眠れぬ夜に

 私が住んでいた時代に当たり前に存在していた家電は、この時代にはなかった。氷で冷やすタイプの冷蔵庫で保管していた昨日の牛乳の余りを取り出し、火にかける。沸騰したらマグカップの代わりに湯飲みにそれを注いで、蜂蜜を投入しゆっくりとかき混ぜる。これで完成だ。
 甘くて優しい香りが鼻孔を擽り、それだけで口内に唾液が滲んでくる。
 ホットミルクを持って冨岡様の部屋へ戻ると、彼は読んでいた書物をパタンと閉じ、私が手にしていたお盆をじっと見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
「…それは何だ?」
「はい。これがホットミルクです」
「ほっと…」
「あ、えっと、単に温めた牛乳のことです」
 この時代の人に横文字は通じないことを思い出し、慌てて言い直してから、私は冨岡様の前に湯飲みを差し出した。どうやらまだ牛乳を温めて飲むという習慣がないようで――そもそも牛乳自体が一般的ではないようだ――、冨岡様は首を傾げて湯飲みを持ち上げた。
「これを、俺に飲めということか?」
「はい、そうです。温めた牛乳に蜂蜜を混ぜてあるんです」
「蜂蜜…」
「私も昔、眠れない日が続くことがあって。…その時、恩師が教えてくれた飲み物なんです。凄く美味しいですし、飲むと幸せな気持ちになりますし、眠くなりますよ」
 冨岡様は膜が張った湯飲みの水面を綺麗な瞳でじっと見つめていた。
「冨岡様はご存知ですか?人間は、危険を察知する機能が元々身体に備わっているんです。だから、不安や恐怖が強かったり過緊張の状態では、人は眠らないように出来ているんです」
 中々湯飲みに口を付けようとしない冨岡様に向かって、煩いかなと思いつつも私は蘊蓄を語り続けた。
「私は…実際に鬼に遭遇したことがないのでよく分からないのですが…冨岡様は鬼狩り様だから、いつ鬼が出てきても戦えるように眠れない…あ、眠らない?ということですよね。それだけ責任感が強い人なんだなって分かりましたけど。でも、先ほどもお伝えしましたが、睡眠って凄く大切なんです。不眠は人の命を奪います。ひささんから教えてもらいましたが、この家はどこよりも安全なんですよね?だったらせめて、この屋敷に居る時はしっかり眠ってください」
 冨岡様は虚をつかれたような表情で私を見て、また手中の湯飲みに視線を戻した。
「…あの、別に毒とかは入っていないので。…あ、ひょっとして牛乳嫌いでしたか?」
 まさか疑われている?私はただ冨岡様に眠って欲しかっただけなのだけれど。ふと不安になっておずおずと言えば、冨岡様は形の良い唇に薄っすらと笑みを浮かべた。一瞬、心臓が止まったような気がした。その一瞬だけ、目も心も奪われ自分のものではなくなった。彼は、こんなに美しく笑うんだ。
「別に毒が入っていると疑っていたわけでもないし、嫌いなわけでもない。…ただ、こういった物を口にするのも、そんな風に言われたこともなかったから…少し驚いている」
「え?」
「ありがとう」
 ぽつりと礼を述べた冨岡様は、ゆっくりと湯飲みに口を付けた。そして、眉を少し持ち上げて「…うまい」と意外そうに呟いた。
「ですよね?良かったです!」
 私は知らずうちに詰めていた息を吐いて、安堵の笑みを零す。「お代わりもありますから」と、調子に乗って声を弾ませれば、冨岡様は独り言のようにぽつりぽつりと語り始めた。
「……確かに俺は、眠ることが怖いのかもしれない。…自分が眠っている間に、鬼に多くの大切な人を殺された」
 冨岡様の口から唐突に紡がれた言葉に、私はなんと返していいか分からなかった。鬼を見たことがない私にとって、やはりその存在は荒唐無稽なものだ。しかし、目の前の青年が作る言葉に何一つ嘘はないように思えた。眠っている間に大切な人を殺された?彼は一体、どんな壮絶な人生を歩んできたというのだろうか。
「…あの、大切な人を…殺された…って?」
 こんなことを聞いていいのだろうかと思いつつも、私の口は無責任に言葉を紡ぐ。言い終えた後、まずいと咄嗟に口を噤むも、冨岡様は特段嫌がった様子を見せず、長い睫毛を瞳に被せ話を続けてくれた。
「…俺には姉がいた。姉は祝言の前夜…鬼から俺を庇って死んだ。俺は呑気に眠っていた。…朝になって目にしたのは、血に塗れた姉の死骸だった」
「っ…」
 彼の話は本当に現実に起こったことなのだろうか。惨すぎる話に、作り話なのではないかと疑ってしまう。
「その後天涯孤独となった俺は、ある少年と出会った。…強くて聡明な男だった。だが……そいつも、鬼殺隊の最終選別で、俺が気を失って眠っている間に鬼に殺された」
「うそっ…」
