染みる初恋


「失礼します」
 その日の放課後、私は実弥くんから参考書を返してもらうべく、職員室の扉を叩いた。実弥くんは隣の席の胡蝶カナエ先生と談笑していた。彼女はしのぶちゃんのお姉さんで、生物の先生だった。本当に美しい姉妹だな、と感心しながら私は二人の机に近づいた。
「あら、苗字さん。こんにちは」
「こんにちは、胡蝶先生」
 実弥くんよりも早く私の存在に気づいた胡蝶先生が、可愛らしい笑みを浮かべのんびりした声で声をかけてくれる。
「今年もしのぶと一緒のクラスみたいですね。妹を宜しくお願いしますね」
「本当にしのぶちゃんと一緒で心強いです。こちらこそ宜しくお願いします」
「それで、職員室にいらしたということは、何か御用ですか?」
「あ、はい。…えっと、不死川先生にちょっと用があって」
 胡蝶先生から実弥くんに視線を移しておずおずと言う。
「あら、数学の質問かしら。それじゃあ私は部活に行くので、どうぞごゆっくり」
「ち、違うんです!私は不死川先生に参考書を返してもらいに来ただけで」
「まぁ。生徒から参考書を取り上げるなんて、教師としては見過ごせませんよ」
 気を利かせて席を立とうとする胡蝶先生を慌てて引きとめて言えば、彼女は上品な笑みを浮かべて実弥くんをわざとらしく諭す。
「おい、苗字。その言い方は語弊があんだろうがァ。お前が何度言っても参考書と睨めっこ止めねぇからだろ」
 不死川先生は呆れたように息を吐いて、参考書を私に返してくれた。
「良かったですね、苗字さん。でも不死川先生の仰る通り、歩きながら参考書や本を読むのは危ないですよ」
「はい。すみません」
 私はぺこりと二人に頭を下げて踵を返す。二人から離れると、先ほどの続きなのか、胡蝶先生が再び実弥くんに話し始めた。こうした二人のやりとりを見て胸が痛まなくなったのは、ここ一年くらいの話ではないだろうか。
 幼い頃から実弥くんに可愛がってもらっていた私は、いつしか彼に恋心を抱くようになっていた。この学園に入学したのだって、実弥くんを追いかけてきたからだ。そして高校生になった私は、自分の想いを精一杯彼に伝えた。何故だか私は、小さい頃からずっと一緒だった実弥くんも、自分と同じ気持ちでいてくれるような気がしていた。しかし、実際はそうではなかった。
 私を恋愛対象に見ることは出来ないと、彼はきっぱりと言って私を振った。そして私の初恋は呆気なく幕を閉じた。
 正直、悔しかった。実弥くんの優しさを「私のことを好きだろう」と思い込んでいた自分も悪いが、恋愛感情が皆無なら、優しくしないで欲しかった。こっちはかなり無理をして、この学園に入学したというのに。
 だから私は誓ったのだ。実弥くんに振られた日に。高校生活は勉学に捧げ、有名な大学に入って大学デビューを果たし、彼を見返してやるのだと。
 最初のうちは、振られた幼馴染が同じ学園内で教鞭をとっていることがこの上なく気まずかったし、実弥くんが他の女子生徒や、胡蝶先生のような綺麗な先生と楽しそうにおしゃべりする姿を見ては胸を痛める毎日だった。
 しかし時間というのは凄いもので、この二年間で徐々に思いは風化してくれた。今では実弥くんへの恋愛感情は無くなり、良い思い出になっている…と思う。彼を好きだった頃を思い出してセンチメンタルな気持ちになることが無いと言えば嘘になるが、それは「好き」という感情とは別物だ。
 やっぱり実弥くんと胡蝶先生は付き合っているのだろうか。そんなことを頭の片隅でぼんやり考えながら職員室の引き戸に手をかけたところで、扉が勢いよく開かれる。
「きゃっ!」
 廊下から飛び込んできた人物と体が思いきりぶつかってしまい、私は色気のない声を出して前方に倒れ込む。転ぶ、と思った時にはドスンという鈍い音と、本や資料が床に散らばる音が鼓膜に流れ込んできた。
「すまない!大丈夫か?」
 それから数秒後に、鼓膜をびりびりさせるほどの大きな声。衝撃に備えてぎゅっと瞑っていた目をゆっくりと開けば、申し訳なさそうに眉尻を下げる煉獄先生の顔が視界に飛び込んできた。そして同時に、私は尻餅をついた先生に抱き留められていることに気がついた。転んだ際に想像していた痛みがなかったのは、煉獄先生が私ごと衝撃を受け止めてくれたからだと納得する。
「だ、大丈夫です!それより、ごめんなさい。直ぐにどきます」
「いや、俺が慌てていたせいだ。すまない。怪我はなかったか?」
