貴方と濡れた三度目



「え…ゆき乃来ないんだ…」
「うん、そうみたい。あ、ほら、グループ部屋にメッセージ入ってる」
 アイスに言われ、私は慌てて通勤鞄からスマートフォンを取り出し、画面をタップする。確かに、急遽定例会への参加辞退を表明するメッセージが私達宛てに届いていた。
 月に一度の定例会。正直このような状況下で気は進まなかったが、私が参加しないことで一層ゆき乃との関係がぎくしゃくしてしまうのではないかと不安になって、本日の参加を決意したのだ。
 しかし蓋を開けてみればどうだ。突然欠席なんてどうしたのだろう?と心配する気持ちは勿論あるが、今、私は、ゆき乃が来られなくなって心底ほっとしていた。
「残念だけど、今日は三人で楽しもうか」
 アイスの声で、私達は既に提供されていたドリンクのグラスを合わせる。ゆき乃を待っていたこともあり、それは少しだけ温くなってしまっていた。グラスが汗をかいたように、ガラスの表面に沢山の水滴が付いている。
「…愛莉ちゃん…何か私達に相談したいこと…あるんじゃないの?」
 運ばれてきた料理を眺め、グラスから液体をちびちびと喉に流し込んでいた私に、アイスが窺うように言う。はっとして顔を上げれば、二人が心配そうに私を見つめていた。優しく労わるようなその目に、涙腺のリミッターは呆気なく破砕されてしまう。瞼の裏が熱くなり、視界が水浸しになって涙が零れる。
「ちょっ、愛莉ちゃん!大丈夫かー」
 ぎょっとしたアイスが、すぐさま私の隣に来て背中を撫でてくれる。ハルもたちどころにハンカチを差し出してくれる。嗚咽混じりで謝辞を述べハンカチを受け取ると、遠慮なくそれを湿らせた。最近の私はこんな風に誰かに慰めてもらってばかりだな、と突然冷静になった頭で自嘲する。かといって、どうすればいいのかも分からない。
「少し落ち着いた?」
「うん…なんかごめんね」
「気にしないで。…実は、ちょっとゆき乃から聞いてるんだ。その…ゆき乃の好きな、不死川さん?だっけ、彼の話。それで、実はアイスにも少し相談してたの。ごめんね」
「え…」
 ハルが眉根を寄せて、申し訳なさそうに口を開く隣で、アイスも、ごめん、といった様子で掌を顔の前で合わせた。
「不死川さんが愛莉のことを好きだって聞いた。それで、愛莉が好きな煉獄さん?は、ゆき乃が好きなんだとも」
「本当に…どうしてそんな複雑なことになっちゃうんだろうね」
「そう、だったんだ」
 二人が私とゆき乃の置かれた状況を把握していたことに驚くも、嫌な感じはなかった。寧ろ、身を切り刻むように苦悩していた気持ちが、少しだけ楽になったような気すらした。
「愛莉ちゃんは今、どういう気持ちなの?」
「私は…本当に、どうしたら良いのか分からなくて。…これはゆき乃には言わないで欲しいんだけど…実は不死川さんと一緒に取材に行った夜…彼に突然…その……」
「その?」
 アイスとハルが身を乗り出してごくりと唾を呑み、続く言葉を興味深そうに待っている。
「その…突然…キスされてしまって…」
「えっ?突然」
「それって、その不死川さんが愛莉のことずっと好きだったってことかな」
「そんなこと…無いと思うんだけど。不死川さんから今までそんな素振り見せられたことは一度もなかったし。そもそも他部署で、関わることも少なかったし」
「いやいや、男が人を好きになる理由なんて単純だよ。ちょっと優しくされたから、とか、一途に思われたから…とか?愛莉ちゃん、何か思い当たる節あるの?」
「それが全然ないんだ。喫煙が身体に悪いから止めてくださいねって言ったくらいで。あ、あとは、出張の日に不死川さんのご兄弟がひきつけを起こしたって電話がかかってきたんだけど。ほら、二人も分かってると思うけど、私の家族って医療従事者が多いでしょ。だからたまたま対処方法を知ってたから、電話越しで指示したけど…でも、そのくらいで
