私の罪



 車の外を流れる景色に光が混じり始めると、駅の周辺より些か賑やかな場所に移動してきたのだと分かる。あとどのくらいでシティホテルに到着するのだろうかと手首の腕時計を眺めていると、車のタイヤが濡れたアスファルトを擦る音がする。
 会計を済ませ一足先にタクシーの外に出た煉獄さんが、躊躇なく私のカメラの機材バックを肩に掛ける。こういうところ。些細なことだけど、女性が胸をときめかすポイントを確実に抑えてくる。本人はきっと無自覚なのだろうけど。
「煉獄さん。あの…荷物すみません」
「いや、気にするな。それにしても、酷い雨だな」
 私達が降りたことを確認してから動き出したタクシーのテールランプを見送ってから、煉獄さんにぺこりと頭を下げる。彼は全く気にする風もなく言って、ぶちまけるような勢いで雨を降らす空を見上げた。
「部屋…空いてますかね。この雨で」
 心臓がどんどん膨らんで身体を打つので、動悸を鎮めようと胸に手を宛がいながら言う。
 すると煉獄さんは両の口角をバランスよく上げて、手中のスマートフォンを軽く振った。
「タクシーの中で予約は済ませた。最近は何でもデジタル化して、便利な時代になったものだな」
「え、いつの間に。…あの、ありがとうございます」
 仕事の早さに息を呑んで瞠目する。こういうスマートな所も、いちいち私の心臓を擽るのだ。狡い。煉獄さんは、本当に狡い。
「うむ。万が一部屋が一つしかないと言われたら、困ってしまうだろう」
 私の顔を覗き込み、冗談めかして言った煉獄さんは軽快に笑って、そのままシティホテルへと入っていく。
「…一つしかなくても、困らないです」
 私の呟きは、地面を殴りつけるように降る雨の音にかき消され、煉獄さんに届くことはなかった。

 浴室から出た私は、ホテルに供えられていた作務衣のような簡易パジャマに身を包んで、ベッドの上に大の字に倒れ込む。今のシティホテルは凄いもので、アメニティも全てフロントで揃えることが出来た。こうした突然の客が多いからなのかもしれない。
 ベッドに放り投げていたスマートフォンの画面を確認すると、電源が既に切れている。充電器を借りたいとフロントに内線をかけてみたところ、流石にすべてのキャリアのスマートフォンの充電器を取り揃えているわけではないらしい。そうかといってこの雨では買いに行くことも出来ない。実弥さんにも連絡しなくてはいけないのに。
 逡巡した末に、私は隣の煉獄さんの部屋の扉をノックした。今の時代、スマートフォンを使えないのは致命的であり、煉獄さんが持ってきていれば貸してもらおうという魂胆だ。
 でも、本当にそれだけ。本当に下心はないの?煉獄さんが出てくるのを待ちながら、私は煩悩を振り払うように首を左右に振る。下心なんてあってはいけない。煉獄さんはゆき乃の彼氏で、私には実弥さんという彼氏がいるのだから。
「川谷?どうした」
 扉が開く。中から出て来た煉獄さんは、濡れた髪をフェイスタオルでごしごしと拭きながら、驚いたような表情を浮かべていた。シャワー直後だったのかもしれない。申し訳なかったな、と思う一方で、毛先から滴る水滴や、Tシャツ姿が色っぽくて、私は胸を高鳴らせてしまう。お願い、私の心臓。どうか治まって。
「や、夜分にごめんなさい。あの、実はスマートフォンの充電器を忘れてしまって。お借りしたかったんですが。その、スマートフォンの充電が切れちゃって」
「む、そうか。それは不便だろうな。少し待っていろ」
 煉獄さんが同情するように眉根を窄め、私に部屋に入るよう促して踵を返す。その刹那、部屋の奥に設置されている窓の向こう側に、ギザギザの刃みたいな稲妻が闇を切り裂くのが見えた。直ぐに地鳴りのような雷鳴が響いて、突然の耳を劈くような轟音にぎゅっと目を瞑って耳を塞ぐ。「きゃっ」という、色気のない声が漏れた。
 雷は昔から苦手だった。その確率が低いことは理解しているのに、いつか自分に落ちて来るのではないかと気が気ではないからだ。
「川谷、大丈夫か」
 雷鳴でなく、少し慌てた様子の煉獄さんの声が耳に滲む。いい歳して、必要以上に雷を怖がる私を心配してくれたのだろうか。「大丈夫です」と言いながらゆっくりと瞑っていた目を開けると、目の前には闇が広がっていた。なんで?という疑問を口にする前に、煉獄さんが口を開く。
「停電だ。どこかに落雷したのだろう。まぁホテルだから、すぐに復旧すると思うが」
