安心できる場所


 山の斜面から滑り落ちて怪我を負っただけでなく、鬼に襲われた私は冨岡様のお陰で九死に一生を得た。冨岡様に救われたところで私の意識は途絶えてしまったが、目が覚めてひささんから聞かされた話では、彼は直ぐに私を病院へと運び医師の診察を受けさせてくれ、この藤の花の家紋の家まで連れ帰ってきてくれたそうだ。
 有難くもあり、酷く情けなかった。そして、ひささんや冨岡様、切り火をして送り出していた隊士の皆に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 少し仕事で上手くいかなかった時、大好きだった恋人に振られた時、そんな些末なことで「死にたい」と口癖のようにぼやいていた自分を呪い殺したくなった。自分が実際鬼と遭遇した時、すぐ傍まで迫ってきていた「死」というものに途轍もない恐怖を感じた。結局私は口先だけで死ぬ覚悟なんて一ミリも出来ていないのだ。
 でも、冨岡様や隊士の皆は違う。命をかけて凶悪な鬼達に立ち向かっているのだ。どれほど勇気と覚悟がいることだろう。そして、そんな隊士を送り出すひささんの気持ちだって想像に難くない。毎回、隊士の無事を祈って心臓を絞られるような思いで彼らの背中を見送っているに違いない。自分が鬼に遭遇しなければ、きっと一生気が付くことはなかっただろう。
「名前さん、ご体調はいかがですか?入ってもよろしゅうございますか?」
 夕日が沈みかけ、薄暗くなった部屋の天井をぼんやりと見つめていると、障子の外からひささんの声がする。布団から身を起こし「勿論です」と即答すると、彼女がゆっくり障子を開けて私ににじり寄る。
「お夕食は召し上がれそうでしょうか?」
「…はい。少し、食べてみようと思います。…本当にすみません。ご迷惑をかけて。私…何の役にも立ててなくて」
 ひささんの優しい言葉に、情けなさで涙が滲む。
 冨岡様に助けられたあの日からもう二週間以上は経過しているというのに、私は床に伏したままだった。奇跡的に軽い打撲と脳震盪で済んだ身体は疾うに回復していた。しかし、夜寝ようと目を閉じるたび、鬼に襲われた恐怖が蘇り眠れなくなってしまうのだ。
 それだけではない。その後は決まって過呼吸のような症状が出現し動悸が激しくなる。所謂トラウマというやつだ。最近ではPTSDという言葉もよく耳にする。
 食事も十分に喉を通らず、心なしか頬がこけた私の目の下にはどす黒いクマが出来ており、その顔は鏡を見るのも躊躇われるほど酷いものだった。そしてこのタイミングで、いや、心身ともに弱っている今だからかもしれないが、元の世界に帰りたいという欲求が私を襲った。残してきた家族や友人に会いたかった。
「名前さん。辛い時は無理をなさらないでください。私のことはどうぞお気になさらず」
「ひささん…」
 涙ぐみながら彼女の名を呟くと、彼女は背後から湯飲みを乗せたお盆を移動させ、私に差し出した。
「…これは?」
「ショウガで作った飲み物にございます。身体が温まって睡眠にも良いと聞きましたよ」
 湯飲みを受け取ると、ショウガの独特の香りが鼻孔に広がり、それだけで体中が温かくなるような気がした。
「ありがとうございます。有難くいただきます」
 熱そうな湯気をたてる水面に何度か息を吹きかけた後、私は火傷してしまわぬよう慎重に湯飲みに口を付ける。微かな辛みに舌がぴりつき、柑橘系に近い香りがすうっと喉から鼻に抜けていく。
「美味しいです。…一口で体がぽかぽかしてきました」
「おほほ、それは良かったです。では、私は夕食の支度をして参りますので、ゆっくりお飲みになってください」
 安心したように微笑んだひささんはそう言い置いて部屋を出て言った。ただでこんな大きな屋敷に置いてもらっているのだから、せめて少しでも手伝いをすることで恩を返したかったのだが、これではただ飯食らいのでくの坊ではないか。自分がほとほと嫌になる。せめて今日はこのショウガ湯を飲んでしっかりと睡眠をとり、一日も早く復帰してひささんの役にたたなければ。
 私はもう一度湯飲みに息を吹きかけ、体に染み込ませるように時間をかけてそれを飲み干した。

 しかしその夜、結局私は眠りにつくことが出来なかった。唐突に眠気が襲い、ふっと意識を失いそうになることはあるのだが、その度に私を襲った鬼が瞼の裏に姿を現すのだ。
今、自分は安全な場所に居ると分かるのに、殺されるのではないかという恐怖に支配され、また徐々に呼吸が荒くなる。追従するように、心臓が口から飛び出してきそうほど激しい動悸がしてくる。
 こういう時は呼吸が浅くなっているため意識的に深い呼吸をするよう医者にも言われていた。ゆっくり吸ってはいてを繰り返すこと数分、漸く呼吸が落ち着きを取り戻したタイミングで、行燈だけ灯した薄暗い部屋の障子に二つの影が映るのが見えた。直後、ひささんの声が聞こえてくる。
「名前さん、まだお眠りになっておりませんか?」
「は、はい!すみません…やっぱり今日も眠れそうになくて」
