守れなかった約束



大学2年の夏だった。
当時愛莉が付き合っていた男が二股かけていた事が分かり、私たちは怒りの末に逆に騙し返してやろうと、ハニートラップを仕掛けたんだ、私が。男はまんまと引っ掛かって二股女と別れて私の所にやってきた。だから派手にフッてやった。全部全部愛莉を苦しめた罰だと言って。
その時に誓ったんだ…

「この先どんな恋愛をしようと、一番に協力するからね」
「私も!もしゆき乃を傷つける男が現れたら、絶対に許さないよ」

あの頃の気持ちはどこへいってしまったのだろうか。こんな日が来るなんて、思ってもみなかっただろう。
大人になると、あの日誓った約束なんていとも簡単に破れてしまうものだと身をもって知る。
いや、破るつもりなんてなかったけれど…ーー
もうどうすればいいのか分からない。どれが正解なのか、何も分からないよ。
そんな事を、今になって思い出すなんて…


「先に温まってくれ。湯船もつかれるように湯をためたから」

結局この人の手を自分から掴んでしまった。その先に何があるのかも定かじゃないけれど、もう後には戻れない。もう、あの二人の間に私の居場所はない。…いやきっと、最初からなかったんだろうな。
頭のてっぺんから足先まで全身ずぶ濡れだった。煉獄さんに連れられて彼の自宅マンションへと脚を踏み入れた私。玄関で立ち止まったままの私を煉獄さんはバスタオルで包み込んでぎゅっと抱きしめた。

「そんな顔をするな、離したくなくなる…」

頬を撫でる大きな手に自分の視線を落とすも、覗き込むように顔を寄せて唇をそっと重ねられた。下唇をハムッと甘噛みする煉獄さんがキスの合間にほんのり目を開けると、目を開けていた私と視線が絡む。

「ん、君は目を開けて口付けをするのか」

照れくさそうに私の頬を指で擦りながらも、頬に、鼻の頭に、小さなキスを落とす煉獄さん。
今更戻れないのに、今この瞬間も私はまだ迷っている。自分から突き放した愛莉。きっと泣いている。泣き虫な愛莉の事だからきっと号泣しちゃってるって思う。私が泣かせた。絶対に折れない自信があったのに、絶対不死川主任しか好きじゃないと、ブレない気持ちがあったはずなのに、今の私は一人で立つことすらできそうもない。

「あの…聞かせてください。愛莉の事、少しでも好きって気持ちは、ありましたか?」

もしここで彼がYESと答えたら私は身を引こうと思った。少しでも愛莉に望みがあるのなら。

「俺はゆき乃が好きだ。川谷の事は良き後輩だと思っている。それ以上でも以下でもない。俺がどうしようもなく愛しているのはゆき乃、君だけだ」
「そう、ですか…」
「心を開いてくれないか」
「え?」
「不死川を好きな君も、今ここにいる君を作っている一部であろう。俺にとっては愛し守るべき存在だ。今すぐ不死川を忘れろとは言えまい。それでも俺はそんな君ごと、愛したい…。ゆき乃…君を愛してる」

ザーザーと窓を打付ける雨音と、時計の針がカチカチと動いている音しかしないこの部屋。煉獄さんが私を抱きしめると服が擦れて出る小さなBGMが耳に心地よく入ってきてしまう。

「煉獄さん…」

頬を伝う涙を煉獄さんの肩に擦り付ける。
この人を好きになりたい…ーーそう思えた。
何度目かのキスが唇に落ちる。ほんの隙間を割って入り込む煉獄さんの舌に自分のを絡めると、クスっと煉獄さんが甘く吐息を漏らした。

「やっと口付けに応えてくれたな」

嬉しそうに笑った彼にぎゅっと抱きついた。
夜は長いーー

恋愛に疎そうに見えた煉獄さんは、とても情熱的な人だ。びしょ濡れの服は洗濯を終え乾燥機に入れたから明日にはまた着れるだろう。私は下着を身につけることなく煉獄さんの貸してくれた大き過ぎるTシャツと短パン姿でベッドに横になった。
そのすぐ後、煉獄さんも私の隣にもそもそと入り込んできて「ちょっと頭をあげてくれないか」首の下にその逞しい腕を通した。

