壊れた欠片を集めて



人生において、修羅場なんてもんは1回経験すれば十分だ。

「愛莉…」

不死川主任の肩越しに見えた愛莉の驚いた顔と、杏寿郎の見透かすような顔に、それでも私は不死川主任の腕をギュッと強く掴む。けれどそれとは対照的に「愛莉、」いとも簡単に私を離す不死川主任にただ胸が痛くなる想いだ。それと同時に愛莉と呼んだ不死川主任の言葉が今更ながら重たくのしかかっている。私と杏寿郎のような見かけ騙しではないであろう2人の付き合いが、ほんの一瞬垣間見えたようだった。それでも愛莉は私を見て冷静さを保った顔で問う。

「大丈夫?ハルには倒れたって聞いて…」

あぁそうか。今夜はそう、フォトグラファー達は屋形船だって言って、杏寿郎も普段は着ないスーツを身に付けている。2人で居た所にハルから連絡を受けてわざわざ駆け付けてくれたんだと。お人好しな愛莉のやりそうな事だと思えた。

「うん。大丈夫。点滴が終わったら帰るつもりだった」
「無事でよかった」

ホッとしたように肩の力を抜く愛莉の優しさに触れて、何もかもを忘れてしまいたくなる。けれど頑固な私にはまだそれができなくて、俯いて黙り込んだ。だからか、それ以降の会話が続かなく、静かな処置室には時計の秒針がカチカチと動く音だけが鮮明に耳に届く。
そしてその沈黙を破るべく、杏寿郎が一歩こちらに歩を寄せた。

「不死川、ありがとう。後は俺が。川谷も心配かけたな」

丸椅子に座っていた不死川主任の腕を掴むと、それを払って自ら立ち上がる主任。「お大事に」そう告げた不死川主任は、入口で固まっている愛莉の腕を掴んで処置室から出て行った。それと同時、杏寿郎の腕が伸びてきてふわりと抱きしめられた。

「すまなかった」

何への謝罪かも分からない杏寿郎の何かを噛み殺すような声色に私は杏寿郎の肩にコトッと頭を擡げるしかなかった。

そして、やはりどんな夜であっても朝は必ず来る。
目が覚めると今日もキッチンからはこおばしい香りとパチパチと油の跳ねる音が聞こえる。ウィンナーか目玉焼きかがフライパンで調理されているであろうそれに、残念ながらお腹も空いていた。
起き上がって洗面所に向かう私に気づいて杏寿郎が駆け寄った。

「ゆき乃起きて大丈夫か?今日は無理せずとも休んでもいいのだぞ。君はいつも頑張り過ぎなのだから」

杏寿郎の彼女でいると、自分が甘やかされていく。何も気にせず甘やかされて生きていくのは楽なのかもしれない。でも…ーー

「何も聞かないの?」

静かにそう聞く私に、自嘲的に笑った杏寿郎は小さく息を吐き出す。ほんの少し眉毛を下げてこう続けた。

「実は、答えを聞いてしまったら終わってしまうのかと思うと情けないが聞けずにいる。気になっていない訳ではない。ちゃんと話を聞きたいとも思っている。だが俺から切り出すことはでき兼ねた。…こんな弱い男は、嫌われて当然だな」

フッと鼻から抜けるような杏寿郎の微笑みにやっぱり今日も胸が痛い。杏寿郎の言葉に何も言えなくなってしまった私に「顔を洗ってこい。一緒に朝飯を食おう」ポンと背中を押されてまたキッチンへと戻って行く。
終わりの見えてる話を聞く事になる杏寿郎の気持ちを思うとどうしようもなく悲しい。けれどそれでも私は前に進まなければいけない。
2人で朝ご飯を食べ終わり、メイクや着替えを終えた後、もう一度リビングのテーブルで向かい合って席に着く。
お揃いで買った湯のみに杏寿郎が静かにお茶をいれてくれた。

