好きな人と苦手な人



「川谷、今月号の『Discover Japan』の君の作品、凄く良かった。この一年で大分成長したな」
 朝からパソコンにかじりつき、撮影した写真達の編集に没頭していたところ、背後で溌溂とした声が揺らいでそっとコーヒーの缶が差し入れされる。肩越しに振り返ると、上司である煉獄さんが満足そうな笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
「煉獄さん!お疲れ様です。あ、これ、いただいちゃっていいんですか?」
「ああ、川谷に買ってきたからな」
「あ、ありがとうございます。…それと、今月号も見て下さったんですね。『Discover Japan』…」
「当然だろう」
 言いながら煉獄さんは私の隣にあった椅子を引いて腰掛ける。そして次の瞬間には、横から私のデスクトップを覗き込んできた。途端に縮まった距離に、思わず息を詰める。触れそうで触れない腕がもどかしい。
「この写真は、昨日スタジオで撮影していたものか」
「はい、そうなんです。私はサブで入ってたんですけど」
「被写体の良さをしっかり引き出せているな…いいんじゃないか、これも」
 煉獄さんはそう言って、白い歯を見せて笑った。あぁ、今日もこの笑顔が見られて幸せだ、と思う。
 私は学生時代から写真を撮ることが好きで、それがきっかけでこの出版社に入社した。しかし実際は、好きなことでも仕事となれば、それは楽しいだけではなくなってしまった。一線で活躍している人は天性のセンスというものを持ち合わせており、努力ではどうにもならないのだと、私はこの業界に入って、多くのフォトグラファーと関わって、思い知らされた。
 もうカメラを仕事にするのは辞めよう。そう思った矢先、丁度一年前この部署に私の上司として配属されたのが、煉獄杏寿郎さんだった。
 煉獄さんは、元々フリーランスのフォトグラファーとして世界を股に掛けて活躍しており、海外の大きなコンクールでも賞を受賞したことがある凄い人だった。煉獄さんの撮影した写真は、風景であろうと人物であろうと、一瞬にしてその世界に引き込まれてしまう。
 そんな凄い人がこの会社にいる理由は、社長が直々に頼み込んだからだと聞いている。実際煉獄さんが来てから、写真を多く取り扱っている雑誌の売り上げは驚くほど伸びている。SNSの影響で、世界中の人々が写真に興味を持つようになった時代の流れも影響しているのかもしれないが。
 そして私は直属の上司となった煉獄さんの下で、日々訓練を積ませてもらっていた。煉獄さんの教え方が上手であることは勿論なのだが、彼の傍で働いているとカメラや写真への愛情が伝わってきて、自分も自然と、もっとカメラを使った仕事で頑張りたいと思えるようになったのだ。
 さらに煉獄さんの凄いところは、決して自分の能力をひけらかさない所だった。海外でも賞を取り、社長直々に頼まれて入社したとなれば、尊大な態度をとったとしても誰も文句は言えないはずだ。けれども煉獄さんは、依頼があればどんな仕事であっても嫌な顔一つせず引き受けてくれるし、後輩たちへの指導も熱心に行ってくれる。おまけに凄く素敵な容姿をしている。
 そんな彼の下で働いている私が、恋に落ちないわけがない。私はもうかれこれ半年以上、彼に片思いをしているのだ。
 だからこそ、先日のゆき乃の話が気になった。どうやらゆき乃は、次の仕事を煉獄さんと組むことになるのだそうだ。私達フォトグラファーは取材となれば営業部と一緒に動くことが多いから、必然的に絡む機会も増えてくる。営業部は男性が多いためあまり気にしたことは無かったが、ゆき乃と煉獄さんのことを考えると、もやもやとした気持ちを無視出来ない。
 大学時代の友人で同期入社のゆき乃は、はっと目をひく美人だった。しかしそれを鼻にかけることもせずとても気さくで性格も良いので、男女問わず人気があったし、営業部だけでなく部署を超えて告白されたという話も聞いたことがある。
 先日ゆき乃から、彼女は上司である不死川さんが好きだと聞いたばかりであるし、大丈夫だとは思うのだけれど、でも、万が一、一緒に仕事をしていくうちにお互い惹かれあってしまったら?
 考えただけでも、心臓が地面に落っこちた気分になる。私にとって煉獄さんは高嶺の花で、あまりにも不釣り合いなものだから、恥ずかしくて周囲に彼が好きだと相談することも出来なかった。しかし、ゆき乃とハルとアイスになら、話すことが出来るかもしれない。それに、ゆき乃への牽制にもなるかもしれないから。
「…川谷?どうした、何か心配なことでもあるのか」
 どうやら煉獄さんの端正な顔を見たまま、暫らくフリーズしてしまっていたらしい。煉獄さんが不思議そうな顔をして私に問うた。
「い、いえ!全然元気です。ちょっと考え事を…」
 ぐぅっと、頭を左右に振って、咄嗟に否定しようとすればタイミング悪く腹の虫が鳴く。よりによって好きな人の前で、と慌てて腹を押さえるも、それはまるで意味のない行動で、煉獄さんが隣の席で楽しそうに笑った。
「少し早いが昼にでも行こうか。川谷、この後時間はあるか?」
「え?は、はい!勿論です」
 煉獄さんの突然のお誘いに目を丸くする。まさか、彼とランチをご一緒出来るなんて。煉獄さんは忙しいから、こんな機会はめったに訪れない。恨めしく思っていた腹の虫に、今度は一転感謝して、私は満面に喜色を湛えて頷いた。

