恵みの雨



 「再来週の撮影、少し遠出になるが、川谷、君にも一緒に来て欲しいのだが」
「…えっ?私が、煉獄さんと一緒に…ですか」
 撮影が終わり、人が捌け閑散としたスタジオで、私は手にしていたカメラを落としそうになる。突然の上司からの業務指示に、余程可笑しな顔をしていたのか、私を見て苦笑した煉獄さんは「嫌か?」と冗談めかして言った。
「そ、そういうわけじゃないですけど。なんで私が一緒に…だってその撮影の話は、先方が直々に煉獄さんを指名していますよね。確か、海外の方向けに日本の良さを紹介する大事な本のフォトグラフじゃ…」
 慌てて頭を振って疑問を口にする。すると煉獄さんは、てきぱきと機材を片していた手を一旦止めて、今度は満足そうな笑みを零す。
「実は先方が、川谷の写真を大絶賛していてな。君が不死川と取材に行った時に撮影した写真だったか」
「それ…Discover Japanですね」
 煉獄さんの口から紡がれる「不死川」という言葉に大袈裟に反応してしまう。思えばあの取材が、全ての発端だったのではないかと、今にしてみれば思う。実弥さんと二人で取材に行くことがなければ、実弥さんにキスをされることもなく、実弥さんに好きだと言われることもなく、ゆき乃と気まずい関係になることもなく、大団円を迎えられたのではないか。
「…川谷?どうした、大丈夫か?」
  自分の撮影した写真を大絶賛されるという栄誉を与えられたにも関わらず、急に黙り込んだ私を、大きな瞳が覗き込む。少しだけ腰を折って私を不思議そうに見つめる煉獄さんに、胸が鼓動を少しだけ早めたのが分かる。
「な、なんでもないです。私の撮影した写真を気に入ってくださったなんて光栄です。…あ、もしかして、それで先方からお声がかかったってことですか?」
「うむ、そういうことだ。君は本当にこの一年で成長したな」
 太陽みたいな眩しい笑顔に、胸が絞られるように苦しかった。
 ねぇ、煉獄さん。成長した私が貴方の目に映っているのだとしたら、それは煉獄さんのお陰なんです。貴方に出会うことがなければ、私はもうとっくにここから逃げ出していた。
 この気持ちを伝えたいのに、煉獄さんのことが好きだと、貴方の笑顔を独り占めしたいと声を大にして叫びたいのに、当然、今の私にそんなことは出来なかった。
「ありがとうございます」
「それで、撮影の件は了承してもらえるか」
「勿論です。…あの、ご迷惑をおかけしないように精一杯頑張ります」
「ふ、そんなに気を張ると、いい写真も撮れないのではないか。真面目なのは川谷のいい所だが、君はもう少し肩の力を抜いたほうがいいな」
 煉獄さんは手にしていた資料で私の頭をぽんぽんと叩くと、「昼にでも行くか」と踵を返しながら声を弾ませた。
二人きりの出張も、ランチも、嬉しくて堪らないのに、それを素直に喜ぶことが出来ない。許されない。
 直接触れられたわけでもないのに、炙られるようにじりじりと熱くなる頬を両掌で覆いながら、私は一人の部下として、スタジオを後にする煉獄さんの後ろ姿を追った。

 煉獄さんとの出張の件を報告すれば、隣でソファに凭れながらテレビを眺めていた実弥さんが、大方予想通り、不機嫌そうに眉根を寄せた。
「…出張?煉獄と二人でなんて滅多にねぇだろ」
「そうなんですけど…。今回は先方が私にどうしてもって言ってくださってるみたいで。あ、ほら、実弥さんと取材に行った時に撮影した写真を評価してくれて」
「そうかよ」
「実弥さん…怒ってますか?でも、出張っていっても日帰りで、っきゃっ」
 窺うように恐る恐る確認すれば、不本意だと言いたげな表情を浮かべた実弥さんに手を引かれ、瞬く間にソファに押し倒されてしまう。
「怒ってねぇよ。…仕事だしなァ」
 私に覆いかぶさる実弥さんの薄い唇から、低い声が漏れる。有無を言わせぬ迫力がある瞳に見つめられると、呼吸をするのも忘れそうになる。
「実弥さ――」
 彼の下で縮こまりながら口を開けば、唐突に唇を奪われて、易々と舌が口内に侵入する。私の後頭部に大きな手を回した実弥さんが口付けを深めて、身体を密着させる。衣類を窮屈そうに押し上げる実弥さんの熱が腹部にあたって、むず痒い気持ちになってくる。
「…はぁ…っ、はぁっ…実弥さん…やっぱり怒ってる」
「だから怒ってねぇ。…気に食わねぇだけだ」
 漸く離れた唇を透明な唾液が結び、糸のようにぷつりと切れたそれを厭らしく舐めとった実弥さんに言えば、今度は首筋から鎖骨を熱い舌が生き物のように這う。
「んぅっ…実弥さん、お願い…ベッドで」
「無理だ、愛莉。…もう、止めらんねぇよ」
 上目遣いで懇願するも、実弥さんはけんもほろろに一蹴し、そのまま私を抱いた。初めて身体を重ねてから、もう私達はこうして何度も身体に互いの熱を刻み合っていた。そのたびに私は、永久に消えない罪に似た烙印を押されているような気持ちになった。

