媼のたくらみ


 夢を見た。そこには、いつもの私の日常があった。
人がすし詰め状態の電車に揺られ都心の一等地に建つオフィスビルに出勤し、空間を意識した今風のお洒落なオフィスで働いているのは、私自身。隣で笑っているのは、私を「名前」と呼ぶのは、一体誰?声も顔かたちも「いつかのだれか」に似ている気がした。
 以前にどこかで見たことがあるような、それでいて初めてのような、奇妙な既視感を覚える夢だった。
――貴方は誰?
 そう訊ねようとした時、深い眠りの底から私を浮かび上がらせる声が聞こえてくる。
「――名前さん――名前さん」
 焦点が定まらない目が、私を覗き込むひささんの穏やかな表情を捉える。ぼんやりとした意識が徐々にクリアになって、私は眠気を押しのけて布団から飛び起きる。
「ひ、ひささん!あ、あれ、私」
 無意識に髪を撫で付け周囲に視線を巡らすと、そこは藤の花の家紋の家の私の自室だった。開け放たれた障子窓から、爽やかな朝の光がたっぷりと差し込んで、藤の花の甘い香りが漂っていた。
「よくお眠りになっていましたね」
「そ、そうみたいです。なんか久しぶりにぐっすり寝た感じがして」
「水柱様のお陰でしょうかねぇ」
 どこか楽しそうなひささんの言葉にはっとする。そうだ。私は昨日冨岡様の前で泣きじゃくって、抱き締められて――。
「あ…あの、冨岡様は」
昨晩のシーンがぱっと思い出され恥ずかしくなるも、間髪入れずに目の前のひささんに問う。
「早朝に出発されましたよ」
「そうですか…」
 そして、彼女の言葉に、風船の空気が抜けるように気持ちが萎んでいった。あからさまに落胆している自分に驚く。
 既に私の隣に彼の姿はなく、もうこの家を発ったことは明白だった。鬼殺隊の隊員が明日をも知れぬ身だということを、身をもって理解した今、再び冨岡様に再会出来るという保証はない。それを思うと、命を救ってもらったことだけでなく、昨夜の件も含めて、感謝の気持ちを伝えたかった。
「名前さんがぐっすり眠っているようでしたので、起こさないでくれと申し付かりました。宜しく伝えて欲しいとも言っておりましたよ」
「そうですか…。すみません。本来は鬼殺隊の皆さんをおもてなししなければいけない立場なのに」
 私のせいで、きっと冨岡様は昨晩まともに休むことが出来なかっただろう。彼は元々深い睡眠は取れないと言っていたし、次の任務に供えてしっかり静養して欲しかったのだが。
「水柱様もお休みになられていたようですよ」
眉間に皺を寄せた私の気持ちを見透かしたように、ひささんがゆっくりと立ち上がりながら言った。
「えっ?本当ですか?」
 弾かれたように顔を上げれば、彼女は目元の皺を深めて茶目っ気たっぷりに言った。
「名前さんのお傍にいると、水柱様も落ち着くのかもしれませんね。ずっと貴方を大切そうに抱き締められていましたよ。仲が宜しくていいことですね」
 おほほほほ、と上品な笑い声を残して、ひささんはゆっくり私の部屋を出ていった。恥ずかしくて、けれども嬉しくて、熱が集まってくる顔を暫く両掌で挟んでいた。
 そうすること数分、思い出したように布団から立ち上がり、私は支度に取り掛かり始める。まるで憑き物が落ちたように、身体からはエネルギーが溢れ出している気がした。今なら空も飛んでしまえそうだ。
 この日を境に、私の不眠は改善した。

 ひささんに遣いを頼まれたのは、それから二週間ほ経った日のことだった。季節は秋から冬へと移り変わろうとしていた。ほとんどの葉が落ちてしまった銀杏の木は随分寂しい姿になっていて、梢の向こうには、くまなく晴れ上がった水色の空が広がっていた。
 それにしても、と私は先程自分を送り出してくれたひささんの言葉を思い出し、首を捻りながら手中の地図を眺める。
――名前さん。地図に印を付けたこの場所で、ある人と待ち合わせをしております。ですが、ひさはもう足腰が弱っているので行くことが出来ません。その旨を伝えてもらえないでしょうか
