二度あることは



 全身で溜息をついて、窓の外に広がる景色をぼんやりと眺める。果てしなく続く空は、暗澹とした私の気持ちにお似合いの曇天だった。
 本日いつも通りに出社した自分を褒めてやりたい。昨日の出来事を思い返せば、一日くらい休みを取っても文句は言われないはずだ。
 しかし、今日は煉獄さんが主体となって推し進めているプロジェクトの撮影の補佐に入る日であったから、彼へ迷惑をかけてしまうことを考えると、軍配は「休暇」でなく「出社」に上がった。
 ゆき乃が気になる煉獄さん、私に惚れたという不死川さん、不死川さんが好きなゆき乃。運命というものは残酷だ。どうして私達の気持ちは、こうも一方通行なのだろう。神様がちょっとだけ、矢印の方向を弄ってくれたらいいのに。
「川谷、あまり調子が良くないのか?」
 とことん仕事に集中出来ず、何度も小さな溜息を吐いては無意味にマウスをクリックしていると、背後で煉獄さんの声がする。私は瞬時に笑みを顔に貼り付けて、煉獄さんの方へと向き直る。
「れ、煉獄さん、お疲れ様です!私ですか?全然大丈夫です、元気いっぱいです…どうしてそんな」
「いや…俺の勘違いならいいのだが。今日の撮影中も元気がないように見えてな。昨日一ノ瀬と話しをしていた時も、いつもの君らしくなかったから、気になってしまってな」
「あ…すみません。ご心配をおかけして」
 普段であれば、私の些細な変化にも気づいてくれる上司に胸をときめかせていたことだろう。しかし、今は、煉獄さんの口から紡がれた「一ノ瀬」という言葉ばかりが気になって、心臓が掴まれたように全身がぎゅっと苦しくなる。
「川谷は頑張り過ぎる所があるからな。何かあったら、遠慮なく言ってくれ」
「はい…ありがとうございます。すみません…ご迷惑をおかけして」
「ふっ…君が何も言ってくれない方が余計に心配だ。仮にも川谷の上司なのだから、たまには頼ってくれ」
 憎たらしいほど爽やかな笑みを残して、煉獄さんは自席へと戻っていった。
――仮にも川谷の上司なのだから
 数秒前の煉獄さんの言葉が頭の中で木霊して、目頭がじわじわと熱くなる。私は煉獄さんの部下で、それ以上でもそれ以下でもないという現実を突きつけられたような気がして、殊更陰気な気持ちに拍車がかかる。
 今にも泣き出したい衝動に駆られたが、涙を堪えるのに全力を注ぎ下唇をぎゅっと噛み締める。涙は辛うじて零れなかったが、全身は小刻みに震えていた。

 本館にて午後一の打ち合わせを終えた私は、自部署に戻るためのエレベーターに乗り込んだ。編集部が入るフロアのボタンを押してから、壁に背を預けて天井を仰げば、大きな欠伸が一つ出た。
 昨日は殆ど眠ることが出来なかった私の体力はもう限界なのだが、残念なことに終業の定時時刻までは後数時間はある。大好きなコーヒーでも飲んで残りの時間を乗り切ろう。重たい身体を引き摺りながら、目的階に到着したエレベーターを降りて、自席に向かう前に自販機コーナーに立ち寄れば、昨日の悪夢のような出来事が再来する。
「煉獄さんは、どうして写真を仕事にしようと思ったんですか?」
「んー、好きなことが仕事になったという方が正しいだろうか。…俺にとってカメラや写真は空気みたいなものだからな。そこにあるのが当たり前で、離れることが出来ないのだ。だから、今こうしてこの会社で働けることに、感謝しなければいけないな」
「…煉獄さんて、社長直々にオファーされてうちの会社に来たってお聞きしましたよ。…そんな謙遜しなくていいのに」
「別に謙遜などしていないが」
「でも、煉獄さんの写真、素人目に見ても凄いっていうか…語彙力なくて申し訳ないですけど、とにかく人の心を動かすような写真ですよね。先日の星空の写真も凄く綺麗だったし」
「ふっ…そうか…ありがとう。やはり一ノ瀬は、素直で可愛らしいな」
