嘘のような本当の話


 こちらの世界に来てふた月が経過し、すっかり山装う季節になった。道々の黄金色の銀杏の葉の間を秋風が潜り抜け、私の髪を揺らし頬を撫でた。
 どこかから香ってくる金木犀の匂いを肺に思いきり吸い込みながら、ふと、冨岡様を思い浮かべる。あの日以来、彼は藤の花の家紋の家を訪れてはいない。元気にしているだろうか。ひささんから聞いた話では、鬼狩りという仕事は常に死と隣り合わせなのだそうだ。世話をした隊士が任務に出発したその日に命を落とすことも少なくないという。
 鬼という存在は、やはり未だに信じられない部分がある。しかし、冨岡様が無事であればいいなと、思わずにはいられなかった。
「…なんか雲行きが怪しくなってきたな」
 頭上を見上げ、眉を顰めてぽつりと呟く。屋敷を出た時は抜けるように真っ青だった空を、今は灰色の雲が覆っていた。間もなく雨でも降り出してきそうな天気だ。元居た世界であれば、スマホのアプリでこの後の雲の動きを確認するところだ。しかし生憎私は、着の身着の儘この世界に辿り着いてしまったのだ。当然スマホなど持っていないため、荷物を握り直し、帰路を急いだ。
 今日は、ひささんの代わりに一人街へ買い物に出ていた。彼女に付いて何度か街に出たことがあった私は、心配するひささんに「私に任せて欲しい」と威勢よく言ってきたのだ。雨で足止めを食って帰宅時間が遅くなれば彼女も心配するだろう。高齢の彼女には心身の負荷をかけたくなかった。
 この小さな山を越えれば屋敷は間もなくだ。思ったようにスムーズに走れない着物に内心舌打ちをしながら、中心街から離れ徐々に細く寂しくなる一本道を進んでいると、道の端で小さな子供二人が蹲り、身を乗り出して山の斜面の下を見つめている姿が目に止まる。
「ちょっ、君達何してるの!こんなところで危ないよ。落っこちたらどうするの」
 山の入り口に建っていた民家の子だろうか。子供は頭が重いため少しでもバランスを崩せば容易に落下してしまう。私は慌てて二人に近寄り、着物の襟を引っ張った。
「だってー。烏が落っこちちゃったんだよ」
「え、烏?」
「うん、そうだよ。羽を怪我しててね、私達助けようと思ったんだよ」
「そっか。それは偉かったね」
 子供達の頭をよしよしと撫でて微笑むと、子供の一人が私の着物の袖を引き、興奮したように言う。
「それとね、それとね、普通の烏じゃないんだよ。しゃべるんだよ。本当だよ。おに、おに、って言ってた。僕、聞いたもん」
 しゃべる烏。今までの私なら、子供の可愛らしい空想だろうと微笑ましく思っていたことだろう。しかし、私はこのふた月で、しゃべる烏を嫌というほど見た。藤の花の家紋の家に泊まりにくる鬼殺隊士は皆、鎹烏というものを連れているのだ。子供達の言っていることは恐らく本当だろう。
「…うーん。この崖だと降りたら登るのは無理だよ。あの烏は意外としぶといと思うから、きっと大丈夫。暗くなると危ないから、もう帰ろう。ね?」
「でも、烏さん痛そうだったから可哀想だよ。助けなきゃ」
「うん、可哀想だよ」
 ただでさえ丸い瞳を銀杏の形に見開き、懇願するように子供達は言った。うっと言葉に詰まった私は観念したように長い長い息を吐き、もう一度彼らの頭を撫でた。
「よし、分かった!お姉ちゃんが責任持って烏さん見つけるって約束する。だから、君達はもう帰りなさい。お父さんやお母さんが心配するから」
「本当に?大丈夫?」
「本当本当。大丈夫に決まってるでしょ。お姉ちゃん、君達よりずっと大人なんだから」
「分かった!ありがとう」
 安心したような笑みを浮かべ去って行く子供達を見送ると、私は自分を鼓舞するように「よし」と声を出す。遣いの荷物を地面に置いてから着物の裾を持ち上げ、恐る恐る足場の悪い山の斜面に足を踏み入れた。
