貴方の目に映る人



「っ…な、なんで…」
「…悪ィ」
 あの日、あの夜、それだけ言った不死川さんは、翌日も今までと何ら変わりなく私に接した。出張二日目、不死川さんに突然キスをされた事実はまるで私が見た夢だったのではないかと思うほど、彼の態度はいつも通りだった。
 大きな窓ガラス越しの日差しを右頬にもろに受けながら、私はぼんやりとデスクトップの画面を眺めていた。そこには、先日の出張で撮影した宿の写真が大きく映し出されており、考えまいと念じても、不死川さんの顔を嫌でも連想させた。そして、ゆき乃のことも。    
 不死川さんがどういうつもりで私にキスをしたのかは不明だが、彼を好きだと言っていたゆき乃に、一緒に頑張ろうと言ったゆき乃に、一体どんな顔をして会えば良いというのだろうか。私は悪いことなどしていないはずなのに、背徳感が拭えない。
 だめだ。全然集中出来ない。やれやれと頭を左右に振って、デスクトップに表示されているデジタル時計に視線を走らせれば、まだ定時の終業時刻までは三時間もある。額に手をあてて重い息を吐くと、私は席を立って広いオフィスのフロアの一画へと移動する。
 私の所属する編集の部署が入るこの新館は、古い造りの本館とは違い、海外の有名企業を真似たような造りとなっている。言ってしまえば「今時のお洒落なオフィス」。社員の働き易さをコンセプトに空間設計されており、眺望を活かしたワーキングスペースや、素晴らしいアイディアが生まれそうなガラス張りのミーティングスペースが特徴的である。
 人の心をリフレッシュさせる無垢の木材を壁面に使用したカフェスペースに来た私は、カウンターに設置されたセルフのエスプレッソマシンのボタンを押す。マシンのモーター音を聞きながら、大きく伸びをしてコップに注がれる液体を見つめていると、カフェの一番奥に設置されたスタンディングデスクの方から、聞き知った笑い声が聞こえる。これは、ゆき乃と煉獄さんの声だ。
「絶対に嫌です!私が星を眺めてる写真を入れるなんて…そんなの読者の誰が見たいんですか!」
「いや、読者層は女性だろう?実際に人物が映っている写真があった方が、イメージも沸きやすいと思ったのだが。それに一ノ瀬は写真映えする顔をしているしな」
「…た、確かに、煉獄さんが撮影してくれて、凄く綺麗に撮れてますけど…でも、ダメなものはダメです。今回は私の企画なので、決定権は私にありますから」
「ふっ、そうか。それは残念だな」
 肩を並べ、一つのラップトップの画面を二人で覗き込みながら、ゆき乃と煉獄さんは楽しそうに笑いあっていた。
 一瞬、思考が停止して、不死川さんの不可解なキスでいっぱいだった私の頭の中に刃物のような疑念が差し込まれる。どうしてゆき乃と煉獄さんがあんなに親しそうに話しているの?話の内容からして、勿論仕事の打ち合わせなのだろうが、二人の距離が急接近していると感じずにはいられなかった。ゆき乃は、先日まで煉獄さんの名前しか知らなかったはずなのに。それなのに今私の視界に映る二人は、まるで恋人同士みたいだった。
「あっ、愛莉!」
 胸いっぱいに灰が詰まっているような気分になって、視点が定まらない目で呆然と二人の姿を眺めていると、私に気づいたゆき乃の明るく可愛らしい声が鼓膜に流れ込んでくる。次の瞬間には、嬉しそうに顔を綻ばせて私の元に駆け寄ってくるゆき乃の姿が目に入った。
「お疲れ様」
「…ゆき乃…珍しいね。新館の方にいるなんて」
「そう、煉獄さんと例の私の企画の件で打ち合わせ。さっきデスク覗いたんだけど、愛莉、席外してたみたいだったからさ」
「ご、ごめん。多分トイレに行ってた時かな」
 ゆき乃を面と向かって見ることが出来ず、不自然に視線を泳がせながら言う。流石長い付き合いである。私の感情の機微を敏感に察知したゆき乃は小首を傾げ、「大丈夫?」と優しい声で私に問うた。
「な、なんで?全然大丈夫だよ。この時間、一番眠いからぼーっとしちゃって」
 口元に笑みを貼り付け必死に取り繕って言えば、ゆき乃は安堵したような息を吐いて笑ったあと、思い出したように私に耳打ちする。
「それなら良かった。あ、そうそう、今ね、今日仕事終わりに煉獄さんと飲みに行こうって話してたの。丁度愛莉も誘おうかって話が出たところで…一緒に行こうよ。ね、チャンスでしょ」
 ゆき乃はそう言って楽しそうに私にウインクする。きっと先日までの私であれば、彼女の誘いを二つ返事で了承したことだろう。しかし今の私はそれが出来ない。だって…。
