不吉な予感



 今日は私の部署で、年に一度開催される納涼会の日だった。毎年屋形船を貸切ってどんちゃん騒ぎをするのが恒例なのだが、今年は私達の部署が担当する書籍が頻繁に重版されるというめでたい功績もあって、贅沢にもクルーズ船での開催となった。お陰で、気軽な部署の飲み会ではなく、会社の執行役員も参加するお堅い会になってしまったのだが。
 そして、その輝かしい功績の立役者の一人は、間違いなく我が部署のトップフォトグラファーである煉獄さんだった。そんなわけで、彼は納涼会が始まってからというもの、執行役員達から離してもらえないでいる。少しでも話すことが出来たら、と考えてしまう私は本当に自己中な女だ。そんなことを考えている場合ではないというのに。
「川谷さーん!楽しんでる?」
 既に出来上がった様子の部署の先輩が、ワイングラス片手に、端っこでちびちびちとグラスのアルコールに口を付けていた私に近寄り声をかけてくれる。
「先輩…。ちょっとペース早くないですか」
「何言ってんの!折角会社の金でクルーズ船納涼会が出来るんだから、楽しまないと!やっぱり屋形船と違って、出てくるお酒も美味しいよね」
「まぁ、そうですね」
 声を弾ませワインを煽る先輩に曖昧な笑みを返すと、目敏い彼女はすかさず私の顔を覗き込んでくる。
「何なにー?なんか川谷さん元気ないんじゃない?あ、さては彼氏と何かあったでしょ。営業部エースの不死川さん。そういえば、話聞かせてくれるって約束だったよね!今日はとことん聞かせてもらうわよ」
 先輩の口から紡がれた名前に、全身に嫌な汗が滲む。当然だ。実弥さんとはあの夜以来、連絡を取っていないのだから。元々メール無精の彼だ。実弥さんからも私にメッセージが送られてくることもなく、今は仕事でも接点がないものだから、私達の関係は、まるで赤の他人のようだった。
「ああ…はは。まぁ、そんな所ですかね」
「え!喧嘩中?それとも別れちゃったとか」
 アルコールのせいか無遠慮に質問を重ねてくる先輩に辟易しながら、私は曖昧な回答を決め込む。普段は優しくて大好きな先輩も、今日ばかりは溜息が出る。トイレと偽って一旦この場を退散しよう、と思った矢先に、男性社員の声がした。それは、先輩が執行役員達に呼ばれていることを伝えるものだった。
「ほら、先輩、呼ばれてますよ!私はいいので、行ってください」
 天の助け、と思った私はすかさず先輩の背中を押す。
「えー、今いいところなのに。…あんなお堅い役員達の前じゃ美味い酒も不味くなるわ」
 先輩はがっくりと肩を落とし、ごめんね、と言い残して去っていく。ごめんねどころか、願ってもない展開だった。先輩を呼び立ててくれた人物に感謝して、私はメイン会場を後にする。
 螺旋状の階段を昇って広々としたデッキに出ると、勢いのある潮風が体に吹き付けて、髪を靡かせた。頭上には薄い藍色の空が広がる。視界に収まりきらないほどの煌びやかな摩天楼やライトアップされた名所を眺めながら、私はゆっくりとデッキの柵に凭れかかった。
 首筋を撫でる夏の生ぬるい風が心地よく感じた。飲酒が久しぶりだったせいだろうか。思ったよりも身体は酔っぱらっているようだ。船の微かな揺れを心地よく感じながら、私はゆっくりと目を瞑る。
 つい数か月前は、まさか自分がこんなにも恋愛で悩む日が来るとは考えもしなかった。親友達と笑い合って、同じ部署にいる大好きな人の背中を追いかけて、そんな日常が幸せだった。もうあの日常に、戻ることは出来ないのだろうか。
「私…どうしたらいんだろう」
「川谷、ここにいたのか」
 デッキに人の姿がないのをいいことに、盛大な溜息を吐き、その勢いで独り言を溢す。すると、聞き慣れた大好きな声が耳元で揺らいだ。心臓がドクンと一際大きな音を立てる。慌てて目を開いて隣を見れば、煉獄さんが私と同じようにデッキに背中を預けたところだった。
「れ…んごくさん」
「ふぅ。やはりスーツは着慣れんから窮屈だな」
 煉獄さんは苦笑を浮かべネクタイを緩めながら言う。確かに、煉獄さんのスーツ姿にお目にかかれることは少ない。大切な商談や、本日のように重役達も出席する会ともなれば話は別だが、基本的には写真家として現場に出向くことが多い彼は、いつもカジュアルで動きやすい格好をしている。その姿もとても素敵なのだが、きっちり着こなされた細身のスーツは、煉獄さんを数倍格好良く見せている。
 ふいに顔が熱くなり、火照りを誤魔化すように慌てて口を開く。
「だ、大丈夫なんですか?役員の人達」
「ああ、やっと解放してもらえた。…それより、川谷は大丈夫か?今日も、随分浮かない顔をしていたな」
 はっと息を呑む。ひょっとすると先ほどの助け舟は煉獄さんが出してくれたものじゃなかろうか。否、きっと間違いない。困っている私を見て、先輩を呼び立ててくれたのだ。
「煉獄さん…もしかしてさっき…」
 煉獄さんは軽い笑みを頬に浮かべた。その微笑が彼の答だった。
 心臓がばくばくと鳴り始める。煩くて耳が聞こえなくなってしまったのかと思うほどだ。煉獄さんが私を見てくれていた。些細な変化にも気がついてくれる。それが嬉しくて嬉しくて、泣きそうになってしまう。どうしよう。煉獄さん。やっぱり貴方のことが大好き。
「…大丈夫じゃないです……」
 唇が、言葉を形作った。こんなことを言うつもりなど毛頭なかったはずなのに。煉獄さんを困らせてしまうだけだと分かるのに、私の口は止まらない。
「川谷?やはり体調が――」
「私、煉獄さんのことが好きなんです。もうずっとずっと好きだった。煉獄さんしか見てなかった。…だから苦しい。辛い。今…煉獄さんがゆき乃との恋人なのが、悲しくて悔しくて、もうどうにかなりそうなんです」
 喉を絞めつけられたような悲鳴にも似た声は情けないくらいに震えていた。泣きたいわけではないのに、瞼の裏が熱くなって煮えるような涙が、ずっと押し殺していた想いと一緒に噴き零れる。
 涙で滲む煉獄さんは、大きな目を見開き驚愕を表現していた。やっぱり私の気持ちなんて、これっぽっちも気がついていなかったんだ。殊更悲しくなってくる。
「どうして…どうして気づいてくれないんですか」
 デッキの床にしゃがみ込んで両手で顔を覆う。自分でも心底面倒な女だと思う。私が男であれば、こんなヒステリックな女は願い下げだ。けれども煉獄さんは、どこまでも優しい煉獄さんだった。
 隣で腰を落とす気配がしたかと思えば、煉獄さんの声が耳に滲んだ。
「…すまない。俺はどうもそういうことに疎いようだ。…以前、ゆき乃にもそんなことを言われたことがあったが、冗談か何かだと思っていた」
 やはりゆき乃は、煉獄さんに私の気持ちを伝えていたんだ。でもそんなことはどうでもよかった。そうまで言っても煉獄さんは、私の気持ちに気づいてくれなかったのだから。私は永久に、彼の恋愛対象になれないのではないか。
「どうして煉獄さんはゆき乃が好きなの。…よりによって、どうして、ゆき乃なのっ…」
「川谷」
「ごめんなさい。煉獄さんを困らせてるって分かってるんです。でも好きで、止まらなくて」
「…川谷、だが俺は――」
 両手で覆っていた顔を上げ、煉獄さんのネクタイを引く。言葉の続きを奪うように、私は彼の唇に強引に自身のそれを重ねた。二度目のキスも、私から。煉獄さんからしてみれば、好きでもない部下に二度も唇を奪われたのだ。気の毒なことこのうえない。
「もっと私のこと…っ、意識してください」
 一瞬合わさった唇を離して冀うように言うと、煉獄さんが息を詰める。
 刹那、ポケットに忍ばせていたスマートフォンが鳴り響く。間が良いいのか悪いのか分からないが、気まずいことこの上ない私は縋るようにスマートフォンの通話ボタンをタップする。通話口からハルの切羽詰まった声が聞こえた。滅多に電話などかけてこないハルの着信に、背筋が少しだけ寒くなる。そして五秒後には、私は煉獄さんに向かって口を開いていた。