 慌てて煉獄先生の上から退き立ち上がろうとすれば、すぐに彼が体勢を整え私の腕を掴み、ひょいと引き上げてくれた。異性に触られる機会など殆どないせいか、反射的に心臓の鼓動が速くなる。
「怪我はないと思いますので心配しないでください。あ、拾うのお手伝いしますね」
 顔が熱くなるのを誤魔化したくて、床に散らばった本や書類をき集め煉獄先生に手渡した。先生は礼を述べながら心苦しそうにそれを受け取ると、私の顔を改めて覗き込む。
「む、君は、苗字か」
「え…もう名前、憶えてくださってるんですか」
「当然だろう。自分のクラスの生徒なのだから。それより、本当に痛い所は――」
「おい、煉獄。時間大丈夫なのか?今日は定時で帰るんじゃねぇのかよ」
 煉獄先生の熱血漢に関心していると、右側から声がする。釣られるように声の方へ視線を向ければ、実弥くんが煉獄先生を見ながら、職員室の壁に掛けられた時計を顎でしゃくっていた。
「ああ、そうなのだが。生徒の質問に答えていたら随分時間が経ってしまった。しかし、苗字を念のため保健室に…」
「ここはいいから、さっさといけェ。俺が代わりに保健室に連れていくから」
「そうか、ありがとう不死川」
「あ、あのっ!私は保健室なんて行かなくても大丈夫です!なんともないし、早く家に帰って勉強もしたいので」
 私の存在を無視して進んでいく話に、思わず口を挟む。何処も痛くないのに、よりによってどうして実弥くんと保健室に行かなければならないのか。
「いや、念のため保健の先生に診てもらったほうが良い。何かあれば、直ぐに俺に連絡してくれ。今日配布した連絡網に番号が書いてあるから」
 勢いに負けて思わず頷いてしまった私を見て安心したように笑うと、煉獄先生は自席に戻りさっさと荷物を持って足早に職員室を出て行ってしまった。余程大切な用事があるのだろうか。
「ほら、保健室行くぞ」
「私…どこも痛くないから、大丈夫なんです…けど」
 私の脇腹を小突き半歩先に出て、こちらを振り返った実弥くんを見上げるように言えば、視線が膝のあたりに注がれる。
「血、出てんじゃねぇかよ」
「…あ…」
「ほら、分かったらさっさと付いて来い」
 こうなれば断る選択肢が私にはないことは、幼い頃から分かっている。ハァと分かりやすく溜息を吐き、不承不承彼の後に付いて保健室へと向かった。

 失礼します、と保健室の扉を開けて中に入れば、保健医である珠世先生は不在だった。窓の外から吹き込む風で、薄いピンク色のカーテンが気持ち良さそうに揺れている。
「不死川先生…珠世先生居ないみたいだから、もういいよ」
「ちょっと席外してるだけだろ。いいから大人しく座って待っとけ」
「いいよ。だってこんな傷、絆創膏貼っておけば済む話だし。早く帰って勉強もしなくちゃいけないから」
 少しだけ声を張って言う。実弥くんと二人きりで保健室に居ることも気まずかったし、一日八時間自己学習を遂行するためにも、さっさとこの場から立ち去りたかった。
「…ちっ、仕方ねぇな。おい、ここ座れェ」
 演じるように舌を鳴らした実弥くんはやや強引に私を丸椅子に座らせると、自分はその向かい側の、普段は珠世先生が座る椅子に腰掛けて、腕まくりをした。
「い、いいってば!絆創膏くらい自分で貼れるし…っ…」
 珠世先生の代わりに実弥くんが手当しようとしていることは直ぐに分かって、慌てて拒否を示す言葉を述べるも、傷口に消毒液が染みる痛みで私は思わず口を噤む。
 大人しくなった私に満足そうな表情を浮かべた実弥くんは、慣れた手つきで消毒を終えるとそのまま大きな絆創膏を傷口にぺたりと貼って、瞬く間に手当を終えてしまった。
 幼い頃はよく傷を作る度に、こうして実弥くんが手当をしてくれていた。だから彼にとって、私の足に触れ処置をすることなど何の感情も湧かないのだろう。しかし思春期真っただ中の私は、疾うに実弥くんのことなど吹っ切れたといっても、かなり気恥しかった。
「これでいいだろ。ちゃんと夜は絆創膏変えて――」
「そんなこと言われなくても分かってるよ!私高校三年生なんだよ。赤ちゃんじゃないんだから」
 勉強の時間を奪われたからなのか、生理前だからなのか、子供扱いされたからなのか。兎に角無性にイライラした私は、勢いよく丸椅子から立ち上がりつい声を張り上げてしまう。
 実弥くんが少しだけ驚いたような表情を浮かべていたが、そのタイミングで珠世先生が保健室に戻って来たため、私は「さようなら」と先生達の顔も見ずに下校の挨拶だけを述べ、その場から逃げるように立ち去った。