 直ぐにスマートフォンのライトが灯されて、暗い部屋に煉獄さんの顔が浮かびあがる。するとまた、窓の外の闇を光が裂いて、雷鳴が轟く。先ほどよりもさらに大きな音に、今度は身体が大げさに跳ねてしまう。条件反射で涙がでて、目尻が微かに濡れていた。
「…川谷、雷が苦手なのか」
 心配そうにこちらの顔を覗き込みながら、煉獄さんが私に問う。
「あの…はい。ごめんなさい、実は昔からあまり得意ではなくて。子供みたいですよね」
「いや、人には苦手なものの一つや二つはあるだろう。…一人で大丈夫か?電気が復旧するまで部屋にいてくれても構わないが」
 きっと煉獄さんに、下心など一ミリもない。だからこそこうして私を気に掛けてくれるのだ。本当は良くないと分かっている。いくら雷が怖いと言っても、この年齢なのだから勿論我慢は出来る。でも、本能のまま私の唇は動いてしまう。
「電気が復旧するまで、一緒にいてもいいですか」
「ああ、勿論だ。それまでは充電も出来ないが」
 私の回答を気に留める様子もなく、煉獄さんは顎に手をあて眉毛を少し下げた。やっぱり煉獄さんには、女として見てもらえていないんだ。当たり前だけど、あまりにも変わらない態度に、心臓を爪で引っ掻かれたみたいな痛みが走る。
「充電は、電気が復旧してからで大丈夫です。あ、あの、煉獄さん!煉獄さんの写真を見てもいいですか」
「写真?今日撮影したものか?」
「はい、そうです。見たいです。大好きだから…煉獄さんの写真が」
 そして貴方のことも。理性で溢れそうになる気持ちを押しとどめる。薄暗い部屋の中で、煉獄さんが嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そんな風に面と向かって言われると、なんだか照れくさいな。じゃあデータを――」
 煉獄さんが、備え付けの机の上に広げたラップトップに視線を移動させた瞬間、天井の照明が再び明かりを灯し、室内をこうこうと照らした。暗がりに慣れた瞼の裏側が痛くなり、思わず目を眇める。
「む、随分と早かったかな」
「本当ですね…」
「写真は、見ていくか?」
 いつの間にかラップトップを手にした煉獄さんが、私をベッドに座るように促して、自分もそこに腰掛けた。
「え、いいんですか?」
「断る理由はないだろう。部屋が狭くて座る場所もなく申し訳ないが」
「ぜ、全然です。失礼します」
 別に卑しいことをするわけではない。私は一部下として、煉獄さんの写真を見たいだけ。免罪符のように自分自身に言い聞かせ、ゆっくり空いたベッドの隣に腰を掛けると、ラップトップに表示された写真を覗き込む。
「まだ加工もなにもしていないが」
 画面に映し出された写真に目を奪われる。今日撮影した滝は、構図の取り方がとても難しかった。私が苦手なのもあるかもしれないが、構図探しには時間がかかってしまう。しかし煉獄さんの写真はどうだ。最適な構図を直感的に分かってしまうのではないのかと思うほどの抜群のセンス。緑と光と霧の調和が絶妙で、一瞬にしてその世界観に引き込まれる。
 煉獄さんの写真は、いつもそう。煉獄さんが目にしている景色は私の目に映っているそれと変わらないはずなのに、彼の写真は、胸を鷲掴みにされたような、強く大きな衝撃を受ける。煉獄さんの写真を見るだけで、自分の住む世界がこんなにも美しいものだと思い知らされる。でも、今日は。
「なんだか少し…寂しい感じがしますね」
 無意識に言葉が漏れていた。
「…寂しい」
 反応があるまで数秒の間があり、驚いた表情を浮かべた煉獄さんが私に視線を移した。そこで自分の失言に気がつき、慌てて掌で口を押える。
「ご、ごめんなさい。なんか、いつも煉獄さんの写真を見てるので、それに比べると少し悲しい感じに見えたというか。なんだろう、違うんです。この写真も凄く素敵で感動して文句のつけようがないんですけど、あの」
「川谷は、よく見てくれているのだな」
 慌てて弁明する私に、煉獄さんは口元に微笑を乗せて言う。そして、大きな瞳を寂しそうに翳らせて、再びラップトップに視線を戻した。
「あ、あの…煉獄さん?…何か、あったんですか」
「こんなことを川谷に言うのも、どうなのだろうな」
「何でも言ってください!たまには私も…煉獄さんの役に立ちたいんです」
「……ふっ、ありがとう」
 情けないくらい必死に訴えかける私に煉獄さんはとうとう折れて、小さな息を吐いてから、眉を少し下げて笑った。心臓が、きゅん、という音を立てるのが聞こえてきそうだった。
