君に恋に落ちる理由



「あ、愛莉、遅かったね」
「ちょっとモデルさんの我儘で撮影がおしちゃって」
「お疲れ様。私もさっき着いた所だから気にしないで」
 先に店に到着していたゆき乃が、メニューに走らせていた目を私に向けて人懐っこい笑みを零す。私はゆき乃の向かいに腰を下ろして、店員が運んできたおしぼりで手を清め、彼女に倣ってもう一冊のメニューに手を伸ばした。
「とりあえずビールかな?あ、愛莉はワインだっけ」
「でも、折角だし一杯目はビールにしよっかな」
「了解!今日は華金だもんね」
 注文を済ませると、運ばれてきたビールのグラスで乾杯する。私達は女子会と称して、二週間に一度はお洒落で話題のレストランで食事を共にし、近況報告をし合っていた。
「…愛莉…そういえばさ、今日、不死川主任に聞いたんだけど」
 ゆき乃が三杯目のドリンクに口を付けながら、窺うような目で私を見る。今まで楽しく話をしていた彼女とは明らかに違う声音に、私はメインディッシュに伸ばしかけていた手を止める。
「不死川さんて…あ、もしかして、泊まりがけの出張のこと?」
「そう、それ…そのこと」
 ゆき乃は耳を微かに赤らめて恥ずかしそうに視線を逸らす。彼女はきっと私と不死川さんが組んで取材に行くことを気にしているのだ。私が、ゆき乃と煉獄さんが組んで取材に行くことを気にしているように。私達って恋する乙女。
「ゆき乃、最初に言っておくね。私、不死川さんのこと好きになるとか絶対ないから。そもそも、私もゆき乃と一緒で、彼のこと苦手だし」
「でも、恋に落ちる瞬間って…本当に突然だし…」
 ゆき乃は、今度は頬をほんのり桃色に染めて言う。どうやらまだ納得してもらえないようだ。自分の気持ちを口にするのは少し照れくさかったが、言うならこのタイミングだろうと、私は深呼吸を一つして開口する。
「実は、私も同じ部署に好きな人がいるの。私、その人に恋してるから…だから、ゆき乃が心配するようなこと何もないよ」
「えっ、そうなの?だれ、だれ?私の知ってる人?」
 今度は私が恥ずかしがる番だった。ゆき乃はテーブルにグラスを勢いよく置くと、こちらに身を乗り出して言う。くりくりした可愛らしい目が、興味津々といった感じだ。
「…多分…っていうか…絶対知ってる。…あの…えっと……れ…煉獄さん…です」
「煉獄さんて、愛莉の上司のあの煉獄さん」
「分かってる。釣り合わないってことくらい。…でも、やっぱり好きって思っちゃって…」
「そっか…私達お互い、自分の上司に恋してたんだね」
 ゆき乃はしみじみと呟き乗り出していた身体を元に戻す。
「うん。…だから、私はゆき乃の方が心配。…煉獄さんと二人で行く取材…不死川さんがOK出してくれたっていうゆき乃の企画でしょ?…あの、女子会のラブホのやつ」 
「私も愛莉と一緒!不死川主任のこと好きだし、煉獄さんを好きになることはないかなぁ。格好いいのは認めるけど、やっぱり好きな人が一番格好良く見えちゃうから」
「うん、そうだよね。…あーあ、ゆき乃と一緒に取材に行けるなら、お互いこんなもやもやした思いしなくて済んだのにね」
「本当だよね。私も愛莉と一緒に取材回りたかったよ。だってラブホ女子会の取材なのに、どうしてよりによって男性の煉獄さん。まぁ、不死川主任の指示だから仕方ないけどさ」
「煉獄さんの写真は女子ウケもいいからなぁ。彼って、本当女子の好きなポイントおさえてるから」
「愛莉も恋してるんだね。よし、お互い頑張らなきゃね。あ、もう一杯何か飲もっか」
「うん、じゃ、もう一杯白ワインで!」
 自分の胸中を打ち明けることが出来たことに安堵しながら言うと、私はグラスに少しだけ残っていたワインの液体を飲み干した。

