崩れた壁



「甘露寺さーん!」
「ゆき乃ちゃん!また一緒に仕事ができて嬉しいわ!それから異動の話も前向きに検討してくれているって悲鳴嶼さんから伺って嬉しいわ!またよろしくね!」

笑顔で私にそう言う甘露寺さんに罪はない。そして、前向きに検討…という曖昧な回答をしていた悲鳴嶼部長の心遣いを申し訳なく思う。土壇場に来てまだ私が戻れるようにとまだ決定打を打たずにいてくれているのだと理解した。
あれから私はholiday編集部と児童書編集部とを行き来して仕事をしていた。児童書で人手が足りない時は今日のように顔を出して手伝い、holidayに戻って自分のその日のノルマをこなしていた。

「実はこれからこの前の保育園にまた取材なんだけどゆき乃ちゃんも一緒にいいかしら?」
「勿論です!お供します」
「ふふ、ありがとう。そういえば、1ヶ月記念どうだったの?私も伊黒さんともうすぐ三年経つのよねぇ」
「えっ!?それ聞かせてください!というか甘露寺さんと伊黒さんて、お付き合いされていたんですね!」

照れる甘露寺さんに近寄って笑う私に、甘露寺さんは伊黒さんとの出会いから色々話してくれた。お陰で私と杏寿郎の事をこれ以上聞かれる事はなかった。


「愛莉ちゃん!!」

保育園につくと元気よく私を愛莉と呼んで飛びついてくる就也くん。今日こそ本当の名を伝えなきゃと思うものの、無邪気に笑う就也くんを前に、それで彼を傷つけてしまう事になると思うと怯んでしまう。

「こんにちは就也くん。また会えて嬉しいです」
「ぼくも。愛莉ちゃんさねみにーちゃんにあそびにきてっていってくれたあ?」
「う、ごめんね。実弥お兄ちゃんお仕事忙しくて、なかなか時間がとれないみたいで。今日帰ったら必ず伝えるから待ってて」
「しかたないなぁ。じゃあつぎのおやすみは、愛莉ちゃんもいっしょにきて。やくそく」

小さな小指を私に突き出す就也くんに、泣きそうになった。守れるはずのない約束をこんなに小さな子としてしまう自分が心底嫌になる。
守れない約束をしてしまった罪悪感と、慣れない子供たちとの相手に、社内に戻れば身体がぐったりと疲れていた。そんな私とは対照的に甘露寺さんは全く体力が衰える様子もなく、爪の垢でも飲ませていただきたいぐらいだった。

「ゆき乃ちゃん顔色がよくないけど大丈夫?」

若干前かがみでゾンビのように歩く私を見て甘露寺さんが眉毛を下げる。でも次の瞬間パンと手を合わせて「そうだわ、煉獄さんに迎えに来て貰ったらいいわ。わたし呼んでくるからここで待っててちょうだい!」そう言って撮影棟のある編集部へと脚が向かっていたから慌てて甘露寺さんの細い腕を掴んだ。

「ゆき乃ちゃん?」
「今忙しいみたいなので邪魔したくないんです。私は全然大丈夫なので、気になさらないでください。これからholidayに戻って残りの仕事片付けてきちゃいますね!」

あえて元気を装ってグーにした腕をぶんぶんと振る私を見て、甘露寺さんも渋々納得して児童書編集部へと戻って行った。
小指に残る就也くんとの約束に、不死川主任に話した方がいいのかと思うも、やっぱりそんな元気が出ない。
太陽の下で日差しを浴びた身体は火照っていて、水分を採る暇もなかったせいか、喉がカラカラに乾いている。カフェの手前にある自販機でスポーツ飲料を買ってがぶ飲みする私に、またあの嫌な視線が飛んでくるのを感じた。一体誰に恨まれているんだろーか。さっぱり検討がつかないからどうにも対処できない。ハルが犯人探しをしてくれている様だけれど、今だ出処を掴めてはいない。まぁいいけど別に。誰にどう思われようと。…そう思ってはいるものの、実際に自分の耳に直で入ってくる悪質な言葉は多少なりとも胸をぶっ刺してくる。

「一ノ瀬さんって、君だよね?」
「え?そうですが…」
「よかった!!今夜空いてる?空いてるよね?だって君、誰とでも寝るんでしょ?俺ちょーど彼女が旅行中でさ、今夜俺と飲まない?」
「…は?」

