届かぬ「好き」





「まぁアレだ。本気で惚れちまった。俺は川谷が欲しい。つーか必ず手に入れる」
「はっ!不死川が本気になるのなんていつぶりだ!?これは派手に祝ってやろーじゃねぇか!」

たまたまだった。たまたまカフェでミルクティーを待っている時、聞こえたその会話に視線だけをそちらに向けると、やっぱりそこには不死川主任と、確か同期の宇髄さん。宇髄さんはスポーツ誌の編集部の人で、不死川主任や煉獄さんと同期だった。社内で時々ああして雑談しているのを見かける事もあり覚えていた。
だけど聞こえた会話に心中穏やかではいられない。大きく溜息をついた私は一人肩を落とした。
結局あの日、定例会には行けなかった。グループ部屋に急な仕事が入って行けない…とメッセージを残して帰った。私のいない定例会でどんな話があったのかは分からない。けれどそのすぐ後、愛莉からサシで飲みたい…と連絡が来て、それに応じる他なかった。果たして愛莉を前にしてちゃんと話ができるのか?すら、今はもう分からない。
こんなに日々、私の周りでは不死川主任の愛莉への想いがダダ漏れしてしまっている現実が、悲しくて仕方がないんだ。
きっと不死川主任は好きになったら相手に一直線で想いを伝えるだろうし、やっぱり愛莉が不死川主任を好きになるのは時間の問題なんじゃないかと思えた。いくら煉獄さんを好きだと愛莉が言っていても、不死川主任に真っ直ぐな気持ちをぶつけられたら、愛莉だって気持ちが揺らぐはずだと。
そう思う私は、少なからず煉獄さんへと気持ちが揺らいでしまっているのだろうか。いつも私のSOSに気づいてくれる煉獄さんを、もし愛莉が好きだと言っていなかったら…どうなってしまうのだろうか。
書類を胸に抱え直して私はミルクティーを受け取ると不死川主任から見えないように遠回りをして自分の部署に戻った。何をした訳でもないのに心臓が爆音を立てていて煩い。気持ちを落ち着かせるようにPC画面を開くと、そこには煉獄さんが撮ってくれたあの星空を見上げている写真が映し出されている。ちょうど手直ししていた所だった。これを終えたら今度はチームLABO主催のスパを取材する事になっている。それもまた煉獄さんと一緒だった。プライベートが拗れると仕事もやりずらくなるし、煉獄さんとはいい関係を築いていたいと思うけれど、そこに愛だの恋だのは入れたくもなく、大きく溜息をついた私はカチっとEnterキーを押して仕上げたそれを保存すると、不死川主任宛にメールで転送した。
もうこれ以上、愛莉を想う不死川主任を見たくないよ。

定時を過ぎて早二時間が経過した。繁忙期のこの時期、どれだけ時間があっても足りなかった。自分の仕事が一段落した私は次の取材の打ち合わせの為、煉獄さんと愛莉のいる撮影棟に向かって歩いていた。新緑のある中庭は心も落ち着くし、思いの外人も少ないので社内でも好きな場所ではあったものの、そこに不死川主任と愛莉がいたらと思うとそこを避けて通るようになってしまっていた。
ガラス張りの向こう、グレーがかった空は今にも泣き出しそうで、さも大粒の涙を堪えているかのようにすら見える。今朝の天気予報では帰宅時間から雨足が強くなるから必ず傘を持っていくように…なんてお天気お姉さんが笑顔で言っていた。日傘兼用の傘は鞄に忍ばせておいたし、ロッカーにも置き傘をしていた。だから雨が降ろうが問題は無い。ただ雨の中傘を指して歩くことはとても面倒だと思った。
会社は最寄り駅まで直通の為、地元の駅に降りるまでは傘の出番はない。けれど今夜は愛莉とのサシ飲みで、わざわざ会社近くのスペインバルを選んでくれた愛莉の心意気に感謝しつつ、それでも少し億劫だと感じていたんだ。

結局煉獄さんは撮影棟の方にいなかった。愛莉にも運良く会う事はなく、また自分の部署に戻って愛莉との待ち合わせ時間まで仕事を続けようと気合いを入れ直した。ふと不死川主任の席に視線を移せばちゃんと禁煙が続いている。