 不死川さんとの出張は、仕事が恨めしくなるほどの好天だった。目的地に降り立てば、強い新緑の匂いに包まれて、マイナスイオンが全身を浄化してくれるようだ。
 今回の記事のテーマは「大人の休日!高級旅館特集」で、一泊十万円以上もする高級旅館をいくつか取材させてもらうことになっている。「安くていい物」に需要がある時代だが、高級志向の層が一定数いるのもまた事実。
私がメインでフォトグラフを担当している雑誌「Discover Japan」は、旅、宿、食事、芸術といったテーマで、それぞれの魅力を再発見するというコンセプトで毎月刊行されている。しかし、読者の年齢層が高い影響もあるのか、アンケートで需要の高かった「高級旅館」の特集を、今回は組むことになったのだそうだ。
 不死川さんと一緒に一日かけて数件の宿の取材に回り、ここが今日取材する最後の宿だ。伝統的な文化と洗練されたモダニズムを併せ持った魅力が巷でも話題になっており、最近は雑誌やメディアで度々取り上げられている。
 たった九つしかない全室露天風呂付の部屋の全てはリバービューで、駅からそう遠くない距離にありながらも、森の息吹を感じられ、自然に抱かれているようなシチュエーションが魅力的だ。宿全体が、青々とした葉を鈴なりにつける木々に囲まれており、客室一つ一つからもその素晴らしい景色が一望出来た。
「凄い…綺麗」
 ファインダー越しに見える景観の素晴らしさに、夢中でカメラのシャッターをきっていると、宿の広報の人と話をすませた不死川さんが、ゆったりと近くの壁に凭れかかって私の様子を観察している気配がした。
「…あの…そんなにじっと見られてると、やりにくいんですけど」
 ファインダーから一旦目を離して、小さく息を吐いて不死川さんを見る。すると彼は強面の顔を微かに綻ばせて感心したように言った。
「なぁ、川谷…お前、随分と楽しそうに写真とるようになったなァ。一年前とは大違いだな」
「え?」
「なんか心境の変化でもあったのか?」
 心境の変化。そんなものはありまくりである。煉獄さんと出会ってから、ファインダー越しの私の世界は一層輝き始めた。私にカメラと写真の魅力を思い出させてくれたのは、間違いなく煉獄さんだった。
「…にやにやして気味悪ィな」
 そんなにだらしない顔をしていただろうか。私はきっと表情を引き締め、小さな咳払いを一つして、ゆっくりと口を開いた。
「…尊敬している人がいるんです。実は働き始めてから、大好きだったカメラを見るのも苦しくて、もうフォトグラファーもこの会社も辞めてやろうって思ってたんです。…でも、その人に出会って、写真やカメラの魅力を再発見出来たというか…。その人を見ていると、自分もシャッターを切らずにはいられなくなってしまったというか。あ、まさに私が今担当している『Discover Japan』みたいな感じです。再発見。あ、うまいこと言いましたかね」
 何も言わずに私の話に耳を傾ける不死川さんを見て、ついつい饒舌になってしまったと反省する。恥ずかしくなって最後は誤魔化すように言えば、不死川さんが、また強面に似つかわしくない優しい笑みを口角に浮かべた。
「大してうまくもねぇだろォ」
「す…すみません。あ、それより、不死川さん、いいんですか?一服しなくて」
 首からぶら下げたカメラのレンズを付け替えながら問う。今日は、一日ずっと不死川さんと行動を共にしていたが、彼が喫煙タイムで席を外すことがなかったことを思い出す。以前テレビで、喫煙者は自分の意志とは無関係に煙草を吸いたくなるのだと言っていた。ニコチン依存症という一種の病気なのだそうだ。
「あ?煙草は身体に悪ィって言ったのは、川谷だろ。それに、匂いも嫌いなんじゃねぇのかよ」
「た…確かに言いましたけど」
 不死川さんが私の忠告を聞き入れてくれたことが意外だった。人から命令されることなんて心底嫌がりそうだが。まぁ、今はハラスメントだなんだのと煩い時代だ。「煙草臭い」イコール「スメハラ」と部下から訴えられるリスクを回避したいだけかもしれないけれど。
「で、後どのくらいかかる?」
「はい、あともう数パターン撮影したら終了です。あ、良ければ先に宿泊先、戻っててください。最後は責任者の方に挨拶を済ませてから帰るので」
 言いながら再びファインダーを覗き込むと、一瞬視界に影が入り込んで真っ暗になり、カメラを僅かに持ち上げられていた。目の前には私を見下ろす不死川さん。
「ちょっ、何ですか?」
「終わったら飯だな。何食いたいか考えとけェ」
 不死川さんと二人きりで食事だなんて、考えただけでも気まずいことこの上ない。私は重い息を吐きだすと、再びカメラを構えた。一瞬だけ脳裏にゆき乃の顔が過って、少しだけ申し訳ない気持ちになった。