「腕枕なんてしてくれるんですか?これって最初はいいけど後々疲れますよ」

歴代の彼氏にも確かにして貰った事はあるけれど、みんな口を揃えてそう言っていた。
煉獄さんはふっと小息を漏らして笑うとチュッと頬に口付けた。

「俺はそんなにヤワじゃないよ。こうしてゆき乃の温もりを抱きしめているだけで、幸せな夢も見れよう」
「真面目ですね」
「ん?」
「手、出さないんですか?」
「あ、いやまぁ…正直に言うなれば、今すぐゆき乃を抱きたい。だが今の君にそんな酷な事はでき兼ねる。せめて、俺の事を少しでも意識してくれているゆき乃を抱きたいと思うのは、駄目だたろうか」
「やっぱり、真面目です。でも、嬉しい…」

向きを変えて煉獄さんの方を見ると当たり前に視線が絡む。愛おしそうに私の顔にかかった髪を退かす煉獄さんの熱い手に自分の指を絡めた。

「ゆき乃?」
「手、大きい」
「そりゃ男だからな」
「キスぐらい、してください…」
「え、いいのか」
「それぐらいしないと意識なんて一生しませんよ」
「それは困るな」

カサっと煉獄さんの身体もこちらを向く。瞳の奥が揺れている煉獄さんは、一度ふわりと私を抱きしめた。
強く、強く…。

「もう泣かせない。…不死川の為に、これ以上君を泣かせない」

煉獄さんの熱い唇が重なり合うと、子宮の奥がきゅんと疼いた。私が眠りにつくまで煉獄さんは何度も何度も甘いキスをしてくれた。
あんなに黒くモヤモヤしていた気持ちが、いつの間にか消えていく様な不思議な感覚だった。




翌朝目覚めると昨日の雨のせいか頭痛がした。偏頭痛持ちの私を愛莉はいつも心配してくれていたな…なんて思う。愛莉はあの後どうしただろうか。話すことはない!なんて啖呵を切って、引くに引けない状況にしたのは他の誰でもない私自身だ。
私たちはあの日の約束を破って、親友という枠からも外れてしまった。男が絡んで女の友情が壊れるなんて、これ程馬鹿げたことは無い!なんて民間のドラマを見ながら話していた過去すら捨てなければならない。
キッチンから香る味噌汁のいい匂いに身体を起こす私に気づいて、既に白シャツとスラックス姿の煉獄さんが「起きたか」と、声をかけた。

「おはようございます。味噌汁美味しそう」
「男の料理だから大したものではないが、一緒に食べようと思ってな。顔を洗ってきたらいい」
「はい。…煉獄さん昨日眠れました?」
「うむ」

そう言うけど目の下に隈ができている気がする。
一人暮らしをしてから、こうして誰かに朝ご飯を作ってもらうのは初めてかもしれない。顔を洗って戻ってくると和食が準備されていた。

「いつもパンなので、こんな豪華な朝ご飯久しぶりです」
「ゆき乃はパン派なのか?ならばパンを買ってこようか」
「パン好きなんです。でも面倒くさいからって理由もあるんですけど。食べてもいいですか?」
「ああ、召し上がれ」
「いただきます」

味噌汁を一口啜ると甘塩っぱい。見るとそこには…「サツマイモ!?初めてです。美味しい…」目を大きく見開いている煉獄さんは、また優しく微笑んだ。

「実は好物なのだ、サツマイモが。弟の千寿郎が作る料理の方が俺より数段美味い。今度一緒に食べに行こう」

弟さんの話は前にも聞いた。それはいわゆる、煉獄家に行こう…という事だと理解した。煉獄さんはそんなつもりで言った訳ではなさそうだけど。昨日はもう何も考えたくなくて、煉獄さんの優しさに甘んじて眠ってしまったけれど、一歩外へ出るには覚悟が必要だ。口内に残ったサツマイモをゴクリと飲み込むと私は真っ直ぐに煉獄さんを見た。

「どうした?」
「私は、煉獄さんとお付き合いしてもいいのでしょうか?」

私の問いかけに彼もゴクリと味噌汁を飲み込む。

「ご存知だと思いますが、親友の愛莉は貴方の事が好きだと私に言いました。それ以前に私は不死川主任が好き…だったので煉獄さんの事を恋愛対象に見るつもりは無かったんです。でも…これ以上不死川主任を好きでいるのは辛いです。愛莉と不死川主任は付き合うってハッキリ言われて…。ムキになって、それなら私も煉獄さんと付き合う!とは言いたくありません。不死川主任の事諦めるにしても、今すぐ気持ちを切り替える事は難しいし…」
「あぁ」

