認めたくない


 昼休み、社会科準備室のドアをノックしようとした手を咄嗟に止める。中から声が聞こえてきたからだ。自分と同じように、煉獄先生に個別指導を受けたり質問をしにくる生徒が居るのかもしれない、と思ったのも束の間で、私は鼓膜に流れてきた話の内容に目を丸くする。
「煉獄先生、あの、私、本気で先生のこと好きなんです!」
 ありったけの勇気を振り絞ったような切実な声が聞こえた。強い決心が滲んでいるようにも思う。
「…すまない。君の気持ちは有難いが、答えることは出来ない」
「それって、私が生徒だからですか?」
「いや、そういうことではないが…」
「生徒だからとか先生だからとか、そういう理由で振るならやめてください。ちゃんと、私を見てから考えてください。……お願いします…煉獄先生のこと、好きでどうしようもないんです」
「…君のことは、教師としてちゃんと見てきたつもりだ。君が素晴らしい生徒であることはよく分かっている。ただ生徒だから、という理由で言っているわけではない。…本当にすまない」
「っ…先生、酷い。でも結局それって、私が教え子だから気持ちに答えられないって言ってるように聞こえます。…好きじゃないなら、最初から優しくなんかしないで」
 こんな風に立ち聞きなんて悪趣味だと思いつつ、私はその場を離れることが出来なかった。扉の向こうからは、女子生徒が泣きじゃくる声が聞こえてくる。煉獄先生が学校中の生徒から人気であることは知っていたが、本気で恋をしてしまう女子生徒もきっと少なくはないのだろう。ふと、自分が実弥くんに振られた当時を思い出し、胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちになった。好きな人に「好き」と言ってもらえない辛さは、私もよく知っていた。
 女子生徒が中から出てくる気配がして、私は咄嗟に近くの柱に身を隠す。目元をハンカチで抑えて走り去っていく背中をこっそり確認すれば、私達の学年でもとびきり美人で有名な同じクラスの生徒だった。あんなに可愛い子にどうして彼氏が出来ないのかとずっと不思議に思っていたが、なるほど、彼女は煉獄先生のことがずっと好きだったのだ。
 彼女が廊下の角を曲がって見えなくなるのを見届けてから、私は再び社会科準備室の前に立ち、呼吸を整え今度こそドアをノックする。すると、すぐにいつもの元気な煉獄先生の声が返ってきた。
「先生、苗字です。今日から、宜しくお願いします」
「ああ、待っていたぞ。時間も限られているし、早速取り掛かろうか」
 一礼して入室した私に、煉獄先生は爽やかな笑顔を向け、自身の隣の席の椅子を引いて座るように促した。数分前の出来事は嘘だったかのように、いつも通りの煉獄先生に拍子抜けしてしまう。
「問題集は解いてきたか?」
「あ、はい。でも、結構難しくて。調べながら解いても少し分からないところがあって」
「ふむ、では一緒に見ていくとしよう」
 椅子に腰かけると、煉獄先生が私との距離を少し詰めて、問題集を覗き込んでくる。煉獄先生の肘が自分のそれにあたって、心臓がどくんと妙な打ち方をした。先ほど、煉獄先生が告白されているシーンを目撃してしまったせいもあるのか、分かりやすい解説に集中したいのに、ソワソワして落ち着かなかった。
「…苗字?どうした、気分でも悪いか?」
 耳元で労わるような声が揺らぐ。丁寧な説明に相槌を打っていたのだが、煉獄先生は私が心ここに有らずなのは、疾うにお見通しだったようだ。はっとして先生の方を向けば、大きくて力強い双眸と目が合った。こんなに至近距離で異性の顔を見ることなどそうないため、反射的に頬が熱くなる。
「ご、ごめんなさい。大丈夫です!」
「相変わらず、睡眠時間を削って勉強しているのか?」
 誤魔化すように慌てて言った私に、煉獄先生は口の端にふっと笑みを浮かべて問うた。先生に、自宅に帰ってからの大半を勉強に費やしていると話したのは最近のことだ。先生からは、時間が全てではないとアドバイスを受けたのだが、今まで積み重ねてきた習慣は中々抜けてくれない。