「一ノ瀬、指動かせェ」
「げ、すいません」

見てる事がバレた恥ずかしさに俯きながらも、それでも少しでもあの人の視線の先に居たいと思ってしまう私はそうとう重症なんだと思う。愛莉にどう伝えようかを脳内でぐるぐると考えていたら、内線が鳴って悩みの種でもある煉獄さんから呼び出された。とりあえず自分の仕事を全て終えて、すぐに帰れる準備をしてから煉獄さんの待つロビーへと急いだ。


「一ノ瀬!」

今にも雨が降り出しそうな灰色の空を見上げるよう、窓の外を眺めていた私は名前を呼ばれた事で向きを変えた。煉獄さんが金色の髪を揺らして大股で駆けてくるのが目に入った。

「煉獄さん。あのこの後愛莉と約束があるので手短にお願いしたいのですが、」

てっきり仕事の事だと思っていた私の肩に煉獄さんの熱い手が落とされる。え?見上げた私の事を今にも抱きしめちゃいそうな勢いで耳元で言うんだ。

「不死川に聞いた。すまなかった俺のせいで」
「へ?なんのことですか?」
「背中を押すような事を不死川に言わせてしまって、君がまた傷ついて泣いているんじゃないかと思い、気が気じゃなくここまで来てしまった。大丈夫か?」

それはあの日、資料室で煉獄さんとの会話を聞かれた不死川主任に言われたあの事を言っているのだと。正直傷口に塩を塗られるようで胸が痛い。そして…大丈夫?って言葉は時に魔法がかっていやしないだろうか。例え大丈夫であったとしても、誰かにそう聞かれると弱い自分が顔を出しそうになる。
確かに酷く傷ついて、そのせいでせっかくの定例会にも顔を出せなかった。だから不死川主任の罪は重い。でもそれでも一社会人としてプライベートと仕事は分けなければと思っている。だから不死川主任とだって普通に接した。目は一度も合わせられなかったけれど。

「大丈夫です。私そんな弱くないので」

閑散とした人気のないロビー。それでも声の大きな煉獄さんと仕事ではない話をしているのを誰かに見られでもしたら、変な噂もたち兼ねない。人間なんて他人の色恋が好物な生き物だろうと。昼間の雑音が一変して静かなここに煉獄さんの声が反響して聞こえてくる。

「強がるなと言っただろう。俺はどんな一ノ瀬も受け止める。一人で泣くぐらいなら俺を頼れ…一ノ瀬!そんな悲しそうな顔をしている君を…放っておけるわけがないだろう」
「嫌だっ、煉獄さん、離してっ…もう…私に構わないでください」

肩にグッと力を込める煉獄さんに、抑えていた涙が込み上げてくる。だから嫌だと言ってるのに、この人は私の事を好きでいてくれるけれど、私の気持ちに寄り添ってはいない。それなのに…

「その頼みは聞けん。俺は、君を好きだと伝えたはずだ。…一ノ瀬が辛い時は、傍にいてやりたいと思う。…やはり…俺では役不足か」

役不足だなんてそんなこと…ーーこうして私の為に走って来てくれた事が嬉しいなんて。

「ふぇっ…そんな言い方…ずるいです。…ずるいよぉ」

煉獄さんに強く抱きしめられた。
馬鹿みたいに煉獄さんの温もりが私の身体に染み付いていて、それを心底安心できると思い始めている自分がいたーー。




煉獄さんと別れるともう、愛莉との待ち合わせ時刻だった。今すぐにでも待ち合わせ場所に行かなきゃと思うも、結局また泣いてしまった。不死川主任を好きになってから何度目だろうか。まだぼんやりとした顔を愛莉に気づかれちゃいけないと、トイレで顔を洗って素早く化粧をし直した。お気に入りのDiorの香水を手首につけて耳の後に擦り付けた。忘れちゃいけない折り畳み傘を鞄の中から取り出すと、駆け足で新館のロビーへと降りた。けれどそこにはまだ愛莉の姿はなく、ほっと胸をなでおろした。来客用で置いてあるロビーの長椅子に座って私は心を落ち着かせるように、窓の外に視線を移した。
雲に覆われた灰色の空からはとうとうポツポツと大粒の雨が降ってきて、あっという間に土砂降りへと色を変えた。窓から見える車のランプが雨で滲んで綺麗に見えた。あまり雨の日って街中を眺めることなどなかったからか、以外にも煌びやかな世界にほんのり心が落ち着く。
けれど、待てど待てど愛莉は待ち合わせ場所に来なくて、腕時計を見るともう既に40分が過ぎていた。