 「ゆき乃が倒れて病院に運ばれた」。そうハルから連絡を受けた私は、煉獄さんにも話をして、船が港に到着するなり二人でタクシーに乗り込んで、会社近くの病院に向かった。まだ仕事中のハルも状況は充分理解出来ていないようだったが、会社に救急隊が到着し、ゆき乃が運ばれる現場を目撃してしまったらしい。
 心臓が不吉な打ち方をする。こういう時の嫌な予感は当たることが多い。どうか今日だけは当たりませんように、と顔の前で手を合わせる。まだゆき乃とちゃんと仲直りも出来ていないのだから。
 タクシーを降りると、私達は受け付けで場所を確認し、救急外来へと急いだ。走ることを禁止されている廊下を速足で歩きながら、ちらりと隣の煉獄さんの横顔を盗みみれば、凛々しい眉根が険しく寄せられていた。
「お忙しいところすみません!一ノ瀬ゆき乃が外来に救急搬送されたと伺って駆けつけました。あの、病室は」
「親族の方ですか?」
「あ、いえ。会社の者です。名刺がここに」
 忙しなく動いていた看護師を呼び止め声をかけると、訝し気な視線を私と煉獄さんに向けるものだから、慌てて鞄から名刺を取り出し提示する。
「会社の方ですか。…本来でしたらご家族以外の面会は許可していません。ですが、一人会社の方が付き添っていらっしゃるようなので、特別です。…手短にお願いしますね。そちらの扉を入って、三つ目のベッドです」
「あ、ありがとうございます」
 素っ気ない返事をして、彼女はこれ以上時間を取らせるなと言わんばかりの雰囲気を醸しながら、忙しそうに私達の前を後にした。
 煉獄さんと顔を見合わせ頷き合うと、私達は救急外来へと足を踏み入れる。消毒の匂いが鼻を突いて、不吉な気持ちが加速する。看護師の様子からして命に別状はなさそうだ。しかし病院というものは、どうしてこうも人々を不安な気持ちにさせるのだろか。
「ゆき乃…愛莉です。ハルから連絡受けて来たよ。…あと煉獄さんも一緒。…入るよ」
 四方に引かれたカーテンの前で、胸に手をあて呼吸を整えてから、布一枚で隔たれた向こう側に声をかける。
 そして、返事を待たずにカーテンを開けてしまった私達が目にした者は、ゆき乃を抱きしめる実弥さんの姿だった。
 ドクン、と全身を巡る血が大きな音を立てた。ああ。不吉な予感は、これだったんだ。

2021.7.12 written by cookie