 淡々と話す冨岡様とは対照的に、私は顔を歪めて口に手をあてる。重苦しくなってしまった空気を解くように、彼は眉尻を少し下げ申し訳なさそうな顔をした。
「すまない。…必要のない話をした。忘れてくれ」
「そんな…私が聞いたんです。…あの、話してくださってありがとうございます」
 ありふれた言葉しか出てこなかった。辛いことを思い出させてしまっただろうか。こちらこそ申し訳ないことをした。ごめんなさいと消えるような声で謝ると、冨岡様はゆっくりと首を左右に振り、また口許を優しく綻ばせた。
「もう大丈夫だ。これのお陰で、今日は眠ることが出来るかもしれない。先ほども言ったが、今晩の見回りは不要だ。ゆっくり休め」
「だ、だめです。ちゃんと冨岡様が眠るまで見届けます」
「…なんだと?」
「多分…冨岡様みたいな人は、そう言いながら眠らないんです。だからさっきも言いましたけど、この屋敷にお泊りになっている間は、せめて眠ってください。私が見張りをしますから。もし…異変があったら、多分私の力ではどうにか出来ないと思いますので、その…冨岡様を起こさせていただくと思いますけど」
 偉そうに言った割には、結局最後は他力本願な私に、今度は冨岡様が息をするようにふっと笑った。
「…勿論だ」
「あ、ありがとうございます。…あ、そうだ!あの…」
 苦笑を浮かべ頬をかきながら礼を述べた私は、思い出したように大きな声を上げる。冨岡様にもう一度会ったら、一番に言わなければいけないことがあった。彼が想像以上のイケメンだった衝撃で、すっかり頭から抜け落ちていた。
「冨岡様…あの、今更になってしまいましたが、あの日の夜、私を助けていただいて本当にありがとうございました。冨岡様が助けて下さらなかったら、多分私はあの場所で死んでいたと思います。…これ、本当に大袈裟じゃないんです」
 畳に額を擦りつけるように頭を下げれば、冨岡様が「やめろ」と心苦しそうに言って、私の肩を押し上げた。
「そんな大袈裟に感謝されるようなことをしたつもりはない」
「…でも…」
「それより、何故お前はあんな妙な身なりで、あの場所にいた?」
「えっ…と…それは」
 私は言葉に窮する。実は別の世界で暮らしていて、気づいたらこの世界に迷い込んでいましたなんて言えるわけがない。
「…すまない。別に言いたくなければ言う必要はない」
 適切な言葉を探しているうちに、冨岡様は素気なく言って、また湯飲みに口を付けた。
 気を悪くしてしまっただろうか。心臓が小さな針で刺されたみたいにちくりと痛んだ。それを誤魔化すように、私は当たり障りのない会話を続けた。この人に、嫌われたくなかったのかもしれない。そして気づけば、私は冨岡様の部屋で朝を迎えていた。

 障子窓から差し込む朝の白い光が瞼を持ち上げた。目を開けた途端、視界を覆った端正な寝顔に思わず「ひっ」と色気のない声をあげ、まだ眠気がへばりついた頭で必死に状況を整理する。
 そうだ。私は昨日結局冨岡様と話をしているうちに、睡魔に抗えずに眠ってしまったんだ。身体には本来冨岡様が使うはずであった布団がかけられており、恐らく無意識であろうが、彼の腕が私の体に巻き付いていた。
 かっと頬が破裂するように熱くなり、布団から飛び起きる。その衝撃で隣で眠っていた冨岡様も目を覚ましてしまったようだ。眠そうな目を擦りゆっくりと身体を起こした冨岡様は、数秒の間を挟んだあと、状況を察したのか決まりが悪そうな表情を作って私から視線を逸らした。
「ご、ごめんなさいっ!私、昨日このまま眠ってしまったみたいで。あのっ、えっと、朝ご飯の支度があるので、これで失礼します!本当にすみませんでした」
 情けないくらい慌てた声で言って、はだけた浴衣の裾を踏んで転びそうになりながら、私は冨岡様の部屋の襖を勢いよく開ける。
 あー、もう。恥ずかしすぎる。何この朝チュンみたいな展開。あんなイケメンの前でだらしない寝顔を晒してしまうなんて。
「おい!」
 少し大きな声で呼び止められて、恐らく赤くなっているであろう頬を隠しながら恐る恐る冨岡様を振り返る。
「は…はい。なんでしょう」
「…名前…と言ったな」
 そういえば、冨岡様の前でひささんが私の名を呼ぶことはあっても、自己紹介はしていなかった。それなのに、私の名を覚えてくれていたことに嬉しくなって、浮足立つような気持ちになる。
「そうです。自己紹介が遅れて申し訳ありませんでした。…あの、私は、苗字名前と申します」
「美味かった。…この飲料も、鮭大根も」
「え?」
「昨晩の食事は名前が準備したと聞いた。…ありがとう」
 微かではあるが、口元を嬉しそうに綻ばせた冨岡様を見て、胸がきゅうと絞られたような切ない痛みがはしった。