代わりのないもの



「これは一応預かっておくが、一ノ瀬はholiday編集部が好きでここにいると思っていたが、違うのか?」
「好きです、とても。ですが悲鳴嶼部長、holidayに来て編集の仕事に携わったから別の仕事も見てみたくなってしまって…。貪欲ですよね私…でも、」

これ以上不死川主任の下で働くのはメンタルが持たない…とは言うわけにもいかず、口を噤む私を見て悲鳴嶼部長は椅子に大きく寄りかかった。それから視線をこちらに向けて少しだけ困ったように眉毛を下げた。
この人は、人の気持ちを読み取るのがとても上手だ。

「原因は、不死川か?」
「…あの部長、決してそんな訳では、」
「見ていれば分かる。あれだけ不死川にベッタリだった一ノ瀬が、今は視線も交わしていない。…まぁ男と女は時に無惨にも残酷な時を刻む事もあるだろう…。ただ今すぐには無理だと思うが、次の人事異動の会議の時にでもそれとなく話を出しておくよ。それまでに気持ちが変わったら遠慮なく言ってこい。うちも、一ノ瀬が抜けたら支障の出る業務もあるからな。もう一度きちんと考えてみたらいい」
「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。また考えてみます」
「あぁ。もう行っていいぞ」
「失礼しました」

部長室のドアを開けてholiday編集部にある自分のデスクに向かう途中、不死川主任のデスクの前を通る。目を合わせる事なくあからさまに反対側を向いて通り過ぎた私は、不死川主任が視界に入るデスクの端に雑誌を何冊も積み重ねて彼が見えないように壁を作った。こんな事しても無駄だというのに、それでも仕事ですら不死川主任の事を見るのが嫌だった。いや、辛かった。
思った以上に不死川主任の事が見れないのは、あれ程ハッキリと言われてしまったからなんだろう。恋愛対象にはみれないと。ただの一度も彼に「好き」と言えていない私は、今日も仕事を終えると杏寿郎の住むマンションへと脚を向けていた。
単純に自分の住むアパートよりも会社に近いからという理由だった。それと、寂しいから独りで過ごしたくないなんて、ふざけた理由も抱えて。それでも不死川主任を忘れるためには杏寿郎の力が必要なのだ。

「来ていたのかゆき乃、ただいま」

玄関が開いて嬉しそうに顔を綻ばせながらキッチンで料理をしていた私をふわりと抱きしめる杏寿郎。

「お帰りなさい。もうちょっとでできるから先にお風呂入ってて」
「あぁ分かった。いつもすまないな」
「料理苦手だから克服しようと思って」
「君は勉強熱心だな」

去って行ったはずの杏寿郎が戻って来るなり私の肩に手を掛けるとくるりと向きを変えられてちゅっと唇にキスを落とす。キョトンと杏寿郎を見返す私に「もう一度してもいいか?」なんて律儀に聞かれたからコクリと頷くと腰に腕を掛けてそのまま強く引き寄せると、私を掻き抱くように噛み付くキスを落とした。
口内で何度か舌を絡め合うと、甘ったるいリップ音が耳に響く。「んっ、」漏れた声に杏寿郎が、すっと舌を抜いた。熱を帯びたおデコをくっ付けて目を閉じて深呼吸を繰り返す。

「これ以上は危険だ。風呂に入ってくるな」

ポンと頭に手を乗せると右手でネクタイを緩めてそれをするりと外した。そーゆう仕草、男っぽくてすごくすごく好きだと思うのに…なんでだろう…杏寿郎と付き合い始めて1ヶ月が過ぎようとしているというのに私はまだ、彼の事を受け入れる事ができずにいる。
そして、仕事が忙しい事を理由に、定例会に参加しなくなってからも、1ヶ月が経とうとしていた。


「いい加減話してくれないかな?」

しびれを切らしたアイスがカフェでミルクティーを待っている私を見つけて腕を引っ張るなりそう言う。まぁそうなるよね。当然だと思う。自重的な笑いをする私を見ているアイスの表情はちょっとだけ怒っている。

「愛莉から聞いてるよね?」

私が問いかけるとアイスは大きく溜息をついた。一度逸らした視線を再度私に向けると、アイスの綺麗にアイメイクされた瞳が小さく揺らぐ。

「聞いたよ愛莉ちゃんからは。でも私はゆき乃からはまだなにも聞いてない。話してくれるの待ってたけど、一向に来ないから自分から来ちゃったじゃん。どうして頼ってくれないのよ、ゆき乃も愛莉ちゃんも。寂しいじゃん、私もハルも。みんな大学の時からの親友なんだよ」

親友という言葉に私の心がほんの少し乱れる。もう無理だと自分から言ってしまった手前…

「アイスごめんね。愛莉とはもう、親友には戻れない…。不死川主任と付き合ってる愛莉と、杏寿郎と付き合った私が親友になんて戻れるわけないよ…」

私の言葉に涙を浮かべるアイス。いつだって友情に熱いアイスは、私たちみんなから頼りにされている。クールな見た目で一見一匹狼の様に見られがちだけれど、いつだって私たちの事を思ってくれている優しい人だ。

「ゆき乃はそれでいいの?この先一生愛莉ちゃんと話せなくても?…恋人の代わりは他にいるかもしれないけど、親友の代わりはさ、愛莉ちゃんの代わりをできる人なんていないんだよ。意地張ってないで、仲直りしてよ、頼むから。愛莉ちゃんもゆき乃もいない定例会がどれだけ寂しいかちゃんと考えてよ!私は親友としてゆき乃にも愛莉ちゃんにも同じ事言ったからね!後は自分で考えて!」

