお父さん、また来週くるから。治療、頑張ってね」
「ああ、ありがとう。もう遅いから、気をつけて帰れよ」
 看護師へ会釈をし、教科書がパンパンにつまった鞄を肩から掛けて病室を後にする。振り返って手を振った父が、入院前よりずっと痩せて小さくなっていることに、私は初めて気がついた。

 病院を出ると、私はなるべく人通りの多い道を選んで帰路についた。繁華街に近いこの通りは、夜遅い時間でもサラリーマンやOL達で比較的賑わっている。しかし、こんな時間にこんな場所に居る高校生は褒められたものではないので、私は気配を消しながら自宅までの道を急ぐ。
「おっ、JKじゃん!」
「おい、絡むなよー酔っぱらい!犯罪だろ」
 突然、賑々しい声が聞こえて、通せん坊するように目の前に酔っぱらいが立ちはだかる。強いアルコールと煙草が混じった匂いに、私は思わず顔を顰めた。
「ぎゃはは、なんか怖がってる!ねぇねぇ、君、名前は」
「…すみません。急いでるので」
 酔っぱらいに絡まれた経験など初めてで、どうしていいか分からなかった私は口早に言ってその場を後にしようとする。しかし、調子に乗った彼らに道を塞がれてしまう。
「おっと、逃げないでよ!こんな時間にこんな所に居るなんて、怪しいなぁ。こういう真面目そうな子が実はめちゃ遊んでるんだよねぇ」
「おいお前、本当に掴まるぞー」
 顔を真っ赤にした酔っぱらい達は下品に笑って品定めするように私を見た。恐怖、羞恥、怒り、様々な気持ちが混じり合って込み上げてきて、泣きたいわけではないのに瞼の裏側が炙られたように熱くなってくる。
「――俺のクラスの生徒に、何か用か?」
 刹那、聞き知った声が響いて、私の視界を大きな背中が覆う。少女漫画みたいなタイミングでヒーローのように登場したその人物に、私は目を瞠った。煉獄先生だ。
「わ、やばくね。先生出て来ちゃったよ。行こうぜ」
「あ、ああ。そうだな。すみませーん」
 教師の突然の登場に、酔っぱらい達は脱兎の如く去っていく。その姿を呆然と見つめていた私に向き直った煉獄先生は、いつもの優しい表情とは打って変わって、眉間に深い皺を刻んでいた。
「…煉獄先生」
「苗字…今何時だと思っている?どうしてこんな場所にいた?」
 低い声が鼓膜を打つ。煉獄先生が静かに怒りを表現していることは直ぐに分かった。
「…ごめんなさい。ちょっと…」
 俯いて口を噤む。父のことは、ばれてしまった実弥くんを除いて学校の人には話していなかった。友人にも、勿論担任である煉獄先生にも。
「言いたくないことを無理に聞くつもりはないが…高校生がこんな時間に出歩いているのは褒められたものではないぞ」
「はい。……すみません」
 理由を話すつもりはなかったが、一方的に私を諭してくる煉獄先生にイライラした。昼間の一件があったからかもしれない。私は素っ気ない返事をして視線を逸らし、一歩後ずさった。
「先ほどのような輩もいるのだ。今回はたまたま俺が通りかかったから良かったが…危険な目に合っていた可能性もある。君はまだ未成年なのだからご両親も心配するだろう――」
「だからすみませんって謝ってます!」
 腹立たしさが荒い声になって弾ける。生まれてこのかた、実弥くん以外の先生にこんな態度をとったことはない。教師に生意気に反抗することは良くないと分かっているのに、どうして言葉は止まってくれないのだろう。
「高校生がこんな時間にふらふらして悪かったって思ってます。受験生にあるまじき行為だったって。もう…二度としませんから」
 最後の方は声が震えていた。今にも涙が零れてしまいそう。私は一礼してその場を後にしようとするも、手首を掴まれてしまう。
「っ…!なんですか」
「こんな時間に一人で返すわけにはいかん。送っていく」
「大丈夫ですから!家もここから近いので」
「――煉獄?お前いきなり走っていくから何かと……名前…あーー苗字」
「え、苗字さん?」
 掴まれた腕はびくともしなくて、無意味なのは分かりつつも煉獄先生に無言の抵抗をしていると、背後で声がする。こちらの声も私がよく聞き知ったものだ。
 振り返れば、切れ長の目を丸くした実弥くんと、驚いた様子で口許に手をあてる胡蝶先生の姿があった。先生達の様子を見るに、三人で食事でもしていたのかもしれない。そして私は運が良いのか悪いのか、煉獄先生に見つかってしまったということか。
「…どうしてお前がこんな時間にこんな場所に居んだよ」
 実弥くんは瞬時に事情を察した様子で、呆れたように頭をがしがしとかくと、「俺が送っていく」と煉獄先生に告げて代わりに私の手を取った。
「ああ、こいつは俺の幼馴染なんだわ。昔から家も知ってる。安心しろォ」
 不可解な表情を浮かべていた煉獄先生に、実弥くんが説明する。
「なるほど。そういうことなら、不死川、君に任せる」
「あァ。煉獄は、胡蝶のこと送ってやってくれ」
 そう言って、実弥くんは私の腕を引いて歩き出す。実弥くんとこうして帰るのも少し気まずかったけれど、煉獄先生よりはましな気がした。この時間では、同じ学園の生徒に会うこともないだろうし、私と実弥くんの関係がばれる心配はない。たった今、煉獄先生と胡蝶先生にはばれてしまったが。
「不死川先生…もう、手、大丈夫だから」
 賑やかな通りを抜けて住宅街に差し掛かったところで、しんとした気まずい空気を裂くように私は口火を切る。
「親父さん…大丈夫だったか」
「え?」
「どうせ病院帰りなんだろ?」
 実弥くんは手を離すことはなく、私を振り返って口元に優しい笑みを浮かべた。幼い頃から私を知る実弥くんには、言わなくても私の行動も気持ちもお見通しのようだ。目頭が熱くなり、鼻の奥がじーんとなった。
「…ありがとう」
「お前は馬鹿かァ。何かあったら遠慮なく相談しろって言っただろうが」
「うん。そうだね」
 実弥くんへの恋心は風化しても、幼馴染という関係は変わらない。その事実が、毛羽立った私の心をゆっくりと元に戻してくれるようだった。