「まだ残ってるのかな、」

そう思って私は愛莉のいる部署へと歩いて行こうと椅子から立ち上がった時だった。信じられない光景が目に入る。
不死川主任と、主任に肩を抱かれて誘導されるかの様、愛莉が中庭のある方からこちらへ歩いてきたんだ。二人は雨に濡れたのかびしょ濡れだ。
え、愛莉、私との約束は?よりによってなんで不死川主任と一緒にいるの?
いてもたってもいられなくて、まだ私の存在に気づいていない二人の方へと走って行く。足音で気づいたのか愛莉が私を見てほんの一瞬目を逸らした。

「愛莉!なんで?なにしてんの?」

不死川主任から離すように私は愛莉の細い腕を掴んだ。

「ゆき乃…ごめん」

愛莉は今にも泣きそうな顔で消え入りそうな声でそう言うけど、全然分かんない。思わず掴んでいる腕に力を込める。だけど、「離せェ一ノ瀬」愛莉の手を掴んで自分の後ろに隠したのは不死川主任で。まるでそれは私から愛莉を守っているかの様で物凄く腹が立った。離された手をぎゅっと握り締めて私は顔を上げるけど、愛莉は不死川主任の後ろから出てこようとしない。

「なんのごめんよ、愛莉!私との約束忘れて不死川主任と2人でいたからの、ごめん?それとも、不死川主任と付き合うことにしたからの、ごめん?それとも、不死川主任の事はもう諦めての、ごめん?」
「やめろ一ノ瀬!川谷に突っかかるな、見苦しいぞォ」
「主任は黙っててください!!これは私と愛莉の問題、」
「なら尚更黙らねぇ。こいつは俺と付き合う。それが答えだ…。悪りぃな、一ノ瀬の事は恋愛対象に見れねぇ、この先もずっとだ」

言ってない私。不死川主任に好きだと一度も言ってないのに、それすらも言わせて貰えないんだと思うと嗚咽が込み上げてくる。何も言ってくれない愛莉にも腹が立つし、過保護過ぎる不死川主任にさえ苛立ってしまう。でもそれ以上に涙を我慢できなくて…

「…残酷です。私には不死川主任を好きだと言う資格もないんですね。今日こそ愛莉とちゃんと話したいと思って待ってたよ。でももう愛莉と話すことなんて何もない。もう、いいっ」

くるりと2人に背を向けて私は来客用の出入り口を通って外に出た。土砂降りの中、傘を指さずに走り出す。

「ゆき乃ッ!!」

愛莉が叫んだ声は私には届かなかった。この大雨が地面に打ち付けられる雨音と、車が横を通り抜ける騒音とで。コテでくるりと巻いたふわふわの髪も、新しいピンク色のグロスも、お花のついたお気に入りのパンプスも、色チで買ったこのワンピも何もかもがぐしゃぐしゃで、溢れ出る涙も嗚咽も抑えることができなくて、声を出して泣いた。
すれ違う人は傘を指しているせいか、私に気づく人なんていない。こんなにも沢山の人が行き交っているというのに、誰一人私が泣いている事に気付く人などいなかったーーだれひと、



「ゆき乃ッ!!」

誰もいないと思ったのに、またこの手が私を抱きしめる。金色の毛先が頬に触れたと思ったら煉獄さんの大きな目が私を捉えて…冷たい唇が容赦なく重なる。

「煉獄さん…助けて、」
「間に合ってよかった。本当によかった。もう安心だ、君を一人にはしない。俺がずっと傍にいる。この先ずっとーー」

もう戻れない。
この手を自分から掴んでしまったらもう戻れない。
学生の頃から続いてきた私達の友情は、この雨に流れて消えていった。

2021.6.15 written by みるく