アイスがこんなに怒るのはいつぶりだろうか…。あの大学2年の二股事件の時以来かもしれない。

「ハルも寂しがってる」
「うん、ごめん。ごめんね、アイス。本当にごめん」

結局私はアイスにごめんとしか言えなかった。戻れるものなら今すぐにでも戻りたい。
アイスのいなくなった場所に、入れ変わるかの様に現れたのは杏寿郎。

「ゆき乃休憩か?」

大きな目を私に向けて微笑んでいる。
カフェの窓際の端に座ってボーッと外を走る車の流れを眺めていた私は、少し冷めてしまったミルクティーをゴクリと飲んだ。

「杏寿郎、この下…だったね」

ガラス張りの窓の下を指差す私に、杏寿郎は一瞬キョトンと目を瞬かせるも、すぐに小息混じりに笑った。
それはあの日、あの大雨の日。不死川主任と愛莉が付き合う事を知った日で、残念な私の失恋日だ。その翌日そんな私を杏寿郎が受け入れてくれた、交際記念日だった。
そして明日は私たちの一ヶ月記念日。

「あぁそうだな。あの日よりも今日の方が君を好きになっている」

頬杖をついたまま視線を向ける杏寿郎の反対側の手が伸びてきて、私の髪をサラりと撫でた。目を細めて私を見つめる杏寿郎の髪を同じように手を伸ばして撫でると「心地よいな、ゆき乃の温もりは」ニコリと微笑む。
この人を選んだ事が間違っていなかったと、いつになったら思えるのだろう。
時間が経てば経つほどに、胸の奥に空いた穴が大きくなっていくように思えるなんて。

「明日は外食でもしよう。帰りに迎えに行くよ」

そう言って杏寿郎は、束の間の時間を過ごし撮影棟のある編集部へと戻って行った。私も気合いを入れてholiday編集部へ戻った。

フロアに入ると派手な髪色の女性が不死川主任と何やら話しているのが目に入る。不死川主任は私がデスクに戻るとほんの一瞬視線をこちらに飛ばした。

「困ったわ。ここでもう五箇所目。せめて明日一日だけでも一緒に取材に行ってくれる子がいれば助かるんだけど。不死川さんの所もみんな忙しいわよね…」
「まぁなァ。今はこっちも〆切前だからピリピリしてる。一日ぐらいなら空けてやりてぇ!と言いたい所だが、厳しいぜ」

取材?明日?一日?耳に入るその単語に私は思わず立ち上がった。座っていたら見えなくともさすがに立ってしまうと雑誌で積み重ねた壁は超えてしまう。不死川主任と目が合うと私はそちらへと歩いて行く。

「あの、取材ですか?私明日一日空けられます!」
「えっ!?本当ですか?」
「はい!」
「オイ一ノ瀬、てめぇgirlsの取材は大丈夫なのか?」

私が担当しているgirlsholidayの取材ならカメラマンは杏寿郎だから多少は融通が効く。それに、ここで仕事しているよりかは外へ行く方が余っ程マシだった。

「大丈夫です。ちゃんとやってます」
「不死川さん!!ぜひお借りしたいのですが、駄目かしら?」
「いやまぁ仕方ねぇ。一ノ瀬自分の仕事疎かにすんじゃねぇぞ」
「勿論です!えっと、一ノ瀬ゆき乃です。ぜひお手伝いさせてください」

名刺を渡すと彼女は「児童書編集部の甘露寺蜜璃です。明日はよろしくね、ゆき乃ちゃん!」にっこり微笑むその顔がめちゃくちゃ可愛いかった。そう言えば杏寿郎の大学の時の後輩が甘露寺さんだったかも。前にそんな話をしていた気がする。

「あの、煉獄さんの大学の時の後輩という、」
「わあ!ご存知です?そうなの、わたし煉獄さんの後輩なんです。貴女はもしかして煉獄さんの彼女?」

手を握りしめられて被せられた言葉と勢いに若干後退りしたものの、甘露寺さんはキャンディーのような甘い香りがしてとても女性らしい人だ。スタイルも抜群だし化粧もうまいし…素敵な人だなぁと思ったけれど、今ここでその質問は避けてほしかった。

「…はい」

甘露寺さん越しに不死川主任と目が合った。見なきゃいいものの、怖いもの見たさなのかなんなのか、視線が不死川主任にいってしまう自分を秒で悔やんだ。けれど思った通り顔色、表情一つ変えることのない不死川主任に、見なければよかったと後悔しかない。

「素敵!明日沢山色んなお話聞かせてね」
「…はい。よろしくお願いします」

頭を下げる私に甘露寺さんは連絡するからとLINEの交換をし、笑顔で戻って行った。
デスクに戻ろうとした私を不意に不死川主任の腕が止める。急に手首を掴まれて吃驚して不死川主任を見上げると「さっき何話してたァ、悲鳴嶼さんと」…見られていたのかそんな事を聞かれる。

「…世間話です」
「嘘つくな」
「本当です。離してください、腕!」

無意識だったのか、わたしが強めに言うとハッとしたようにすぐ様掴んだ腕を離した。だから私は逃げる様に自分のデスクに戻る。
たかが腕を掴まれただけなのに、私の心臓は馬鹿みたいに早鐘を鳴らしてしまうなんて。
この人の温もりは私ではなく愛莉の物だというのに。それでもしばらくの間、心音がどくどくと蠢いて止まらなかった。

2021.6.23 written by みるく