何がどうなってんだ?いきなりやって来て図々しく私の肩に触れてくる。あからさまに怪訝な顔で見返すとニヤリと嫌な笑顔を浮かべる男。

「そんな顔しても無駄だよ。君に彼氏取られたって子から直接聞いたんだから」
「誰よそれ」
「さあね。今夜俺の相手してくれるなら教えてあげてもいいよ」
「お断りします。そんなくだらない事に付き合ってる暇ないんで」

飲み干したスポーツ飲料をバコンとペットボトル専用のゴミ箱に投げ入れると私は踵を返して歩き出す。だけど不意に右腕をそいつに掴まれて、自販機の奥にあるスペースへと力ずくで引き込まれる。

「離して、変態っ!」
「大人しくしてよ。変態はどっちだよ?ねぇ、一ノ瀬ゆき乃ちゃん」

両腕を拘束されてドンと自販機に押し付けられる。そのまま顔を寄せて耳朶に息を吹きかけながら話すソイツに鳥肌が立った。
気持ち悪い、なんなのコイツ。でも、力じゃ到底男に勝てなくて。動きたいのに動けなくて顔を寄せてくる男に思いっきり横を向いて顔を逸らしたんだ。

「てめぇ誰の部下に何してやがる、殺すぞォ!!」

そんな声と共に視界に入る銀髪に胸がドクンと音を立てた。すぐに私から剥がされていく男と、守るように私を自分の後ろに隠す不死川主任の大きな背中。

「一ノ瀬は俺の部下だ。今後一切手出しすんじゃねぇ。用があるなら俺が聞く。くだらねぇ信憑性もクソもねぇ噂真に受けて馬鹿やってる暇があったら仕事しろや、クソがァ!!マジで次やったら殺すからなァ、覚えてろ」

グイッと私の腕を掴む不死川主任は、そのまま大股で歩き出す。今頃になって震えが止まらなくて…不死川主任は本館のholiday編集部とは反対方向にある資料室へと私を連れて行った。

「甘露寺から聞いた。体調悪そうだと。大丈夫かァ」

ポンと向きを変えて私の頭を撫でる不死川主任に、涙が零れ落ちる。

「なんっなのっ、アイツ…キモくて、めっちゃ怖かった…」
「もう大丈夫だァ」
「震えが…止まんないっ、」

頭に置かれた不死川主任の手がそっと降りて私の肩に触れると、そのまま少し力を込めて主任の胸に押し付けられた。ぎこちなくも私を抱き寄せてくれる不死川主任の背中に腕を回して分厚い胸に顔を埋める。

「お前、誰かに恨みかってんのかァ」

ゆるゆると不死川主任の片手が私の髪から背中を優しく撫でている。抱きしめ返す事はしなくとも、触れてくれている事が安心できて、心地よい。

「分かりません」
「まぁなんかあれば俺に言え」
「はい。…不死川主任?」
「なんだァ」
「好きです」
「…馬鹿がァ」
「まだこのままで居てください、あと少しだけ」
「……」

何も言わずにポンと不死川主任の手がまた私の髪に触れると、その手がゆっくりと背中に回された。初めて不死川主任に抱きしめて貰えた事に私は当然の如く浮かれあがっていたんだ。
まだ何も解決していないというのに。


それからしばらくして不死川主任とholiday編集部に戻る。2人でフロアに入った事で私たちを心配してくれていたんだろうholidayのみんなのホッとしたような顔に申し訳なさが募る。それでもみんな何も言わずにそれぞれ仕事を続ける様子を見て、不死川主任がいつもの様にポンと私の頭を撫でて自席に戻る。私も自席に戻ってまずは、雑誌で積み重ねていた壁を崩した。座っていても不死川主任の姿が見える自分の席に、つい頬も緩む。
気分が良ければ仕事の進みも早く、来週の予定を組むのにカレンダーを見ながらスケジュールを調整していると、内線が鳴った。

「はいholiday編集部一ノ瀬です」
【煉獄だ。来週の取材の事で今からそっちに行ってもいいか?】
「…はい」

社内でもそう出会う事もなかった為、避けずとも杏寿郎と顔を合わせる事などなかった。けれど仕事を蔑ろにするわけにもいかず、一つ返事で頷くと私は席を立って編集部の外で杏寿郎を待った。不死川主任に見られたくないという本音を隠して。

給湯室で、先日購入したばかりのティーパックの茶葉を大きめのマグカップに入れて湯を注ぐ。大手珈琲ショップにある唯一の紅茶の茶葉と同じものをわざわざ購入したのは、ミルクとよく合っているからだ。できるのならお店と同じようにオールミルクで飲みたい所だったが、あいにく無料のホットミルクもなく、少なめに入れた湯に、レンシレンジで温めた濃厚な牛乳をマグカップに注ぐと、香り高いティーラテができ上がる。ふんだんに出切った茶葉をマグカップから出して捨てると杏寿郎が「ゆき乃」私を呼んだ。