 煉獄さんと二人きりの出張の日は、晴天に恵まれた。二人で撮影に訪れたその場所は、手つかずの自然が残る広大な敷地の中にひっそりと佇む地方の温泉宿だった。頭上には蒼天が広がり優しく肌を撫でる爽風が流れて、息を吸い込めば大自然のエネルギーを思う存分吸収できそうな感覚になる。
 せせらぎの音に耳を傾けながら、宿のさらに上の方から流れる川に沿って歩けば、十分ほどで水が滝つぼに落ちる激しい音が聞こえてくる。これが、本日の目的だ。激しい滝しぶきは圧巻で、唸るほどの迫力がある。この素晴らしい景色を直ぐに写真に収めたい、という欲求は私も煉獄さんも一緒だったようで、私達は暫く無心でシャッターを切り続けた。
 時折、ファインダーを覗く煉獄さんを盗み見れば、その真剣な眼差しに胸が高鳴った。あの瞳が私を映してくれることはないと分かっているのに、気づけば私はその方法を考えている。
 実弥さんに付いていくと決めたはずなのに、全てを忘れると決心したはずなのに、私の煉獄さんへの恋心は、彼に恋したその日から少しもその勢いを弱めることなく、燃え続けていた。
「お客さん、この雨だと電車止まっちゃってるかもしれないよ。田舎だからなぁ。本当に今日帰るのかい?」
「え?止まっちゃってるって本当ですか」
 今日の出張は日帰りだ。撮影を終え、駅までの道をタクシーに揺られていた私は、心配そうに言ってバックミラー越しに私達に視線を向ける運転手に慌てて聞き返す。
「ああ。この雨だからね。鉄道会社も動かすとは思えないなぁ」
「嘘…どうしよう」
 運転手の言う通り、先刻撮影した滝にも負けずとも劣らない猛烈な雨が、タクシーのフロントガラスを割らんばかりに叩きつけていた。昼間の天気が嘘のようだ。
 明日は週末なので、今日自宅に帰れないからといって困ることはないのだが、煉獄さんと一晩を過ごすのはなんだか落ち着かないし、実弥さんにも余計な心配をかけてしまうような気がした。ふと、隣の煉獄さんに視線だけ向ければ、彼も腕を組んで考えるような仕草をしている。
「ああ、ほら。やっぱり止まっちゃってるよ。今日はもう動かないってさ。近くのシティホテルまで連れていくから、そこで一泊していきな。今から行っても部屋の一つや二つきっと空いてるだろう」
 思案に暮れているうちにタクシーは駅に到着していた。運転手は古びた駅舎の前に臨時で建てられていた看板を見るなり、私達に残念な宣告をした。
「え…本当に、止まっちゃってるんですか」
「運転手さん、すまないがホテルまでお願い出来るだろうか」
 嘘。本当に帰れない?煉獄さんと二人きり?不安を警告するように鼓動が早鐘を打ち始めると、隣で煉獄さんの声が揺らぐ。
「ああ、それがいいよ。じゃ、今から向かうから」
「はい。お願いします」
「煉獄さん、あの…」
 ギアをバックに入れて方向転換をしたタクシーは、煉獄さんの指示通りに来た道を戻る。再びタクシーに揺られながら口を開けば、煉獄さんは申し訳なさそうに私を見た。
「すまないが、朝まで電車が動かないとなればこうするしか方法はないだろう。タクシーを使って帰るのも現実的ではないしな」
「は、はい。…そうですよね」
「川谷は、何か予定があったか?」
「い、いえ、そんなものは何も」
 慌てて首を左右に振れば、煉獄さんは安堵したような笑みを口の端に刻んだ。私の中を流れる血が、どくん、と大袈裟に音を立てた。
 タクシーは、駅から少し離れたシティホテルへと向かう。

2021.6.25 written by cookie