「それだ!間違いなくそれだよ、愛莉ちゃん!」
 私の隣で、アイスがパチンと指を鳴らす。本当に?本当にそんな些細なことで。困惑がそのまま顔に現れていたのか、アイスが言葉を続ける。
「さっきも言ったけど、男っていうのは、女よりもずっと単純だから。直感で愛莉ちゃんのことを好きだ、って思っちゃったんだろうね。…それで?愛莉ちゃんはどうしたい?今の気持ちは?」
「…勿論、私の煉獄さんが好きな気持ちが変わることなんてない。でも、ゆき乃を好きな煉獄さんを好きだなんて言ったら、優しい彼をきっと困らせちゃう。本当はゆき乃とだって今まで通りの関係を続けたいよ。…そう思ってるはずなのに…この間は、なんとなく不死川さんに流されそうになっちゃうし。…私、最低だよね」
 自分に言い聞かせるよう収集のつかない思いを口にする。すると、アイスとハルが頷き合って、諭すように私に語り掛ける。
「最低なんかじゃないよ。…愛莉ちゃんの答えはちゃんと決まってるじゃん。煉獄さんが好き、それでいいんだよ」
「うん。ゆき乃は不死川さんが好きで、愛莉は煉獄さんが好き。二人の想いはちゃんと一本筋が通ってるんだから。二人は自分の気持ちに正直に進み続ければいいんだよ」
「そうそう。さっきも言ったけど、男って単純なの。私達女なんかよりもずっと。二人にぐいぐい来られたら、きっとコロッと落ちちゃうから」
「…そう、かな?」
 呆気に取られて熱弁する二人の話を聞いていたが、最後は口角が微かに上がっていたのを自覚する。親友という存在は本当に有難い。それはもちろんゆき乃も一緒だ。週が明けたら、ゆき乃とちゃんと話をしよう。お互いに腹を割ってとことん話し合おう。最初は苦しいかもしれない。でも、なんとかなる。そんな気がした。
「よし、じゃあ、乾杯し直そうか」
 笑みを零した私を見て、アイスが少しだけ声を張る。私達は再びグラスを持ち上げて、軽快な音を鳴らした。

 十八時の定時を知らせるチャイムがオフィスに鳴り響いてから、早くも三時間が経過しようとしていた。月曜日から残業をする人々は少ないようで、編集部のオフィスは残すところ私一人となっていた。
 ふと、自分の席から少し離れたデスクに視線を走らす。煉獄さんのデスクだ。窓際の彼の席は、今日はずっと空っぽで、初夏の陽を静かに浴びていた。煉獄さんは今日一日外出で、外出先から自宅に直帰するという話をチームのメンバーから聞いていた。煉獄さんに会えない日は少しだけ寂しい。でも、今の状況ではそれが少しだけ有難かった。
「やばっ…もうこんな時間。遅れちゃう遅れちゃう」
 腕時計に視線を移して目を瞠る。無意識に独り言を漏らしながら、慌ててデスクの上の書類を片してデスクトップの電源を落とした。
 ゆき乃と話がしたい、とメッセージを送ったのは、先日の定例会の直後だった。ゆき乃からは、可愛らしい絵文字が沢山並んだいつも通りの文面で、誘いを快諾する返信が来た。そこからゆき乃の真意を読み解くのは難しかった。
 ゆき乃の部署は丁度繁忙期にあたるようで、本日、二十一時に新館のロビーで待ち合わせ、会社の近くに店を構えるスペインバルに行くことになっていた。酒の力を借りるのもどうかと思ったが、今日の場には、会話の潤滑剤として必要な気がした。
 エレベーターで一階に降りると、女子トイレで簡単にメイクを直してから、すっかり人影の無くなった広々としたロビーへ足を向ける。すると絶妙なタイミングで、聞き知った声が耳に流れ込んできて、見知った二人の姿を視界に捉えた。
 頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚える。どくどくと激しく鼓動が脈打ち始め、全身の血の気が引いていく。指先が冷え、足が自分のものでないように硬直して、私は一人立ち竦む。