「ありがとう」
「構わんよ」
「うん。あのね杏寿郎。私セックスのない付き合いはできないと思う。愛する人に抱かれる事に幸せを感じるし、そうであるべきだと思う。それが…貴方とはできない。不死川主任に傷付けられた私を、そのままでいいと言ってくれて、私を甘やかしてくれたし、一緒に居ることを苦に思うこともなかった。でも…どれだけ同じ時間を過ごしてもそれは愛にはなれない。これからも杏寿郎との時間を愛に変えることはできない。もうこれ以上一緒に居ると…すごく苦しい。杏寿郎の優しさにこれ以上甘える事はできない。だからーー」

ポタっと涙が零れ落ちる。肝心な所で言葉が詰まって喉の奥から嗚咽が溢れてしまいそうになるのを唇をぐっと噛み締めて堪えた。目の前がボヤけてはクリアになりを繰り返す私に、「もういいよ」ポンと杏寿郎の手が肩に触れた。

「分かっていたこうなる事は。あの時覚悟を決めて君を受け入れたのは俺なのだから。辛い思いをさせてすまなかったな。結局俺はゆき乃を振り向かせる事ができなかった。あれほど大見得張っておいて情けない。だがな、俺はこの数ヶ月…ゆき乃の恋人で居られてとても楽しかった。ゆき乃を愛した事に後悔はないよ。だから今度はゆき乃の背中を押してやろう。もうゆき乃を受け止める事はできまいが、背中を押してあげる事はいくらでもできよう。そうさせてくれはせぬか」
「杏寿郎…ーーごめんなさい。愛してあげられなくて、ごめんなさいッ、」

泣き出す私を「これが最後だ」そう言って立ち上がると、ふわりと頭を抱え込むように抱きしめてくれた。
温かくて柔らかくて優しいこの温もりを自分から突き放す罪は大きい。それでも私はこの心に残って消えてはくれないあの人を追いかけたい。
例えそれがまた、愛莉を傷つける事になろうとも。
最後まで「別れよう」と言えなかった私を、責めもせず許してくれた杏寿郎。矛盾しているのだろうけど、できるのなら愛莉がまだ杏寿郎を好きでいて欲しい…と。そしてその想いを杏寿郎に受け止めて欲しいと、願う事は自由だよね。



「え、別れた!?えっ!?マジか」

一人出社した私はとりあえずハルとアイスを呼び出してそれを伝えた。愛莉に言うタイミングはまだ決めていない。

「けどゆき乃。ゆき乃達が別れたからって愛莉ちゃん達も別れる事はないんじゃない?」

最もなアイスの言葉に私は頷く。勿論分かっている。

「うんそれは分かってるし、だから愛莉にはまだ伝えてない。散々愛莉の事傷付けちゃったし、愛莉が不死川主任を愛してるのならそれはもう仕方がないと思ってる。まぁ…諦めるにはそれなりに時間がかかっちゃうと思うけど…」

苦笑いする私にアイスは少しホッとした表情を見せた。

「てゆーかちゃんと別れるゆき乃が偉いわ。わたしなら甘えられるだけ甘えちゃうなぁきっと」

ハルの言葉にアイスが冷めた目で笑う。
そうこうしているうちに始業ベルが鳴り響く。

「あ、じゃあまた。朝からごめんね、2人とも!」

手を振ってholiday編集部に戻る途中、トイレに入った私は忘れていた事を思い出す羽目になる。
洗面台で手を洗っていると、別部署の女が数人入ってくる。鏡越しに私を見ると途端に顔を顰めた。

「げー。淫乱と同じトイレ使ったら移っちゃうじゃん最悪」

一瞬何言ってんの?そう思うけれど、視線は完全に私を捕らえていて、あぁーこいつ私に言ってんのかと朝から苛立ちを覚えた。無視無視、関わらない方がいいと水を止めてポケットから取り出したタオルで手を拭こうとしたら、無駄に押されてタオルが下に落ちてしまう。それでも無視してそれを拾いあげようとしたら、ダンとピンヒールで落ちたタオルを踏みつけられた。

