無自覚



「川谷さん、見ちゃったよー!この間、編集部の不死川さんと居る所!」
 忙しなくパソコンのキーボードを叩いていた私の背後で、楽しそうな声が揺らぐ。振り向こうとするよりも早く、目の前に新作のコンビニスイーツが差し出され、隣の空いた席に腰を降ろす気配がする。
「はい、これ差し入れ」
 右隣りへ視線を向ければ、口角をニンマリと持ち上げた編集部の先輩が、差し入れをデスクに置いて、私の肩を小突いてきた
「先輩…ありがとうございます」
「お礼はいいから。それより、不死川さんとの話、聞かせなさいよー。あの雰囲気は、もしかしなくても、付き合ってるんでしょ?」
「しーっ、先輩、声大きいです」
「あー、やっぱりそうなんだ」
 周囲を見回し、唇の前に人差し指を立てて言えば、先輩はごめんごめんと、あまり悪びれた様子もなく謝罪の言葉を述べた。
 職場恋愛は周囲にも何かと気を遣うし、出来ればお付き合いを始めたことは隠しておきたかったのだが、これだけ社員数の多い会社だ。一人ぐらい目撃者がいても、なんら不思議なことはない。しかもよりによって、相手は不死川さんだ。彼は営業部のエースであり、加えてあの容姿なので、社内でもちょっとした有名人で女性社員にも人気がある。そんな人とお付き合いをしているだなんて社内に広まってしまうと、色々と仕事がやり辛くなってしまう、と自分の迂闊な行動を反省する。
「でも意外だったなー。てっきり川谷さんは、煉獄さんのことが好きだと思ってたからさ」
 デスクに両手で頬杖をついた先輩が、一瞬考えるように虚空を見てから私へ視線を移す。突然図星を指されてドキリとする。差入れされた菓子の封を開けていた手が止まってしまう。
「え…私が…煉獄さんを?」
「うん、そうそう。多分煉獄さん本人以外は、皆、分かってたんじゃないかなー。だって川谷さん、分かりやすいんだもん。煉獄さんが隣に居ると凄く嬉しそうだったし、上手くいくといいねーって、編集部の皆で話してたんだよね。ほら、煉獄さんはいい男だけど、そのあたりちょっと鈍いじゃない。まぁ、そこが彼の長所でもあるんだけどさ」
「私…そんなに分かりやすいですか?」
「そりゃあもう!…でも、営業部のエースと付き合ってるってことは、そうじゃなかったってことなんだよね?いやー、川谷さん、意外にも演技派だったんだね」
 先輩の問いに、私は苦笑いを返すことしか出来なかった。タイミング良く先輩の社内携帯が震えたので、話はそこで終了となった。
「あ、ごめんね。私もう行かなきゃ。編集部の納涼会、来るでしょ。その時にじっくり聞かせてもらうから、覚悟しておきなさいよ」
 芝居の台詞じみた口調で言うと、慌てて電話を取った先輩は忙しなく私の元を後にする。そういえば、編集部恒例の納涼会はもうすぐだ。煉獄さんも、来るのだろうか。いつもは楽しみな飲み会も、今はなんだか憂鬱な気持ちになってしまう。重たい息を吐いて、私は資料室へ向かうために席を立った。

