新学期

 高校三年生の初日、玄関を出た私の頭上には、幸先の良さそうな青空が広がっていた。蒼穹を横断するように飛行機雲が二本伸びており、嘆息するほどの美しい景色に励まされ、私は自身に改めて活をいれる。
 今日から、高校生活最後の一年が始まる。大学受験を控えた、私にとっては勝負の年。
 中学の頃は部活に明け暮れる生活だったため、高校生になったらお洒落な服を着てみたかったし、友達と話題のカフェにも行ってみたかったし、素敵な彼氏も作りたかった。しかし結局の所、私は高校に入ってからの二年間、高校生活の全てを勉学に捧げることになった。
 勉学に捧げたと言っても、勿論やりたかったことが全て叶わなかったわけではない。中学の頃に比べればお小遣いも増えて自分で好きな洋服も買えるようになったし、テストの最終日くらいはご褒美で友人とカフェにも行った。
 でも一番憧れていた、彼氏を作って恋愛をすることだけは、叶えることが出来なかった。それは「ある出来事」がきっかけとなっている。
「おい、名前!参考書見ながら歩くなって、何度言ったら分かるんだよ」
 背後から声をかけられ、その直後にぽんと軽く頭を叩かれる。顔を見なくても声の主が誰であるかは直ぐに分かった。私は手にしていた参考書を閉じ小さな息を吐いてから、ゆっくり背後を振り返る。
「…おはようございます。不死川先生」
「クマがすげぇな。まさかまた夜中まで勉強してたとか言うなよ?」
「してたよ。毎日八時間勉強を目標にしてるから」
「だから前から言ってんだろォ。寝なきゃ定着しねぇんだよ、知識ってのは」
「ほっといてよ。…私は実弥く…不死川先生みたいに要領良くないから」
 呆れたような表情を浮かべる彼からぷいと顔を背け、私は一人歩き始める。朝から学校の外で実弥くんに会ってしまうなんて、やっぱり幸先が良くないのかもしれない。
 実弥くんは、私が通う学園の数学の先生だ。そして私の幼馴染でもあり、「ある出来事」のきっかけとなった人物その人だ。
「おい、待てよ名前!」
「不死川先生、学校では名前で呼ばないって約束でしょ。不死川先生は生徒達に大人気なんだから、怖い女子グループから目つけられたくないの」
 あっという間に私に追いついて、気安く名を呼ぶ実弥くんを軽く睨みながら言う。彼は「悪ぃ」と呟き頭を掻きながらも、私と別々に登校――実弥くんからすれば出勤だが――するつもりはないのか、そのままこちらのペースに合わせて歩きながら話を続けた。
「今日はお前に聞きたいことがあったんだよ」
「聞きたいこと?」
「ああ、実はおふくろから聞いたんだが。…親父さん、入院したんだって?」
 実弥くんの言葉に息を呑む。恐らく母が彼の母親に話したのだろう。出来ればあまり知られたくなかったが。
 父が入院したのはつい数週間前のことだ。癌が見つかり治療が必要になったためだ。看護師である母が、父の足が腫脹していることに気付いて受診をしたところ、医師からはかなり厳しい現実を突きつけられた。生きるためには、膝から下の切断が必要だというのだ。正直その話を聞いた時は戸惑ったし悲しくて沢山泣いた。しかし、当の父親が治療に前向きだったため、私達家族も希望を持つことが出来た。
「そ、そうだよ。でも不死川先生には関係ないでしょ」
「いや、関係なくねぇだろ。俺もお前の親父さんには小さい頃から世話になってんだから」
「それは…そうだけど」
 心配そうな実弥くんの声が滲むも、私は「でも大丈夫だから!心配かけてごめんね」と可愛げもなくつっぱねて、再び参考書を開いて英単語に神経を集中させる。しかし、数秒後には私の手から参考書は消えていた。今度は少し怒ったような低い声が頭上から降ってくる。
「言うこと聞かねぇ奴のは没収だなァ。後で職員室に取りに来い。そしたら返してやるから」
 実弥くんは軽々と参考書を奪うと、さっさと自身の鞄にそれを仕舞い、「何かあったら遠慮なく相談しろォ」と言いながら私の頭をぽんと叩いて、スタスタと先を歩いていってしまった。放課後職員室に行くのも面倒で、追いかけて返してもらおうかとも思ったが、背後から私を呼ぶ友人の声が聞こえたので、それは叶わなかった。
「名前、おはよう!」
「あ、綾美。お、おはよう」
「ねね、今の人、不死川先生だよね?なんか親密な雰囲気だったけど」
 友人である綾美は興味深そうな表情を浮かべ、私と小さくなっていく実弥くんの背中を交互に見ながら声を弾ませた。ほら言わんこっちゃない、と思いながら慌てて首を横に振る。
「そ、そんなはずないよ!ちょっと数学で分からない箇所があって、放課後聞きに行っていいか確認しただけ」
「…名前。私はねぇ、名前と二年間も一緒にいるんだよ!そんなばればれな嘘じゃ私は騙せません。だってさっき不死川先生、名前の頭、ぽんてしたじゃん!」
 ばっちり目撃されてしまっていた。もうこれ以上誤魔化すのは難しそうだ。私は諦念の息を吐いて、重たい口を開いた。
「…誰にも言わないでね。…実は私、不死川先生と幼馴染なの」
「ええっ?初耳なんだけど!」