 煉獄さんは徐に立ち上がって部屋に備え付けられている冷蔵庫を開けると、中から缶ビールを二本取り出し、その一つを私に差し出した。
「あの…」
「一杯付き合ってくれるか」
「は、はい!勿論です」
 缶ビールのプルタブを開け喉に液体を流し込んだ煉獄さんは、再びベッドに腰を沈めてぽつりぽつりと独り言のように話を始めた。
「上手くいかないものだな…と思ってな」
「上手くいかない?それって、その、例えば恋愛のこととかですか」
 何でも器用にこなす煉獄さんが上手くいかないことなど、それくらいしか思いつかない。答えの代わりに、私の上司は力なく笑う。
 抱きしめたい。煉獄さんの寂しそうな笑みに、私の腕がそう主張する。しかし当然そんなことは出来るはずもなく、奥歯をぎゅっと噛んで言葉を続けた。
「もしかして、ゆき乃と…なにか?」
「二人は学生時代の親友だと話していたな。…そうだな。最近思うのだ。俺といることが彼女を苦しめてしまっているのではないかと」
「煉獄さんが、ゆき乃を苦しめてる?そんなこと…」
 そんなことあるはずがない。苦しめているのは、むしろ私の方だ。私が実弥さんと付き合うことがなければ、ゆき乃は苦しまなかったはずだ。そして私の行動は、今や煉獄さんをも苦しめてしまっているのだと絶望する。全て私の責任だ。私が実弥さんの優しさに縋ったのが悪いんだ。
「なんて、やはり君にこんな話をするべきではないな」
「え?」
「それよりも、川谷の写真も見せてくれないか?」
 黙りこくってしまった私を気遣ってくれたのか、煉獄さんは再び缶の中の液体を身体に流し込むと、今までの話などまるで無かったかのように提案する。
「それは構わないですけど…でもさっきの話は」
「いや、俺も迂闊だった。川谷も困って――」
「困らないです!だって…だって私、煉獄さんのことが…」
 本能が理性を押しやろうとする。今、煉獄さんに気持ちを伝えたところで状況が芳しくなるとは到底思えない。寧ろ、もっとややこしいことになりかねない。仕事にまで支障が出るかもしれない。寸でのところで言葉を呑み込み、「心配で…」と誤魔化すように言えば、頭に大きな掌が乗せられる。優しい目が私を見ていた。
「ありがとう。その気持ちだけで十分だ」
 触れられた部分が、焼けるように熱くて仕方がなかった。私の本当の気持ち知ったら、煉獄さんは同じことが言えるのだろうか。私の気持ちをちゃんと受け止めてくれるのだろうか。
 彼と一緒に居られるこの時間が嬉しいのに、メランコリーな気持ちを当然払拭出来ないまま、私達は明け方まで他愛もない話を続けていた。

 窓から差し込む陽の光が重たい瞼を持ち上げた。昨日の豪雨が幻だったかのように、窓の外は眩しいくらいの青が広がっている。
 目を擦って身体を起こせば、かけられていたであろうタオルケットが滑り落ちる。眠気が脳裏にこびりつく頭で隣を確認すれば、瞼を柔らかく閉じて、気持ち良さそうな寝息をたてる煉獄さんの姿があった。
 昨晩は、煉獄さんと語り合ったまま眠ってしまったことを思い出し、急速に頬が熱くなるとともに、罪悪感が胸の内に湧き上がってくる。
「んっ…」
 いつもよりも低く掠れた声が聞こえ、起こしてしまっただろうかと身を固くすれば、煉獄さんは少し身を捩っただけだった。生まれたての朝の光に照らされて輝く金糸と端正な寝顔を見つめる。無防備で可愛らしい寝顔に、愛しさが募ってくる。だめ。だめなのに。煉獄さんは上司で、親友の彼氏で、私には彼氏がいる。何度自分に言い聞かせたか分からない台詞を、戒めのように心の中で繰り返す。だめ。だめ。だめ。
 それなのに、私の唇はまるで吸い寄せられるように、穏やかな呼吸を繰り返す薄い唇に重なってしまった。
「…煉獄さん…私、煉獄さんのことが、ずっと好きでした。今も…大好きです」
 畳み掛けるように、勝手に唇が動いてしまう。
 私、何してるの?今、親友の彼氏にキスした?
 自分の信じられない行動に突然背筋が寒くなり、脂汗が滲みでる。慌ててベッドから身体を起こし、傍に放り投げていたスマートフォンを引っ掴んで、逃げるように煉獄さんの部屋を後にする。
「何してるの私…っ、馬鹿」
 自室に戻って崩れ落ちるように床に膝をつく。手中の電源が切れたままのスマートフォンを見て、実弥さんに連絡の一本も出来ていなかったことに、漸く気がついた。

2021.6.27 written by cookie