「はい」
「すまぬ。実は甘露寺から連絡をもらっていて、君の調子が悪そうだと聞いて、居てもたってもいられず見に来た。大丈夫なのか?」

肩に手を乗せて私の顔を覗き込む杏寿郎の大きな目にコクリと頷く。確かに身体はめちゃくちゃダルくて熱いけれど、不死川主任のお陰で中身はだいぶ元気になっていた。でもそれは、杏寿郎には絶対に言えないけれど。このままでいいとは思っていない。ちゃんと話さないと、杏寿郎に。

「杏寿郎あの、話したい事があるの。時間作れる?」
「…それは、別れ話ではないか?」
「え?」
「別れ話というなら時間は永遠に作れない。それ以外ならいつでも開けるよ」

ポンと優しく微笑む杏寿郎に、ズキンと胸が痛む。
読まれてしまっていただろうか、私の顔色を。
そうでなくとも、この前のあの流れからいって、そうなるのが自然だと思っただろうか。

「今夜、開けて欲しい…」

質問に答えることなくそう言う私を、杏寿郎の瞳が小さく揺れたけど、それに気づかないフリをした。一つ小さく息を吐き出した杏寿郎は、「分かった、開けよう。家で待っているから好きな時間に来るといい」そう言うと、ここが会社内の給湯室だっていうのに、確かに誰もいないけれど、私の顔を覗き込むように顔を寄せると唇の触れるだけのキスをした。

「本当はもっとゆき乃を堪能したい所だが、止めておくよ」

そう言った杏寿郎は、私の後ろに視線を移すと一瞬だけ強く見るもすぐに私に笑顔をのせて「また後で」この場から居なくなった。
慌てて振り返るも、そこには誰もいない。不死川主任に見られていなくてよかったと思ったなんて。

定時を過ぎた頃、酷く頭痛がして鞄の中を探って常備している鎮痛剤を飲んだ。一時間ぐらいで効いてくるだろうと、そのままPC画面に向かっているも、今度は寒気すらしてきた。夏真っ盛りだというのにこの寒さは異常で。冷房で冷えきったフロアである事には違いないけれど、こんな悪寒は初めてだった。

「オイ一ノ瀬今日は無理しねぇでさっさと帰れェ、」

不死川主任の声がしたから振り返ると目の前が真っ暗になってダランとデスクに手を着く。背中を冷や汗が流れていて…目が回って立ち上がれない。

「主任、気分悪い…助けて、」
「オイ、一ノ瀬!!!オイッ、」

私を呼ぶ不死川主任の声が遠くに聞こえる。バタンと意識を失う寸前、ふわりと温かい温もりがしたのは気の所為だろうか…。





パチっと、目を開けると見知らぬ天井だった。
鼻腔を刺激する薬品の独特の匂いが漂っていて…ベッドの横にある丸椅子に座って俯いたまま眠っているのか、不死川主任の後頭部が見えた。手を伸ばして髪に触れると、想像より柔らかくて笑ってしまう。

「あぁ、お前…目ぇ覚めたか。たく、心配させやがって」

すぐに顔を上げた不死川主任が瞬きをしながら小さく言う。どうやらここは病院の処置室の様だった。

「熱中症に加えて過労と睡眠不足もだったぞ。点滴が終わったら帰っていいみてぇだから家まで送る。無理しすぎなんだァてめぇは」

ペシッと痛くないデコピンがおデコに命中する。
中身は元気になったつもりでいたけれど、どうやら限界だったみたい。

「また不死川主任に助けて貰った…ーーありがとうございます」
「全くだァ」

クシャッと前髪に触れる手が優しくてドキンと胸を打つ。その手を掴んでギュッと握る。されるがままで私を否定も拒否もしない不死川主任は、それでも何を考えているのか分からないし、今この瞬間も彼は私の好きな人であり、親友愛莉の恋人だ。
分かってる、分かってる。目の前の好きな人は愛莉を愛している…。

「お前も…泣き虫だなァ…」

クッとほんのり笑った不死川主任は、手を私の頬に添える。

「一ノ瀬…holidayに残れよ」

ふわりと不死川主任の腕が私を抱き寄せた。
迷いながらも私を抱きしめるこの人は、紛れもなく親友の恋人だ。

2021.6.30 written by みるく