 鼓膜に突き刺さるように響いたゆき乃と煉獄さんの楽しそうな声。視界に捉えた笑い合う二人の姿。耳を染めた大好きな人の整った横顔。
 今度は涙を堪えることが出来なかった。気づいた時には熱いものが瞼を膨らませて堰を切ったように溢れ出す。先ほど我慢した分も一緒に出て来てしまったかのような大洪水だ。
 私だって、煉獄さんの撮影した写真にどれだけ感銘を受けたか分からない。初めて見た彼の作品は、私に紛れもない希望の光を与えてくれた。私とゆき乃が違ったことは何?どうして煉獄さんは私じゃなくてゆき乃のことを見るの。私の方がずっと煉獄さんと一緒にいたはずなのに、どうして彼は私を見てくれないのだろう。
 ゆき乃は何も悪くないし、煉獄さんだって何も悪くないのに、不幸な運命に弄ばれているようなこの現実をどうしても受け止められず、醜い考え方ばかりしてしまう。ゆき乃が色目を使ったのではないか。煉獄さんはゆき乃の顔が好きだったのではないか。ああ、本当に嫌だ。こんな風にしか考えられない自分が、惨めで、消えたくなってくる。
 踵を返し、来た道を舞い戻ってエレベーターに乗り込みロビーまで降りる。気づけば私は、昨日不死川さんに連れて来られた中庭へ逃げるように駆け込んでいた。相変わらず空はどんよりとした雲が覆っており、沈鬱な気分を助長する。
「ふぇっ…ぇえんっ」
 中庭に人気が無いのをいいことに、崩れるようにベンチに腰を降ろすと子供みたいに声を上げて泣きじゃくる。打ち合わせ後でハンカチも持っていなかった私は、マスカラが手に付くのもお構いなしに手の甲で涙をごしごしと拭うも、中々涙は止まってくれない。昔からそう。私は本当に泣き虫。まるで赤子みたい。
「…いつまで泣いてんだよ」
 頭上で揺らいだ声に身体がびくんと跳ねる。顔を覆っていた掌をどけてゆっくりと顔を上げれば、目の前にはハンカチが差し出されていた。
「…不死川さん…なんで…っ……ぅぅっ…私のストーカーか何かなんですか…」
「そんな暇じゃねェ。…川谷が顔隠してエレベーターから降りるのが見えたから…気になって追いかけた。…悪ィかよ」
 不死川さんが、「受け取れ」というようにハンカチを押し付けるので、甘んじてそれを受け取った私は、几帳面に折りたたまれた布を遠慮なく涙で濡らした。
「ほら…もう泣くな。話…聞いてやるから」
 頭をぐしゃりとされてわしゃわしゃと掻き回される。優しくされると、ますます悲しみが加速して余計に涙が止まらなくなってしまう。心に燻っていた感情が爆ぜて、叫びに近いヒステリックな声となって私の口から飛び出てくる。
「もう嫌だっ…嫌なんです。煉獄さんは私の友達が好きで、その子は何も悪くないのに、イライラして腹立たしくなって、酷いことばかり思っちゃう。…なんで、なんで上手くいかないのぉ。私はずっとずっと、煉獄さんが好きだったのに…なんでっ…うぅっ」
 明日の私は、今この瞬間のことを死ぬほど後悔することだろう。いい歳をした大人が馬鹿みたい。たかだか失恋で仕事中に泣き喚いて上席に迷惑をかけて、死ぬほど恥ずかしいことをしている自覚はあるが、今の私は感情からの要求に付き従うことしか出来なかった。
 目の前で不死川さんが盛大に溜息を吐き、私の顎を掴んだ。俯いていた顔を強制的に上に向かされたかと思えば、端正な眉目が近づいてくる。
「なぁ…川谷、俺が今考えてること…分かるか?」
「っ…何っ…そんなの…ぅぅっ…分かりません……やだ…離して」
「…俺は今、猛烈に腹が立ってる。川谷をこんな風に泣かす煉獄にだ」
 不死川さんの三白眼がいつにも増して殺気立っているような気がした。
「あ…あのっ…しなず、がわさん…」
「…煉獄に悪気がないことは分かってる。…まぁ、単純に好きな女を泣かされてるから、いい気分がしねぇんだろうけどよォ」
 駆け引きなんて一切ない、愚直な言葉に全身を巡る血がドクンと音を立てる。好きって、やっぱり不死川さんは私のことを?