テーブルの上、煉獄さんの手が私の手に重なる。

「だからあの…」
「構わない。昨夜も言ったが、俺は不死川を好きな君ごと受け入れると。君が俺と一緒にいることを迷惑だと思わなければ、俺はゆき乃と一緒に居たい」

昨日から煉獄さんは私の欲しい言葉ばかりをくれる。
本当は不死川主任に言ってもらいたかった。どんな私も受け止める…と。でもそれはもう叶う事がない。ならば私も一歩踏み出さなければならないのだと思う。

「まだ貴方を好きだとハッキリ言えません。それでも…煉獄さんと一緒に居てもいいですか?」
「ああ」
「よろしくお願いします」

その場でペコりと頭を下げる私に、煉獄さんは太陽みたいな優しい笑顔で頷いた。
この人の事を、好きになりたい…そう思えた優しい朝だった。


煉獄さんの家から会社までは、一駅という距離だったので、私は歩いて会社まで行く事にした。家を出る前に愛莉から来ていたメッセージ。返信する気にはなれずとも、愛莉が私を気にかけてメッセージを送ってくれたことが嬉しいなんて。先に家を出た煉獄さんはとりあえずの鍵を私に託してくれて、それを鞄の中、財布の入ったポケットにしまった。
大きく深呼吸をして社に脚を踏み入れた。
どんな事があっても陽は昇るし朝は来る。そして、出社も免れない。編集部のある休館の階段をあがってフロアに入ろうとすると、入口に見知った後ろ姿を目にする。

「…愛莉」

振り返った愛莉は、一瞬で私の服装を見て、無意識で眉毛を下げた。昨日と同じ服の私。去年のバーゲンで愛莉と色チで買ったワンピースの裾が、コートの下からほんの少し顔を出している。

「…愛莉…ごめんね。私、煉獄さんと付き合うことになったから」

先に何かを言われてしまったら言えなくなってしまう!と咄嗟に思った私は口を開けばそんな言葉を愛莉に浴びせていた。

「…待って…付き合うことになったって…どういうこと?」

明らかに動揺している愛莉の声に私はキリリと愛莉を見返した。困惑した愛莉の顔の下、首元にほんのりと紅い痕を見つけてしまう。あぁもう愛莉と不死川主任は本当に付き合っているんだと納得せざるを得なかった。

「は?…それはこっちの台詞だよ。昨日、不死川主任と付き合うことになったって言ったのは愛莉だよね?」
「違う!あれはそうじゃなくて、私はちゃんとゆき乃と話してって思って」
「もう聞きたくない!私との約束すっぽかして、男とっ…しかもっ、よりによって不死川主任と居た時点で…もうないから。…愛莉とは…もう親友なんか出来ないよ」

違う、本当はこんな事が言いたい訳じゃない。私だってできるのなら愛莉とちゃんと話したい。でも怖い…愛莉も不死川主任の事が好きだと宣言されてしまうのが。そしてそれ以上に、不死川主任に付き合おうと言われたからなんとなく…なんて曖昧な答えが帰ってきたら、私はきっと愛莉を許せなくなってしまう。
それと同時に、愛莉に対して同じことをしてしまっている自分自身が嫌で嫌で仕方がない。愛莉を前にすると、自分の汚さを責められているみたいですごく怖かった。
散々泣いてもう涙は枯れたんじゃないかと思う程泣いたというのに、また溢れだしそうになるそれを愛莉に気づかれたくなくて、そのまま顔を伏せた瞬間、頬を涙が伝う。それでも私は振り返る事無く編集部の中へと入って行った。
不死川主任はまだここにいなくてよかったと胸を撫で下ろす。
ふとスマホを見ると煉獄さんからのメッセージが入っている。

【今夜一緒に合鍵を作りに行こう】

一つ目の合鍵は弟の千寿郎くんに渡してあるとかで、私の分を作ってくれるんだと、胸がぽうっと温かくなるのを感じた。

これでいい、これで。
きっと間違っていない。
私は煉獄さんとの未来を歩いていく、と。

2021.6.19 written by みるく