「一ノ瀬!そんな悲しそうな顔をしている君を…放っておけるわけがないだろう」
「嫌だっ、煉獄さん、離してっ…もう…私に構わないでください」
「その頼みは聞けん。俺は、君を好きだと伝えたはずだ。…一ノ瀬が辛い時は、傍にいてやりたいと思う。…やはり…俺では役不足か」
「ふぇっ…そんな言い方…ずるいです。…ずるいよぉ」
 泣きじゃくるゆき乃を、自分の胸に引き寄せる煉獄さん。その光景はまるで、ドラマのワンシーンを見ているようだった。視界が涙で滲んで、ぼやけて、何も見えなくなった。いや、もうこんな世界、何も見えない方がいい。
 煉獄さんは、もうとっくにゆき乃に気持ちを伝えていたんだ。アイスやハルは、男なんて単純だ、なんて言っていたけれど、そうは問屋が卸さない。私の入る隙は、もう一ミリも残されていないのかもしれない。
 涙のダムが崩壊する。煮えるような雫が頬を伝った。ああ、最近の私は本当に泣いてばかりな気がする。もう、足は動いた。私はそっと踵を返して、二人とは逆の方向に向かう。何処に行けばいいのだろう。目的地を考える前に、鉛のように重たい足は中庭へと向かっていた。
 人っ子一人いない夜の中庭の木々は、地面に埋め込まれたライトで明るく照らされていた。生ぬるい風が、梢の葉を揺らす音が耳に響く。鼻先を雨の匂いが掠めた。天を仰げば、空は厚い雲に覆われており、間もなく雨が降るのかもしれない、と思った矢先、頬に冷たいものを感じる。
 雨だ、と認識する前に、ぶちまけるような勢いで雨が降り始める。視界が、降り注ぐ水飛沫にけむってしまう。あっという間にびしょ濡れになった私の髪や頬から、冷たい水滴が滑り落ちる。屋内に避難しなければ、と思うのに、今度こそ足が動かない。戻ればゆき乃と煉獄さんに鉢合わせてしまうかもしれないから、とこの場に留まるよう脳が指令を出してくれているのかもしれない。
「…お前は、馬鹿か」
 呆れたような声が聞こえたかと思えば、容赦なく肌を刺していた水の矢が止まる。代わりに、ビニールが雨を弾く音に包まれる。顔を上げれば、眉根を寄せた不死川さんが私の頭上で、広げた傘を翳していた。
「し…なずがわ…さん…なんで…っ…なんで…」
 どうして私が辛い時、一番に見つけてくれる人はこの人なのだろうか。傍に居てくれるのはこの人なのだろうか。どうして、煉獄さんじゃないのだろうか。雨に混じって熱い涙が頬を濡らした。
「…俺が言ったこと、覚えてるよなァ?」
 押し殺すような低い声が鼓膜を震わせたかと思えば、私は不死川さんに抱き締められていた。ビニール傘が、ふわりと舞って地面に落ちる。
「っ…不死川さ…濡れちゃう…だめっ…」
「また煉獄のことで川谷が泣くようなことがあれば、俺は我慢しねぇと言ったはずだ」
「っ…でも…」
「覚悟は、出来てんだろ」
「不死川さっ…」
「出来てなくても、関係ねぇけどよォ」
 私の腰に巻き付いた手とは反対の手が、後頭部に回る。びっしょりと濡れた髪に大きな掌が差し込まれて、冷たくなった唇に熱い熱が落とされた。
「っ…はぁ…だめっ…私っ…」 
 突然のことで一瞬思考が停止するも、いやいやと首を振ってどうにかして不死川さんの唇から逃れようとする。しかし、彼は簡単に私を解放してはくれず、甘んじてその熱を、唇の感触を、受け入れるしかなかった。
「…はぁっ…はぁ…」
 漸く唇が離れた時は、お互い雨でずぶ濡れだった。それなのに、私達の身体は驚くほど熱い。
「川谷…お前が好きだ。…だからもう、お前の泣いた顔は見たくねぇ」
「不死川さん…っ」
「なぁ、川谷…俺にしとけ。…もう俺がお前を泣かせねぇから」
 悪魔の誘惑にも聞こえる不死川さんの声が耳に滲んだ。私の煉獄さんへの想いは、ゆき乃との友情は、この雨で、流されてしまったのかもしれない。

2021.6.15 written by cookie