 不死川さんが連れて来てくれたお店は、温泉街にはあまり似つかわしくない小洒落たイタリアンだった。流石営業部。こういった雰囲気の店を探すのはお手のものなのだろうか。
「お疲れ様です。…不死川さん、ここも全席禁煙ですけど、大丈夫なんですか」
 ソムリエである店員さんお勧めのワインを注いだグラスを合わせ、一口だけ口に含んだ後、私は眉を顰めて不死川さんを見る。ゆき乃から、彼はかなりのヘビースモーカーだと聞いていたし、そんな人が一日も煙草を吸わないなんて拷問に近いのではないか。勿論やめろと言ったのは私で、「善処する」と言ったのは彼だが、有言実行の早さが逆に不可解だった。
「まぁ、あんまり周囲にも臭いはよくねぇみたいだしなァ」
「そうですよ。受動喫煙では毎年多くの人が亡くなってるんですから」
 行儀が悪いと思いつつ、アラカルトを口に頬張りながら言えば、不死川さんは息をするように笑って、私に問う。
「そういえば、なんで川谷はそんなに詳しい?」
「煙草のことですか?家族に医療関係が多くて、その影響です」
「なるほどなァ。年下に身体の心配されたのなんて初めてだぜ。ったく、生意気だな」
 不死川さんはそう言って、私の額を長くて綺麗な指で弾いた。所謂デコピンだ。
「いっ…セクハラですよ、これは」
 額を押さえて訴えるように言えば、不死川さんは端正な眉目に微かに漂わせていた笑みを深めた。
 酒もすすみ話に花を咲かせていると、突然机に置かれたスマートフォンがぶるぶると振動する。不死川さんのスマートフォンだ。
「悪ィ」
「いえ、どうぞどうぞ。出てください」
 不死川さんは画面を見るなり、眉根を寄せ慌てて店の外に出ていった。その後ろ姿をぼんやりと眺めながら、私は小さく息を吐いて頬杖をつく。
 お酒のせいもあるのか、不死川さんとここまでうちとけて会話が出来ていることに自分自身が驚いていた。彼はゆき乃が言うように、一見近寄り難いが、本当は部下思いの優しい人なのだろう。
「川谷、すまねぇが急用が出来た。俺は一旦家に戻る。明日、朝一で戻ってくる」
 不死川さんは、少ししてテーブルに戻ってくるなり、荷物と上着を掴んで慌ただしく私に言う。一体この数分で何があったというのか。彼の顔には微かに動揺の色が見てとれる。
「どうしたんですか?何か会社でトラブルでも」
「いや、会社は関係ねぇ。実家の方だ。どうやら一番下の弟が熱出してひきつけを起こしたらしい」
「ひきつけ?それは大変…でも今から終電で帰って明日の朝一って本当とんぼ返りに…あ、電話かけてきたのってご家族ですか」
 スマートフォンで新幹線のチケットを手配しようとする不死川さんに言ったそばから、また彼の手中のそれが振動した。
「どうした、今から帰るから…おい、お前がそんなに慌てて――」
「不死川さん、ご家族ですか?ちょっと電話借りられます?」
 席を立ち、珍しく取り乱した様子の不死川さんに声をかければ、「それどころじゃない」といった訝し気な視線が向けられる。その迫力に一瞬怯むも、私は負けじと口を開く。
「ひきつけなら、対処出来ますから。私に、代わってください」

 それから一時間後、私と不死川さんは、肩を揃えて宿泊先の宿までの道をゆっくりと歩いていた。二十二時を回った温泉街は、息を潜めたように静かだった。夜の静寂に二種類の足音が響く。頭上に広がる藍色の空には、都会では到底拝むことが出来ない夥しい数の星達が、音もなく瞬いていた。
 結局不死川さんが実家に帰ることはなかった。私が電話を通じて指示を出し、ひきつけの症状に対処することが出来たからだ。身内に医療従事者がいると役に立つこともある。
「良かったですね。弟さん。不死川さんのお家って、ご兄弟多かったんですね。七人って言ってましたっけ?」
「あぁ…」
「不死川さんのすぐ下の弟さん、玄弥くん?電話で対応してくれた子。彼、いい子ですね。それにしっかりしてますし。おかげで不死川さんがとんぼ返りしなくてすみましたね」
 酒が抜けきっていないせいか饒舌な私とは対照的に、不死川さんの口数はいつにも増して少ない。
「…今日でちょっと印象変わりました。不死川さんの。…正直もっととっつきにくいって思ってましたけど、こんなに家族思いのお兄ちゃんだったとは」
 口元を緩ませながら独り言のように言う。不死川さんからの返答はない。あ、やばい。流石に今の台詞は正直に言い過ぎただろうか。直属の上司ではないにしても、上席なのだから。
「あ、今のは口が滑りました。あの、ごめんなさ…っ」
 頭上に広がる星空から、隣の不死川さんへと視線を移せば、端正な顔が驚くほど近くにあって、私は思わず言葉を止めて息を呑む。え、どうして?気づかぬうちに間合いを詰められていたのか。
「川谷…」
「し、不死川さん…なに――」
 今度は自分の意志でなく、続く言葉を止められてしまう。私の唇に不死川さんのそれが重なってしまっていたから。

2021.6.3 written by cookie