「一ノ瀬と川谷は随分と親しい間柄だったのだな」
 二人の打ち合わせは終わったのか、ラップトップを折り畳んでこちらにゆっくり歩み寄ってきた煉獄さんが、太陽みたいに眩しい笑顔を溢す。いつもは私に幸福を運んできてくれるこの笑顔が、今日はどうしようもなく苦しい。
「そうですよ。この間言ったじゃないですか、愛莉とは二週に一度は飲みに行く間柄だって」
「ああ、そうだったな」
「あ、あの!…ごめんね、ゆき乃。さっきの飲みに行く話だけど、ちょっと今日は先約があって…私はいいから、楽しんできて」
 軽口を叩き合う二人のやり取りをこれ以上傍観し続けることは出来なかった。二人の会話を遮るように言うと、私は無理やり笑って踵を返し、逃げるようにその場を後にする。無意味とは分かりつつ、逸る気持ちで何度も何度もエレベーターのボタンを押して、漸く編集部のフロアに到着したそれに滑り込む。
 ロビー行きのボタンを押したとほぼ同時くらいに、瞬きした目から涙が零れて、頬を伝った。幸いなことにその空間は私一人きりで、込み上げてくる嗚咽を遠慮なく漏らす。
 私が返事を出来ない理由。流れる涙の理由。それは、煉獄さんの気持ちが手に取るように分かってしまったから。彼のことをこの半年間ずっと見て来た私には、朝飯前の芸当。
 ゆき乃は何も悪くない。人の気持ちを操作することなんて出来ないんだから。私は煉獄さんが好きで、でも煉獄さんは多分ゆき乃に惹かれている。ただ、それだけのこと。それだけのことなのに。煉獄さんと出会い、再び輝き始めた私の目に映る世界は、一瞬にして灰色のそれに変わってしまった。
 メイクが落ちてしまうことなど気にする余裕もなく、滂沱と流れる涙を手の甲でごしごしと拭っていると、エレベーターがロビーに到着する前にその動きを止めた。
 まずい。誰か乗ってくる。こんなに泣きじゃくっている姿を他人様に見せるなど、迷惑なことこの上ない。慌てて俯くと扉がゆっくりと開いて、人が乗り込んできた気配がした。そして、忘れかけていたもう一人の渦中の人物の声が鼓膜を震わせた。
「…川谷?」
 信じられない展開に、仰天して顔を上げる。どうして、彼がここに。ここは新館。営業部は本館のはずでしょう。
「し…なずがわ…さん…」
「…どうした?泣いてんのか?」
 どうしてこんな所に?と私が疑問を口にするよりも早く、不死川さんが訝し気な視線とともに私に問う。
「な、泣いてないです」
「いや、どう見ても泣いてんだろォ…何があった」
「何でもないです、ごめんなさい」
「おい、川谷」
「本当に、大丈夫ですから」
 終着点の見えない押し問答を続けているうちに、エレベーターはロビーに到着した。急いで不死川さんの横を通り過ぎようとすれば、容易に手首を掴まれてしまう。
「な…何ですか」
「つべこべ言わずついて来い」
「ちょ…不死川さん!」
 上擦った声がロビーに響いて、いくつかの好奇の目が向けられる。私ははっと口を噤んで、不死川さんの命令を甘んじて受け入れるしかなかった。だって、どうせ彼は私がここで騒いだ所で、この手を離してくれないだろうから。

「ほらよ…少し落ち着いたか?」
 不死川さんが、私の目の前に缶コーヒーを差し出してくれる。
「ありがとうございます…。すみません、心配かけたみたいで」
 不本意ながらも礼を述べ渋々それを受け取ると、プルタブを引いてから缶を口に傾ける。ほろ苦い珈琲の味が口内に染み渡る。
 不死川さんは、本館と新館を繋ぐ渡り廊下の丁度外側に位置する中庭に私を連れてきてくれた。連れてきれくれた、というよりは半ば強引に連れて来られたのだけれど。しかし、感情を優先してゆき乃と煉獄さんの前から逃亡した私の行先など当然ながら決まっていなかったわけで、そう考えると、想像以上に静かなこの場所に引っ張ってきてくれた不死川さんに感謝すべきなのかもしれない。冷静になる時間を与えて貰ったような気がした。
 入社して三年。この中庭に来るのは初めてだった。会社の建物は都市の中心に位置しているにも関わらず、ここだけはまるで別世界のように緑が溢れて、豊かな自然が潤いのある環境を演出していた。
 柔い風に吹かれた新緑の葉が擦れる音に耳を澄まし、私の気持ちとは対照的な碧空を仰ぎ見れば、徐々に冷静さを取り戻してくる。
「で…何があった」
 ベンチに腰掛ける私の前に立った不死川さんは、自身の缶コーヒーのプルタブを開けながら私に問う。不死川さんは、なにも嫌がらせでやっている訳ではないはずだ。きっと私のことを心配してくれている、と思いたい。