「もっと効率よく勉強しなきゃと思って努力はしてるんですけど…なんか勉強してないと落ち着かなくて」
「苗字は本当に勉強熱心だな、尊敬する。だが、しっかり睡眠をとることも知識を定着させるには必要だからな。…あまり無理はするな」
 煉獄先生が綺麗に並んだ白い歯を見せてニッコリと笑う。同世代の男子にはない、包容力抜群の笑顔に安心感を覚えると同時に、心臓がどくどくと早鐘を打つ。どうしてだろう。最近の私は、少しおかしい。煉獄先生を見ると左胸が絞られるように痛くなるのを無視出来ない。父親の件で煉獄先生にはお世話になったし、進路の件でも色々と心を砕いてもらっている。それだけ。それだけのはずなのに。
――煉獄先生、あの、私、本気で先生のこと好きなんです
 先程の女子生徒の言葉が頭の中で木霊する。もしかして、私も煉獄先生に特別な気持ちを抱いているとでもいうのだろうか。一瞬そんな考えが脳裏を過るも、直ぐに打ち消す。
 人は少し優しくされるとその人を好きだと勘違いしてしまうものだ、と以前何かの本で読んだことを思い出す。夢に出てきた人が突然どうしようもなく気になってしまうのも、これに似ている。自分の気持ちを見誤ってはいけない。
 社会科準備室に次の生徒が質問に来るまで、煉獄先生は丁寧に来月の全国模試の対策ポイントを説明してくれた。当初は五分だけ、と思っていたはずなのに、もっと先生の個別指導を受けていたい気持になった。
 入れ違いに入ってきた女子生徒は、クラスは違うけれども学年が一緒の女子生徒だった。胸に日本史の参考書を抱えた彼女のふっくらとした頬は、すれ違い様にも分かるくらいピンク色に染まっていた。
 こんな風に煉獄先生に質問に来る生徒は、私以外に一体何人いるのだろうか。そんなことをふと考えると、なんだかすっきりとしない気持ちになった。

 その日の最後の授業は、来月に開催を控えた体育祭のための練習時間にあてられていた。体育祭はいくつかの競技で、クラス対抗で勝敗を決めることになっているのだが、今回私はバレーボールのチームに宛がわれていた。
 梅雨明けも近づき、外気と生徒の熱気で些か蒸し暑く感じる体育館に、生徒達の威勢の良い声と、床を踏みしめるきゅっきゅっとした小気味良い音が響く。
 運動音痴の私にとって、体育祭の練習は苦行と表現しても大袈裟ではないくらいだが、クラスが一つに纏まり力の限りを尽くす雰囲気は嫌いではなかった。今年は担任が、熱血漢の煉獄先生ということもあり、さらにクラスの士気が増している気がした。
「ねぇ、名前。なんかさ、彼女、体調悪そうじゃない?」
「え?」
 一緒にコートに入っていた綾美が私に近づいてそっと耳打ちしてくる。綾美の視線を追えば、本日の昼休み、煉獄先生に告白をしていたクラスメートの落胆した様子の背中が見えた。心なしか、顔色も悪いように見える。やはり、煉獄先生に振られたことが原因なのだろうか。
 綾美に本日の昼休みに目撃したことを言う訳にもいかず、休んだらどうかと声をかけようか逡巡していると、強めのホイッスルの音が鼓膜を打つ。練習試合開始の合図であり、反射的に視線を相手コートに向けると、ジャンプサーブによって放たれたボールが物凄い勢いでこちらのコート目掛けて飛んでくる。そしてそれはあろうことか、見るからに体調が悪そうな彼女の元へと向かっていた。
 彼女にぶつかってしまう。そう思った時には、咄嗟に身体が動いた。自分だって運動音痴であり、こんな鋭いサーブを受ける技術なんて持ち合わせていない。けれども、このままでは彼女が怪我をしてしまう。
 煉獄先生に振られてしまった彼女を見て、なんだか他人事には思えなかったのかもしれない。実弥くんに告白して振られた自分を重ね合わせていたのかもしれない。
 肌とボールがぶつかる、鈍い打擲の音が広い体育館に木霊した。側頭部を襲った強い衝撃に、痛みを感じる余裕すらなかった。「苗字!」と私を呼ぶ声が遠くで聞こえた気がしたが、意識は急速に遠のいていった。