 次の現場に向かわなければいけない煉獄さんと別れると、私はランチを済ませた足で営業部へと向かう。目的は、次の取材の打ち合わせのミーティングを不死川さんとすることになっていたからだ。
「あ、お疲れ様です。すみません、お待たせしてしまって」
「いや、気にすんなァ。俺が早く来ただけだ」
 昼休み終了まではあと五分ほどあったが、既に会議室には不死川さんの姿があった。会議室というよりは、小ぶりな打ち合わせルームに入った瞬間、煙草のにおいが微かに香のように立ち込めて、思わず顔を顰める。
 ゆき乃は不死川さんが好きだと言っていたけれど、私はこの人が苦手だった。まず大前提に、煙草を吸う人が苦手だから。
 次に、根は優しい人であることは分かっているのだけれど、兎に角、とっつきにくい。強面や低い声が、一層他人との距離を作ってしまうのかもしれない。だからこそ、ゆき乃から不死川さんが好きだと聞かされた時は驚いた。確かに容姿は文句のつけようがないし、仕事も出来るのだろうけど、この人が恋人と乳繰り合っている姿が想像出来ない。いや、恋人にだけは極上に優しいのかもしれないけれど。
「早速始めましょうか。あの、次の取材の話ですけど」
「あぁ、今回の企画は中高年向けの温泉の特集だったな。悪ィが、泊りがけだな。一泊二日」
 煙草の残り香がするこの狭い空間から一刻も早く解放されたくて、そそくさとパソコンを開いて不死川さんを見た目を丸くする。
「え、泊まりですか…そうですか」
「場所が場所だからなァ。日帰りはきついだろ」
「そ、そうですね。確かに何か所か回らなければいけないところもありますもんね」
 内心重い息を吐きながら、私はかたかたとキーボードを叩く。よりによって苦手な人と一泊二日も二人きり。盛り上がらないであろう新幹線の移動時間を想像するだけで、憂鬱な気分になる。もしこれが煉獄さんだったなら、楽しみで仕方がないのだろうけど。
「では、私はこれで。また何かあればメールでご連絡させていただきます」
「あァ…なぁ、川谷」
「は、はい、なんでしょう」
 淡々と打ち合わせを終えると、私は逃げるように席を立つ。扉に手をかけたとほぼ同時くらいに、不死川さんに呼び止められる。相変わらず不機嫌そうに聞こえる低音に、大袈裟に身体が跳ねる。何か怒らせるようなことをしてしまっただろうか。
「何か言いたいことがあるなら言え」
「え…」
「ずーっと眉間に皺寄ってんだろォ。原因は俺か」
 流石管理職。よく人を見ている。私は小さく息を吐いて、この際だから言わせてもらおうと口を開く。
「不死川さん…煙草臭いです」
「あ?」
 三白眼が一層鋭さを孕んだような気がして腰が引けるも、私は言葉を続ける。
「私煙草の匂いがあまり好きじゃないんです。それに、不死川さんのお身体のことも心配です。…今はいいけど、煙草は癌のリスクだってあるんです。…上に立つ人こそ、ちゃんと健康管理してくれないと。だって不死川さんが倒れちゃったら、みんな困りますよ。もっと自分の身体のこと、大切にしてください」
 捲し立てるように言うと、不死川さんは端正な顔に驚きの色を浮かべていた。まずい。生意気なこと言い過ぎたかも。背中にじんわりと脂汗が滲んで、慌てて謝罪の言葉を口にしようとすると、不死川さんがふっと笑った気配がした。
「…善処する」
「…はい、お願いします」
 あんなに強面の人も、こんなに優しく笑うこともあるんだ。まるで会社の七不思議の一つを目の当たりにしたような気分で、私は今度こそ会議室を後にした。

2021.5.31 written by cookie