 近くの大きな太めの枝に捉まって、足を滑らせるようにして慎重に斜面を下っていくと、「カァーカァー」と弱弱しい声が聞こえてきた。落ち葉をバサバサと叩く濡羽色の羽が見える。間違いない。あの鎹烏だ。
 保護する対象を無事に見つけて安堵した私はほっと息を吐き、身体を少し捻る。しかしその瞬間、木の根に足がとられてずるりと滑りバランスを崩してしまった。咄嗟に捉まった枝も呆気なく折れてしまい、私は大きな石に身体を叩きつけて停止するまで、山の斜面を滑り続けた。
「嘘っ…烏…痛っ……」
 激痛で目を開けるのも困難だった。烏を救護するどころか、これでは自分が救護対象になってしまう。しかし、こんな場所に助けなどくるのだろうか。どうやら軽く後頭部も打ってしまったらしい。頭がぼーっとする。
「…え…こんな時に雨」
 頬を濡らす冷たいものを感じて、天に掌を剥けるとぽつぽつと雨が降り出した。泣きっ面に蜂とはまさにこのことだ。兎に角、大声を出して助けを呼ばなければ。そう思うのに、声は喉に閊えて出てこなかった。そのまま私は、意識を失っていた。

 次に目が覚めた時、私は目の前の光景に、喉を引き裂かれたように声を出すことも、上手く息をすることも出来なかった。視界を覆っていたのは、小学校の時に読んだ記憶のある妖怪図鑑や、遊園地のお化け屋敷で一度は目にしたことがあるような、顔に目をいくつも持った、化け物。裂けた口から覗く鋭い二本の牙が、降りしきる雨に濡れぎらりと光っていた。口の中からは、生暖かくぬるつく唾液がだらだらと零れ落ち、雨粒と一緒に私の顔や全身に降り注いだ。
 化け物が断末魔のような声を上げ、鋭い爪を生やした大きな手で私の首を掴む。水の中に閉じ込められたように苦しくて、息が出来なかった。
 これが、「鬼」なのだろう。藤の家の家紋の家で世話になり、鬼を討伐するという隊士達の世話をしていたにも関わらず、やはり私は鬼の存在を信じることが出来なかったのだ。だからこそ、ひささんのような気持ちで毎回隊士を送り出すことが出来なかった。どこか事務的に「御武運を」なんて一丁前なことを言っていた。冨岡様も、私よりずっと若い隊士の子達も、こんな化け物を相手にしているというのか。
 彼らに申し訳なかった。ひささんや、冨岡様や隊士の姿を近くで見ていながら、情けなかった。もっと危機感を持っていれば、こんな展開にはなっていなかったかもしれない。
 ごめんなさい。心の中で何度も謝罪し、ぎゅっと目を瞑り、死を覚悟した。
「――打ち潮っ」
 始めてこの地に来た時から、何度も聞いた声が鼓膜を震わせた。間違いない。冨岡様の声だ。私は幻聴を聞いているのだろうか。そう思った次の瞬間には、空気が一気に肺に流れ込んできた。焦点の定まらない瞳が、気道を圧迫していた手ごと、ぼろぼろと崩れていく鬼の姿を捉えた。
「名前!無事か?」
 目尻に涙を浮かべ喘ぐような呼吸をする私を抱きかかえてくれたのは、やはり冨岡様だった。あの夜みたいに、暗くて顔はよく見えなかったけれど、彼の声を、温もりを、私は覚えていた。
「はぁっ、はぁっ…あのっ、冨岡様…」
「もうしゃべるな。…かなり身体も冷えているな。すぐに医者へ連れていく」
「あのっ、私……ごめんなさい」
「何がだ?」
 しゃべるなと言われているのにしゃべり続けたせいか、冨岡様は少しイライラした様子だった。しかし、彼が助けに来てくれたことへの安堵で、私は止めることなく言葉を続けた。
「私……鬼なんていないんじゃないかって思ってたんです。冨岡様の話を聞いたのに、やっぱり現実味がなくて…。あんな凄惨な話を聞いておいて…本当、最低です…私。はぁっ、はぁっ…本当、迷惑かけて…ごめんなさい…」
「名前、大丈夫か?おい、…おいっ!」
 私が知っている冨岡様は、淡々として事務的で、冷静沈着。そんなイメージだった。しかし、薄れゆく意識の中で聞いた彼の声は、その印象とは正反対だった。