 しかし、先日彼から突然キスされた理由もよく分からないのに、自分の話をする気にもなれない。それよりも、不死川さんはどうして何事も無かったかのように振る舞えるのだろうか。そう考えると沸々と怒りが込み上げてきて、私は思わず強い口調で不死川さんに質問を返した。
「あのっ…私に質問する前に応えてください。二つあります。一つ目、なんで営業部の不死川さんが新館のフロアにいるんですか。二つ目。……この間の…あれ、どういうつもりですか」
「本館は分煙じゃねぇだろ。あそこで仕事してると吸いたくなるからこっちのサテライトオフィスにいたんだよ」
「え…」
 まだ禁煙が続いていたのか。私は意外すぎて思わず目を丸くする。
「もう一つの質問だが…あれは悪かったよ」
 決まりが悪そうに視線を逸らすと、不死川さんはコーヒーを喉に流し込んだ。液体を飲みこむ度に上下する喉仏が妙に色っぽくて、私は頬がほんのりと熱くなるのを自覚する。
「…そんな謝罪の言葉が聞きたいんじゃないです。…どういうつもりであんなことしたのかって聞いてるんです。…だって…キスですよ…キスって好きな人とするものですよ。それとも、私がそんなに軽そうな女に見えましたか」
 言葉にしているうちに余計に腹が立ってきて、つっけんどんな言い方になってしまう。
「…別に、軽い女だって思ってしたわけじゃねぇよ。…したかったからした。……俺が、お前に惚れたって言ったらどうする?」
「えっ…」
 空になったコーヒーの缶を投げ、少し離れた所に設置されたごみ箱に見事にシュートを決めた不死川さんは、射抜くような眼差しで私を見た。真剣な面持ちは冗談を言っているようには見えない。そもそもこの人が冗談を言うとも思えない。
「あ…あの…ごめんなさい。…私好きな人がいるので…もし不死川さんが本気で言って下さってるのなら、気持ちには答えられません」
「知ってる。煉獄だろ?」
「えっ…なんで知って…」
 思わず言葉を漏らした後に、はっとして口を噤む。
「普通分かんだろォ。取材の時、嬉しそうに話してたじゃねぇか」
「でも…煉獄さんなんて、私一言も…」
 不死川さんに自分の気持ちが筒抜けだったことに動揺したのも束の間、「煉獄」という単語を口にすれば、先ほどの二人のやり取りを思い出してしまい、途端に悄然とする。急に黙りこくった私に不死川さんが眉を顰める。
「…川谷?」
「…不死川さんは、私が煉獄さんを好きって聞いて、どう思いますか?」
「…どうした…急に」
「自分の好きな人に、好きな人がいたら…自分じゃない誰かが映っていたら…辛くて苦しい気持ちにならないんですか」
「…それが…川谷が泣いてた理由か?」
「え…」
 不死川さんは小さな溜息を吐いて私の隣に腰掛けると、優しい声音で言う。思わず首を捻って不死川さんの顔を見れば、大きな掌が後頭部に回されて、彼の端正な顔との距離をぐっと縮められていた。この間の夜みたいに、今にも触れてしまいそうな唇にどぎまぎしていると、不死川さんの熱い吐息が私の唇を掠めた。
「俺なら、全力でそいつを振り向かせる。…惚れた女は自分の手で幸せにしてやりてぇからなァ」
「っ…」
 麻薬のような甘い言葉は、私への宣戦布告のようにも聞こえた。それは…煉獄さんを好きという私を、振り向かせるということなのか。二の句が継げず、餌を待つ鯉のように口をぱくぱくしていると、可笑しそうに笑った不死川さんが、今度は耳元に形の良い唇を寄せた。
「煉獄が誰を好きだかしらねぇが…俺にとっては好都合だ。川谷に、付け入る隙があるってことだろォ?…煉獄に…感謝しねぇとな」
 低音が鼓膜に流れ込み、心臓がドクンと警鐘を鳴らすように音をたてた。そんなこちらの様子に満足そうな表情を浮かべると、不死川さんはぽんぽんと私の頭を叩いて立ち上がる。
「し、不死川さん!どうして…どうして私なんですか。…不死川さん、私のことなんて何とも思ってなかったですよね?なんで…」
 私の前から去ろうとする背中に向かって声を張れば、ゆっくりとこちらを振り返った不死川さんは優しい目で私を一瞥しただけで、質問の問いには答えることなくオフィスへと戻っていった。目は口ほどに物を言う、なんてことわざがあるけれど、不死川さんの言いたいことなんてこれではさっぱり分からない。
「……もう…本当に一体なんなの…」
 様々な感情が支離滅裂に入り乱れ、混乱を極める頭を抱えながら、私は一人言葉を漏らした。

2021.6.7 written by cookie