 本館の一階にある資料室は、この時期、罰ゲームかと思うほどの暑さだ。自由に使えるパソコンやデスクが置いてあるにも関わらず、この場所に社員が寄り付かない理由として、空調機が備え付けられていないことが一つ挙げられるだろう。兎に角夏場は、この場所に長時間留まることは危険であり、一刻も早く撤退しなければ、と私は急いで必要な資料を取り出しては胸に抱えていく。
「あーもう、あんな場所…脚立がないと取れないよ」
 早くも額にじんわりと滲み始めた汗を拭い、明らかに自分の身長では届かない位置にある資料本を睨んで不平を漏らす。不快な暑さに加速する苛立ちを深呼吸で抑えると、私は近くの脚立を引き寄せて足をかける。撮影が無い時は、タイトスカートにヒールを合わせる服装がお決まりのため、段差を踏み外さないといいな、と頭に過った不安が残念なことに現実となってしまう。
 資料に手を伸ばしたタイミングでバランスを崩した私は、足をかけていた脚立の段差を踏み外してしまう。死ぬことはないだろうが落下は免れないだろうと観念して目を瞑れば、想像していた衝撃の代わりに、柔らかい感触が私を受け止めた。それが煉獄さんの胸の中だったと気がついたのは、私を抱え込むようにしてこちらを覗き込む彼の大きな瞳と目が合ってからだった。
「川谷!大丈夫だったか?良かった、間に合って」
「煉獄さ…ん」
「あまり驚かせるな。そんなに高い踵の靴で脚立を使うとは、君は思ったより大胆なことをするのだな」
 煉獄さんは苦笑すると、私の体を離して、床に散らばった資料を集め小脇に抱える。驚いたのは私だ、という言葉を呑み込む。煉獄さんに触れていた部分がどうしようもなく熱い。それは勿論、この資料室の暑さとは全くの別物だ。
「あ、ありがとうございます。あの…資料」
「いや、俺が持とう。今、君が取ろうとしていた資料はこれで間違いないか?」
「は、はい!」
 流し目で私に確認すると、煉獄さんは易々とその資料を自身の手に収めた。こうして隣に立つと、煉獄さんの長身に胸がきゅんとしてしまう。身長だけでいえば、不死川さんだって変わらないはずなのに、煉獄さんが隣に居ると、どうしてこうも心臓が煩く暴れ回るのだろうか。しかし今、私は不死川さんと付き合っていて、煉獄さんはゆき乃の彼氏だ。こんな邪な感情は許されないし、不死川さんにだって失礼なことこの上ない。
「あのっ、煉獄さんは、どうして資料室に?」
 自分の気持ちをはぐらかすように、意味のない質問を口にする。資料室に居るのだから、必要な資料を探しに来たのは聞くまでもない。しかし、煉獄さんの口から紡がれた言葉に、頭上から石を落とされたようなショックが全身を貫く。
「ああ、俺は、ゆき乃…一ノ瀬との仕事で、少し頼まれたことがあってな」
 わざわざゆき乃を一ノ瀬に言い直した煉獄さんの耳は、微かに赤みを帯びている。煉獄さんは、ゆき乃のことを、「ゆき乃」と呼ぶんだ。私のことは一度も名前で呼んでくれたことなどないのに。当然だ。ゆき乃は彼女で、私はただの部下なのだから。そして、ゆき乃の名前を口にするだけで、こんなに嬉しそうに、照れくさそうに笑うんだ。
 瞼の裏が熱くなり、目尻から涙が溢れそうになったので、私は汗を拭くように見せて終始涙を擦っていた。資料室が暑くて助かった、とこの会社に入社して初めて思う。
「…そういえばゆき乃に聞きました。ゆき乃、煉獄さんと付き合い始めたって」
 不自然にならないような口調で言う。自分の目的の資料を見つけて手中に収めた煉獄さんは、端正な横顔に少しだけ淋しそうな表情を浮かべた。
「…一ノ瀬にとっては、不本意なのかもしれないがな」
「え…?」
「いや、気にしないでくれ。…それより、先ほど編集部で不死川を見かけたぞ。川谷を探しているようだったが」
「不死川さんが」
「君と長い時間二人きりでいれば、妙な誤解を与えてしまうな。申し訳ない」
 突然話題を変えた煉獄さんは、眉尻を下げて苦笑する。煉獄さんは、私達が付き合っていることを知っているんだ。不死川さんが話すとは思えない。となると、ゆき乃が伝えたのかもしれない。ひょっとして、私が煉獄さんを好きだという気持ちも伝わってしまっていないだろうか、と不安になる。
「煉獄さんは…私と不死川さんのこと…ご存知なんですか。…もしかして、ゆき乃から何か聞いたんですか」
「勿論他言するつもりはないから安心してくれ。営業部とは繋がりも多いし、仕事がやりにくくなっても困るだろう。しかし、良かったな。不死川なら、一上司として、俺も安心だな」
 煉獄さんは私の頭をぽんと叩くと、軽快に笑って資料室の出口へと歩き出す。今の態度を見て確信する。煉獄さんは、私が自分を好きだなんて、露ほども思っていないのだろう。どうしたら、私のことを女として意識してもらえるのだろうか。恋愛対象として見てもらえるのだろうか。今この場で告白すれば、彼の腕を引いて無理やりキスでもすれば、この気持ちが伝わるだろうか。
「…もう、そんなことしても、遅いですよね」
 感情が言葉となって無意識に口から零れた。そう、もう遅いのだ。私は不死川さんという彼氏がいるし、煉獄さんにはゆき乃という彼女がいる。今自分の気持ちを伝えたところで、彼を困らせてしまうだけだ。
「ん?何か言ったか?」
 いつもの優しい笑みを湛えて、煉獄さんが私を振り返った。この笑顔が自分のものになることはないのだと思うと、酷く投げやりな気分になった。

2021.6.21 written by cookie