「だって初めて言ったもん。…不死川先生って女子から人気でしょ。なんか変な噂が広まって目を付けられたら嫌だったから」
「あー、まぁ確かにそれは一理あるかも」
 綾美は顎に手を置きながら得心したように言うも、再びニヤニヤとした笑みを口角に湛えて殊更楽しそうに続けた。
「でもさ、幼馴染ってめちゃいい関係じゃん。実はお互い好きでしたとか、内緒で付き合ってますとか、本当はあるんでしょ?」
「ないない。そんなことあるわけない」
 私は苦笑いを浮かべ、興奮した彼女の言葉を全力で否定する。綾美は少し不満そうに唇を尖らせた。そんな顔をされても、ないものはないのだから仕方がない。
 だって私は高校に入学した時実弥くんに告白し、きっぱりと振られているのだから。

「名前さん、おはようございます」
「あ、しのぶちゃん、おはよう。最後の年も一緒のクラスみたいだね。宜しくお願いします」
「こちらこそ、仲良くしてくださいね」
 柔からな声に釣られ、窓の外をぼんやりと眺めていた視線を声の主へと移動させる。校庭に咲き乱れる桜の花のように美しい笑顔を浮かべ、私の前の席に腰掛けたのは、胡蝶しのぶちゃんだ。
 彼女とは縁あって一年生の時からクラスメートだった。そして最後の一年も彼女と一緒のクラスになれたことに、私は心から安堵した。仲良しの綾美も一緒のクラスだ。私達は三人で一緒にいることが比較的多かった。
「しのぶちゃん、今年の担任の先生誰だと思う」
 私は両手で頬杖をつきながら、一限目の授業の教科書を取り出すしのぶちゃんに尋ねる。毎年クラス替えがあるこの学園は、当然、そのタイミングで担任も替わる。ゆえに、新学年初日の生徒達は、自分の担任を予想して盛り上がるのだ。
 しのぶちゃんは授業の準備を済ませたところで両の口角をバランスよく上げ、私に顔を近づけ小声で言った。
「内緒ですよ。実は姉からこっそり聞いてしまいました」
「え、そうなの?だ、誰?」
 別に誰になっても構わないのだが、実弥くんだけは避けて欲しかった。大学受験を控えた最後の高校生活だ。もう実弥くんのことを好きでもなんでもないけれど、幼馴染で自分のかつての想い人が担任というのも、どうもやり辛い。ごくりと唾を呑み緊張した面持ちで、どこか勿体付けた様子のしのぶちゃんの言葉を待っていると、答えよりも早く、その人物が教室に姿を現した。
「皆、おはよう!」
 溌溂とした声に、教室が一瞬水を打ったように静かになる。そして数秒後には、教室が嬉しそうな生徒達の声で満ちていく。
「煉獄先生じゃん、ラッキー」
「最後の年が煉獄先生とか…神すぎんだろ」
「どうしよう、煉獄先生だ。ねぇねぇ、どうしよう!やばい」
「煉獄先生、今年も宜しくね!」
 教室の至る所から声が聞こえる。安堵した様子の男子。顔を赤らめて慌てる女子。クラスメートの反応からも分かるように、この学園において煉獄先生は間違いなく人気教師だった。
「正解は、煉獄先生でした」
「しのぶちゃん。先生が来る方が早かったよ」
 口元に手をあて上品に笑うしのぶちゃんに、私は内心安堵しながら言う。良かった。実弥くんじゃなかった。
「大人気ですねー、煉獄先生」
 次々と生徒に話しかけられては、一つ一つ丁寧に対応する煉獄先生の様子を眺めながら、しのぶちゃんが間延びした声で言う。
「そうみたいだね」
「あら、名前さんはあまり興味がなさそうですね」
「興味がないっていうか…私はしのぶちゃんと違って高校からこの学園に入ったし、煉獄先生のこと、あんまり知らないんだよね。歴史の授業も煉獄先生に習ったことないし。明るくて良い先生なのは有名だから知ってるけど。でも担任だから歴史の授業は担当するよね。…私、歴史あんまり得意じゃないから、これからお世話になることは多そうな気がするけど」
 苦笑いを浮かべながら言えば、「名前!」と勢いよく名前を呼ばれたと同時に背後から首に手が絡みついてきた。
「ねぇねぇ、煉獄先生だよ!やばくない?」
 綾美が興奮気味に言って、私としのぶちゃんに同意を求める。やばくない、と言われてもいまいちピンとこなかった。確かに煉獄先生が大人気なのは知っていたし、多くの女子生徒から告白されているという噂も何度も耳にしたことがある。しかし、高校生活をほぼ勉学に捧げてきた私は、周囲の女子に比べてそういう情報に疎かったし、正直あまり興味がなかった。
「はいはい、良かったね」
「なんか名前テンション低いなー。あ、分かった!やっぱり好きな人いるんでしょ。ほら、朝言ってた幼馴染の不死川せんせ――」
「ちょっ!それは言わない約束。それにそういうんじゃないってば――」
「さぁ、ホームルームを始めるとしよう!皆、揃っているな」
 慌てて綾美の口を手で塞いだところで、煉獄先生の大きな声が教室に木霊する。賑やかだった教室は一瞬にして静かになった。
「俺は今日からこのクラスの担任になった煉獄杏寿郎だ。高校三年生である君達にとって、この一年は大切な年になるだろう。俺も全力で君達を応援する。一年間宜しく頼む」
 私の高校三年生の初日は、こうして幕を開けた。