君はいつも甘くていい匂いがする



教師は聖職者だという声は、このご時世でも未だ聞こえてくる。街を歩くにも模範にならなければならないし、先生と呼ばれるのだからと人を諭すのが当然と思われている。清く正しく美しく。そう在るべきなのだと。
 だけど、教師もひとりの人間に過ぎない。それを生業としていても、失敗することだってある。
 そして、恋をすることもあるのだ。


「失礼します」


 ガランとした職員室に入ると、手に持っていた山盛りの封書を其々の机と宛名を確かめながら丁寧に置いていく。
 この学園で養護教諭として働く私の仕事のひとつでもある、健康診断の時期がやってきた。必要な書類を先生達の机に置いていると、椅子に足を引っ掛け、バランスを崩した私の手中にある封書が踊るように崩れだし見事に床へと滑り落ちた。
 先生達は授業中。誰にも見られなくて良かった。胸を撫で下ろして急いで拾い集めていると、背後から「大丈夫か?」と心地の良い声が聞こえた。
 振り返って返事をする前に、その声の主が私のすぐ側にしゃがみ込んだ。


「杏寿郎先生っ! 授業は?」
「この時間は空き時間だ。うむ、これは健康診断の書類か。名前先生はこれから多忙になるんだな」
「えぇ、そうですね。杏寿郎先生達も――」


 手元の封書を拾い集めながら会話をしていた所為で、同じ封書に手を伸ばし手が触れる。反射的に顔を上げ視線が合う。その距離は今にも唇が触れてしまいそうだった。
 端正な杏寿郎先生の顔を間近に感じ、思わず尻餅をつく。拾ったばかりの封書がまた床へと散らばった。
 顔が熱い。きっと赤くなっているであろう私を他所に、杏寿郎先生が口許を緩めながら手早く封書を集め、最後に私の真横に落ちているものを拾った。
 手が伸ばされ開いた胸元に私の身体が少し入る。触れ合っていないのに、抱きしめられているような錯覚になった。


「そそっかしいな、名前先生は」


 杏寿郎先生の声が鼓膜を震わせる。私は急いで立ち上がりお礼を言うと、彼から奪った封書を物凄いスピードで配り急いで保健室へと戻った。
 後で書類を届けに行く、という杏寿郎先生の大きな声は激しく鳴る心音でほとんど聞こえなかった。


 ガラガラとその扉が開いたのは、夕陽が沈んでもう生徒のほとんどが帰宅している時間だった。
 提出間近の書類作成に没頭していて訪問者の反応に遅れ、顔を上げた時にはもう彼は私の傍に立っていた。
 赤いネクタイと同じ色の毛先が視界の先で揺れ、私の顔を覗き込む杏寿郎先生を前に、また顔に熱が集中していく。


「もう終わるのか?」
「あ、はい。あとは備品チェックしたら帰ります」
「では家まで送ろう」


 杏寿郎先生の手が伸び、私の頬を掠める。その熱は私なのか、それとも彼なのか。交わる視線を暫く逸らせなかった。





 杏寿郎先生に車で送ってもらうのはこれで二回目だった。一度目は、「話がある」と言われ、今日は何も言われていないけど理由は分かっている。
 そもそも、言わなくても伝わってしまっているのではと思う程、私は自分の気持ちを隠せていない。


「名前先生、返事を聞かせてもらえるだろうか」


 少し車を走らせてから、人気のない公園の駐車場に車を停めた杏寿郎先生が、私に視線を送る。
 そう、私は一度目の時に杏寿郎先生に告白されたのだ。そしてその返事を即答することなくこうして持ち越している。
 告白されてから意識するようになった彼の存在。もちろんその前から素敵な人だとは思っていたけど、恋ではなかった。それでも想いを伝えられれば、意識してしまうのは当然で、今では目が合うだけで心臓が騒ぎ出し顔が赤くなってしまう。完全に杏寿郎先生に恋をしていた。
 顔を上げれば当たり前に交わる瞳。真剣に想いを伝えてくれたのだから、私も伝えなければ。
 意を決して想いを言葉にするために、深く息を吸い込んだ。


「…私も杏寿郎先生が、好きです」
「では、告白の申し出は受けてくれるのだろうか」


 コクリと頷くと、目の前の杏寿郎先生の表情が喜びと安心を湛えた笑顔に変わる。
 ありがとう、と破顔したまま勢いよく私に抱きついた。思わぬ事態に私は硬直し、杏寿郎先生の腕の中で慌てふためく事しかできない。名前を呼ぶと、杏寿郎先生が慌てて私を離した。


「すまない、嬉しくてつい」
「いえ、ちょっと驚きましたが……私も嬉しいです。杏寿郎先生の恋人になれるなんて夢のようですから」
「…もう一度、抱きしめてもいいだろうか」


 断る理由なんてない。さっきは驚きはしたけど、包み込まれた温もりがもう恋しいとさえ思っていたのだから。
 私の視線を肯定と捉えた杏寿郎先生の腕が再び伸びて背中に回る。先程よりも熱く強い抱擁に胸がキュッと締め付けられるようだった。
 とても心地の良い杏寿郎先生の温もり。目を閉じて幸せを噛み締めていると、耳元で杏寿郎先生の声が甘く囁かれた。


「君はいつも甘くていい匂いがするな」


 その言葉に心臓を掴まれた気分になり、熱をもった血液が身体中を急速に駆け巡る。首元に顔を埋めて匂いを確かめるように鼻を啜る杏寿郎先生に色気を感じ、心臓が甘く疼いた。
 愛用しているバニラのフレグランス。仕事中はほんの少ししかつけていないが、退勤前にメイク直しをした時に、杏寿郎先生と帰るのだからとそれもつけ直した。だから今その香りがするのは分かるけど、普段はそんなにつけていない。
 いつも、という言葉に羞恥が走る。杏寿郎先生がこの香りを知っているなんて。


「最初は…甘い香りがするとその後を目で追えば、いつも君がいた。そうして君を見つける度に気づけば俺は君のことばかり見ていた気がする。だがこうして近づいて、いつもよりも近くでこの匂いを感じて分かった」
「…なにを、ですか?」
「確かにこの甘い匂いはとても香りがいい。だが、俺が追っていたのは君の……名前自身の香りだったんだな」


 私の知らない所にある甘い雰囲気に変わるスイッチでも押されたのだろうか。それ程までに、この車内も杏寿郎先生も私も、艶めかしく変わった空気に染っていく。
 頬に這わされた手が髪を掬い、杏寿郎先生が顔を近づける。あと数センチという所で、「キスしてもいいだろうか」なんて、意味の無い質問を投げかけた。
 甘ったるい空気に包まれて、唇が触れ合う。普段とは違う優艶で雄々しげな彼に、私の胸は高鳴っていくのだった。

―Fin―