 そう言って、ひささんは私に手書きの地図を手渡したのだ。
 ある人とは誰だろう。ひょっとすると、ひささんと昔恋仲にあった男性とか?だとしたら、彼女が来られないことを酷く残念がるのではないか。でも、ひささんと同い年くらいの男性だとしたら相当御高齢で、向こうも来られませんでしたということも有り得るかもしれない。
 そんな取り留めのない思考を巡らせながら、風に吹かれて足許で踊るように舞う落ち葉を眺めていると、視界の端に男性物の草履を捉える。同時に人の気配を感じ、待ち人が来たのだと顔を上げた私は、氷のように固まってしまう。
 そこに居たのは、ひささんと恋仲にあった男性でも、高齢者でもなく、冬の空のように透き通った瞳を見開く冨岡様だった。
「…名前?」
「な…なんで、冨岡様が…」
「俺は…ひさ殿に先日世話になった時、屋敷に忘れ物があったと便りを貰った…」
「私は…ひささんに人と待ち合わせをしているから代わりに行って欲しいと言われて…」
 言い終わらぬうちに、私達は合わせていた視線をぱっと逸らす。風に触れて冷たくなっていた頬が急速に熱を持つのを感じる。一方冨岡様も決まりが悪そうな表情を浮かべていた。
 ひささんが上品に笑う声が耳元で聞こえたような気がした。どうやら私達は、まんまと彼女に騙されてしまったらしい。
 沈黙が落ちる。体温を感じそうな距離で、二人きりでいることを嫌というほど感じさせるような沈黙だった。冨岡様と二人きりになったのはこれが初めてではないが、先日の件もあり、恥ずかしくてうまく彼の顔を見られない。
「……食事は済んでいるのか?」
「え?」
 沈黙を破ったのは、冨岡様だった。相変わらず感情が読み取り辛い声が耳元で揺らぎ、反射的に顔を上げてしまう。
「腹が減っているなら……付き合うか?」
「付き合うっていうのは、あの」
「…昼飯だ」
「つ、付き合います!連れて行って…欲しいです」
 言葉足らずも甚だしい冨岡様の耳朶が微かに赤く染まっていることに気が付き、私は上擦った声で威勢よく返事をする。
 これは所謂デートなのだろうか。いや、私が元居た世界でも男友達や同僚の男性とランチに行ったり飲みに行くことはあった。それと変わらない。変わらないはずなのに、胸の高鳴りを抑えることが出来ない。
 冨岡様も少なからず意識してくれているのだろうか。ほんのり染まった彼の耳朶を思い出し、「付いて来くるといい」と素っ気なく言って方向転換した彼の背中を慌てて追いかける。しかし存外浮かれていたのか、周囲をよく見ていなかった私は、前から歩いてきた集団と衝突した。
「きゃっ」
 バランスを保てなくなるような強い衝撃に思わず悲鳴のような声を漏らし、転倒をなんとか回避しようと脚に力を入れる。すると、大きな手に手首を掴まれ、強い力で引かれた。その手が冨岡様のものだと気が付いた時には、私の視界を彼の胸が覆っていた。案じるような声が頭上から降ってくる。
「大丈夫か?」
「大丈夫です、すみません。私が前をしっかり見てなくて」
「この時間は人も多い。気をつけて歩け」
「ごめんなさい…」
 冨岡様に触れられた手が熱い。心臓の鼓動が伝わってしまうのではないかと思うほど、どきどきして仕方がない。またまともに冨岡様の顔を見られなくなってしまった私の手を、今度は、彼は優しく引いて歩き出す。
「あ、あのっ…手…は…あのっ」
 男友達や男性の同僚とは手は繋がない。咄嗟に口から言葉が飛び出す。すると冨岡様は一度足を止め、バツが悪そうな顔をして私を振り返り、水滴が落ちるようにぽつりと呟く。
「……こちらの方が安全だ」
「は、はいっ!ありがとうございます」
 冨岡様の言葉を払い落すような勢いで返事をすると、彼もどこか安堵したように表情を緩めた。口元には微かに笑みが浮かんでいるような気がした。
 照れくさくて堪らないのに、自然と顔の筋肉が緩み、地面を蹴った自分の足は弾んでいた。