「なにすんだよ」

思わず出たその声は自分で思うよりずっと低くて、下からジロリと睨みあげると負けずと睨み返された。

「目障りなんだよねアンタ」
「いや意味わかんない。アンタらになんかしたっけ私?」
「アンタが人のもん好きだって知って、益々嫌いになったんだよねぇあたしら」

全く身に覚えのないソレに溜息をつくと、元凶であるその女が続いてトイレに入って来た。
どっかで見たことあるような顔だけど正直思い出せやしない。でもこの女はどうやら私を知っているようで。

「やっと会えたぁ一ノ瀬ゆき乃!相変わらず人のもん取って遊んでるんでしょ、アンタ!」

やっと会えた?相変わらず?人のもん取って?
上から下まで舐めるようにジロジロと見てくるその女の胸にかかった社員証を見てハッとした。

「サチコ!」

大学2年の夏、愛莉に二股をかけた男の本カノで、私がハニートラップして奪い取った相手がそこにいたんだ。まさかこんな所で会うなんて…だったら私を呪いたい気持ちは分かる。

「やっと思い出してくれて嬉しいよ一ノ瀬ゆき乃。川谷愛莉は元気?」

いやらしいというか、嫌味というか、嫌な感じだった。
そして女の敵はどれだけ男がクズであっても、女にくるということもよく分かった。

「馬鹿げたことはやめてよ。愛莉になんかしたら許さないよ」
「ふふ。許さないとどうなるの?またあたしの男取っちゃう?ふざんけんな!!アンタのせいであたしがどれだけ傷ついたか!絶対許さない。絶対許さない。アンタに復讐する為にあたしはここに来たんだから!」

とんだストーカー発言に嫌気がさした。気が遠くなりそうなそれにトンと洗面台に手を着くと、コツっとまた外から誰かが中に入って来た。

「愛莉…」
「ゆき乃から離れてよっ!!文句があるなら私に言えばいいでしょ!ゆき乃を巻き込むなんて私が許さないからっ!!悪いのはゆき乃でもあなたでもなく、あの男!こんな事しても何にもならない。復讐なんて弱い人間のすることでしょう」

私の前に立って泣きながら言葉を紡ぐ愛莉は怖くて震えている。それでも私を守ろうと前に立って身を呈してくれているのが痛いほどよく分かった。こんな時間に愛莉がこっちのトイレに顔を出した事も含めて。
きっと、昨日の私を心配して朝一で様子を見に来てくれたんだと、今なら分かる。私の知っている川谷愛莉とはそーいう人だから。
サチコがどれだけ文句を垂れても絶対に引かなかった。争い事の大嫌いな愛莉が、どれほど罵られても、それでも私の前で引くことをしなかった。
さすがに騒ぎを嗅ぎ付けた他の社員たちが集まってきて、サチコは逃げるように出て行った。

「愛莉…」
「ごめんねゆき乃、私のせいで。全部全部私のせいでゆき乃が嫌な思いしたよね。本当にごめんなさい」

頭を下げた愛莉はまだ怖かったのか手が震えている。私はまだべそをかいてる愛莉の手をそっと握ってそのままギュッと握りしめる。

「え、ゆき乃?」
「ごめんね愛莉。酷いこといっぱい言って、一番嫌な事して愛莉を傷つけた。ムキになって対抗して後に引けなくて…それでもずっと思ってた、もう辛いって。…愛莉が傍にいないのが辛い。愛莉と喋れないのが辛い。愛莉と笑い合えないのが、すごく辛いよ。だからお願い…許してほしい、愛莉の親友に戻してほしい」

トンと愛莉の温もりが落ちる。ふわりと私を抱きしめる愛莉は肩を震わせて声を荒らげて泣いている。コクコクと上下に頭を振る愛莉が「ゆき乃ッ、私もごめんねっ」そう言って一緒に泣いた。
馬鹿みたいに2人でわんわん泣いた。

2021.7.12 written by みるく