 なんで私なの。お願い。好きだなんて言わないで。親友であるゆき乃が、不死川さんを好きなんだよ。そんな風に言われたら、どうしたらいいか益々分からなくなってしまう。
「っ……私、不死川さんの気持ちには答えられない…」
「分かってるよ、昨日も同じ台詞聞いたからなァ」
 不死川さんが、さらに私の顔を自身に寄せた。熱い息が唇にかかるほど近い。また、キスされちゃう。そう思ってぎゅっと目を瞑ると、私の顎を掴んでいた手の感触が離れていく。恐る恐る目を開ければ、不死川さんが小さく息を吐いて、今度は大きな手で私の頭を大切そうに撫でた。
「…な、何なんですか…。もう、分かんない」
 私の震える声が言う。本当に訳が分からない。不死川さんの行動にも、自分の行動にも、だ。
 結果的に彼にキスされることは無かったが、前回の時と違って拒もうと思えば拒めたはずだ。今の私は甘んじてキスを受け入れようとはしなかったか。自分自身にさらに嫌気が差してくる。私って、こんなに流されやすい女だったっけ。
「…川谷、お前を困らせるつもりはねェが、もしまた煉獄のことで川谷が泣くようなことがあれば……今度は我慢しねぇからなァ。…覚悟しとけよ」
「っ…」
 不死川さんの真剣な眼差しに射抜かれて、沸騰したように顔が熱くなる。確実に赤面しているであろう顔を見られたくなくて、私は目の前の不死川さんを押しのけてベンチから立ち上がり、脱兎の如く中庭を後にした。

 あれから数日が経った。私自身が無意識に避けているのだろうか、社内でゆき乃に遭遇することはなく、私は心から安堵していた。ゆき乃の前で平静を装う自信なんて爪の先ほどもないのだから。
 昼食を摂る社員で賑わう社員食堂に近づけば、焼き立てのパンの香ばしい匂いが鼻孔に充満する。パンの焼ける匂いというのは、こんな状況に置かれていても、恐ろしいほど幸福な感じがするから不思議だ。
「あ、ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ――」
 お洒落なカフェテリアさながらの社員食堂に入り、メニューに視線を走らせながらトレーに手を伸ばすと、同じようにトレーを掴もうとしていた人の手とかち合ってしまい、慌てて謝罪の言葉を述べる。返って来た聞き知った声に、私は反射的に顔を上げてしまう。
「…愛莉…」
「…ゆき乃…」
 そこには、ゆき乃の姿があった。大きな目が、明らかに動揺を孕んでいた。それを見た私は、咄嗟に不死川さんとの最近のやりとりを思い出す。彼女は、ひょっとして何かを知っている?
「な、なんか久しぶりじゃない?あー、最近会社であんまり会わなかったね。ランチ、一人?」
 ゆき乃がいつもよりずっと上擦った声で私に言った。バランスよく上げられた口角が微かに震えている。無理やり笑みを顔に張り付けている、そんな作り物の笑顔だ。そしてゆき乃は、トレーを手に取りながら前髪を撫でた。
 ゆき乃は何かを隠している時、髪を触る癖がある。ゆき乃に会って気まずいのは私だけだと思っていた。でも、違う。ゆき乃に何があったの?何を知っているの?何を隠しているの?
「あ、うん。ゆき乃も一人?…あ、良かったら一緒にお昼――」
 冷静さを失わないようにと何度も自身に念じ、無理やり笑みを作って答えようとしたところで、タイミングよくゆき乃の首に掛けられた社内用のスマートフォンが鳴り響く。天の助けにも思えた無機質な着信音を数回聞いたところで、ゆき乃がごめんというように私に目配せして、スマートフォンの画面をタップした。
「あ…不死川主任…あ、はい…。はい…あ、今食堂なんですけど直ぐに戻ります。すみません」
 ゆき乃の唇から紡がれた「不死川主任」の単語に、全身に脂汗が滲む。もう無理やり笑うことすら出来ない私は、呆然と足元を見つめていた。
「ごめん、愛莉。鬼上司から呼び出し…。私、行くね!…また飲みに行こう!連絡する」
 耳元でゆき乃の声が揺らいで、咄嗟に顔を上げた時には、彼女は既に踵を返していた。彼女の言う「また」が、何故だか二度と訪れないような気がして、私は背筋が少しだけ寒くなった。
 漂ってくるパンの香に、もう幸福を感じることが出来なかった。 

2021.6.11 written by cookie