「それはそれは。水柱様がお見えになっておりますが、お部屋にお通ししても問題ございませんか?」
 ひささんの言葉に目を見開く。冨岡様が私の見舞いに?この時間ということは、彼も任務帰りに藤の花の家紋の家に立ち寄ったのかもしれない。そのついでに、未だに病床に伏せる私を哀れに思って来てくれたに違いない。
 慌ててぼさぼさの髪を撫で付け、少しはだけた浴衣の前を合わせてから、「大丈夫です」と蚊の鳴くように呟いた。
 私の返事を確認すると、ゆっくりと襖が開く。そこにはお盆を抱えたひささんと、羽織を脱いだ隊服姿の冨岡様が立っていた。
「水柱様、ではこれを」
「ああ。すまないな」
「いいえ、では私はこれで。何かございましたら、何なりとお申し付けくださいまし」
「いや、俺もこの後は休む。ひさ殿も気にせずゆっくり休んでくれ」
「お気遣いありがとうございます」
 ひささんからお盆を受け取った冨岡様は気遣うように彼女に声をかけ襖を閉めると、足音を盗んで私に近づき、枕元に腰を降ろした。突然の彼の登場に当惑し言葉を発せないでいると、口数の多くない冨岡様が先に口火を切った。
「…眠れない日が続いているそうだな」
「え」
「ひさ殿が心配していた」
 どうして冨岡様がそれを知っているのかと問う前に、彼は補足した。冨岡様やひささんは立派に務めや使命を果たしているのに、床に臥せっ放しの自分が恥ずかしくて、じっと私を見つめる冨岡様から顔を背け、布団の上で丸めた拳に視線を落とす。
「すみません。本当に情けないことだと思うのですが…眠ろうとするたびに…先日鬼に襲われたシーンが蘇ってきてしまうんです」
「……すまなかった」
「な、なんで冨岡様が謝るんですか。冨岡様は私を助けてくれたのに」
「寛三郎を助けようとして足を滑らせたと聞いた」
 寛三郎とは誰だろう?と一瞬心の中で首を傾げるが、直ぐに冨岡様の鎹烏なのだと合点がいく。鬼殺隊の烏はおしゃべりが出来るから、彼に伝わってしまったのかもしれない。なんだか益々情けなくなってくる。それに結局私は寛三郎さんを助けられずに、冨岡様に助けられてしまったのだから。
「眠れない時は、これを飲むといいんだろ?ほっとみるく…と言っていたな」
 押し黙った私の目の前に湯飲みが差し出される。優しくて甘い匂いが鼻を突いた。
「これ…」
 湯飲みの白い水面を数秒見つめた後、冨岡様に視線を移す。すると彼は、表情の薄い端正な顔を微かに歪めて言葉を続ける。
「もう少し早く…名前が目覚めるよりも早く俺が到着出来ていたら…辛い思いをさせることはなかった。すまない」
「ち、違います!冨岡様が謝る必要なんてない。私は…冨岡様が来てくれなかったらきっと死んでいました」
「…鬼に会って正気を保てる人間の方が少ない。名前の反応は当然だ。…だから、情けなく思う必要などない」
「と…冨岡様」
 ガラス玉のように透き通った切れ長の目で真っ直ぐこちらを見つめながら、冨岡様は諭すように言った。美しい瞳に吸い込まれてしまいそう。一瞬そんな場違いなことを考えていると、冨岡様は私の手を持って、湯飲みを握らせた。触れられた彼の手に、心臓がぴょんと跳ねたのが分かる。
「飲めそうか?」
「あ、えっと、はい」
 冨岡様に促され、私は慌てて湯飲みに口を付けた。丁度良い温度と蜂蜜のほんのりした甘さに、波立つ心がゆっくりと静まっていくのを感じ、体の力が抜けていく。「美味しい」と言葉をぽろりと溢した私にどこか安堵した表情を浮かべた冨岡様にじっと見つめられていることが気恥しくて、急いで湯飲みの中を空にする。
「ご、ご馳走様でした。美味しかったです。あの…心配かけてすみません。もう大丈夫ですから、冨岡様もお休みになってください」
 頭を下げて言うも、冨岡様は動こうとしない。
「無理をしていないか?」
「む、無理だなんて…」
 頭の後ろのほうまで見透かされてしまいそうな眼差しは優しさが滲んでいた。すると、唐突に涙が突き上げてきて、瞼からぽろぽろと零れ落ちる。不安や寂しさや恐怖や、こちらの世界に来てから蓄積していたそれ以外の様々な感情が、一緒くたになって溢れ出してくるように涙が止まらない。
「名前。ゆっくり呼吸をすれば、大丈夫だ」
 刹那、胸から直接、声の響きを聞いた。
 呼吸が浅くなって苦しさに喘ぐような声が漏れた時、私は冨岡様の広い胸の中に引き寄せられていた。ホットミルク以上の温もりが、柔らかく私を包み込む。
「あのっ…冨岡様…」
 ゆっくり呼吸をするどころか、突然の恋人のような抱擁に、驚愕して呼吸が止まりそうになった。しかし、彼の胸に密着した頬から伝わってくる規則的な心臓の鼓動に、再び心身が落ち着きを取り戻していくのが分かる。
「ここに鬼はいない。だから…安心して休め」
「は…はい」
 蚊が鳴くように呟いた私の顔は、暗い部屋でも気づかれてしまうくらい真っ赤だろう。こんな状況、別の意味で緊張して眠ることが出来ないのではないか。
 けれども、そんな心配は杞憂に終わり、私は冨岡様の胸の中で、久しぶりに深い眠りに落ちていった。