恩人、再び


 完成した煮物のだし汁を手塩皿にとりそれを啜った私は、懐かしさを感じる味付けに目を見開き、背後でせっせと食事を食器に盛り付けていたひささんを振り返る。
「ひささん!先日教えていただいた通りに作ってみましたが…自分が作った物とは思えないほど美味しいです…自分で言うのもなんですが」
「おほほ。それは良かったです。どれ、私も味見をさせていただきましょうか」
 笑みを深め、準備の手を止めたひささんに、私は急いで手塩皿に煮物の汁を掬って彼女にそれを差し出した。
「本当、一度教えただけで良くここまで出来ましたね。これでしたら、今晩お泊りになる鬼狩り様もお喜びになるでしょう」
「本当ですか!良かった。ありがとうございます」
 ひささんのお墨付きをもらった私は声を弾ませる。この鮭大根が、今晩のメインディッシュになるのだそうだ。もし失敗でもしたら、ひささんに迷惑をかける所だった。しかしそんな心配は杞憂に終わり、彼女の言う通りに作った鮭大根は、頬が零れ落ちてしまいそうなくらい美味しくて、祖母を彷彿とさせる懐かしい味がした。ひささんは、只者ではない。再び食事の盛り付けを再開した彼女の横顔を見て、私は感服したようにひとり頷いていた。

 ひささんの言っていた鬼狩りである隊士が到着したのは、午後十時を回っていた。ひささんと一緒に玄関まで出迎えに行った私は、思わず息を呑み目を瞠った。玄関に立つ隊士である青年が、物凄くイケメン――この時代では美丈夫とでもいうのだろうか――だったから。それに、大正時代の平均身長はそこまで高くなかったと聞いたことがあったが、目の前に立つ青年は上背もあった。纏っている服の上からでも分かるほどに胸板は厚く、全身が鍛え上げられていることは容易に想像がついた。
 この時代にもこんなに素敵な人がいるのかと感心していると、目の前に立つ青年は、框に正座をし三つ指をつく私に視線を移して、ゆっくりと口を開いた。
「…ひさ殿の家で世話になっていたのか」
「え?」
 まるでこちらを知っている風な口ぶりに、驚きで目を丸くする。私に話しかけているのかと、思わず顔を上げて左右をキョロキョロと見まわしてしまったくらいだ。私にこんなイケメンの知り合いはいない。しかし、この抑揚の少ない声には聞き覚えがあった。
「水柱様、よくぞご無事で。さぁ、お疲れになったでしょう。どうぞおあがり下さいませ」
 はて、どこで聞いた声だったか?頭の中で記憶を辿っていると、隣で恭しく頭を下げていたひささんが口を開く。水柱様。確かに彼女はそう言った。
「……え、もしかして……あの夜、私を救ってくれた?」
 口を開いてから声が出るまで数秒の間が開く程驚いた。私はこんなにイケメンに助けられ、お姫様抱っこをしてもらったのか。
「名前さん。いかにも、この方は鬼殺隊最高位の柱であられる、冨岡義勇様にございますよ」
 面食らってぽかんとする私に、ひささんは丁寧に冨岡義勇様なる男性を紹介してくれ、彼を家に招き入れた。ひささんに名前を呼ばれ、夕食の準備をお願いしますと声をかけられるまで、私は年甲斐もなく彼の端正な横顔に目を奪われっぱなしだった。

 隊士の方がこの屋敷に宿泊する夜も、基本的に隊士達から呼ばれることがなければ、夜は休むようひささんに言われていた。この家に世話になり始めた時の頃は、彼女のその言葉を鵜呑みにし、隊士がいようがいまいが夜はしっかり睡眠をとっていた。しかし、ある日夜中に目が覚めトイレに起きた時、ひささんが数時間おきに屋敷を巡回していることを、私は知った。
 丈夫に見えるが、彼女はかなりの御高齢だ。夜は足許も暗いし転倒して骨折でもしたら大変であり、なにより夜はゆっくり休んでもらいたい。こんなこと――といったら失礼かもしれないが――は若者の仕事だろうと、私はひささんに自分が夜間の巡視をすることを申し出た。
 時刻は夜中の一時を回った。熟睡しないよう文机に突っ伏して仮眠をとっていた私は、控えめな音を立てる目覚まし時計を止め、むくりと起き上がる。火を灯した提灯を持ってゆっくりと部屋から出ると、縁側をなるべく音を立てないように歩く。
 ふと頭上を見上げれば、藍色の空が、息も詰まるほどの星屑で埋め尽くされていた。自分が住んでいた場所では、こんな風に綺麗な星は見えなかった。無数に輝く星のどれかに、私が元居た世界があるのだろうか。
 長い廊下の突き当たりを左に曲がって少し行けば、そこは冨岡様の寝室だ。部屋が近づくにつれ心臓がにわかに鼓動を速めた。自分を助けてくれた男があんなに美丈夫だと知ってしまったからだろうか。これが老人であれば、恐らくこんなに緊張はしないはずだ。
何度か深呼吸をしてから廊下の角を曲がる。こんな真夜中だ。てっきり冨岡様は熟睡しているものかと思ったが、彼の部屋からは皓皓と灯りが漏れていた。眠っていないのだろうか。それとも灯りを全て点けたまま寝てしまったのだろうか。はたまた、何か不測の事態でも起きたのだろうか。
 確認した方が良いだろうと思う一方で、男性の部屋を勝手に覗くなどプライバシーの侵害にならないかと不安になる。部屋の前で膝を突き、どうしたものかと首を捻っていると、ゆっくりと襖が開いた。
「…何か用か?」
 上から声が降ってくる。慌てて顔を上げれば、隊服から着物に着替えた冨岡様が私を見下ろしていた。着物が似合う男子選手権があれば、間違いなく上位に食い込むであろう彼の着物姿に一瞬目を奪われたが、僅かに寄せられた眉根を見て、私は慌てて居住まいを正し、弁明するように言葉を並べる。
「す、すみません。数時間置きの巡回に参りました。…冨岡様のお部屋の明かりが消えていなかったので、何かあったのかと思いまして…声を掛けようか、かけまいか迷っていました。…その、すみませんでした…」
 感情が読み取りにくい瞳が氷のように冷たく思えて、勢いよく切り出した言葉が、しまいには吐息のような弱々しい声になっていた。
「そうか、すまなかった。心配せずとも、俺は問題ない」
 少しびくびくしながら冨岡様の返答を待っていると、彼は思いのほか優しい声で言った。
「あ、そうですか。…あの、お休みにはならないのですか?もうかなり時間も遅いですけど」
「気にするな。俺は、夜は熟睡出来ない」
「えっ?夜に熟睡出来ないって、なんで」
 聞き捨てならない発言に思わず切り返す。睡眠は人間にとってとても大切なものだ。最近では不眠が様々な病気を引き起こすことも明らかになっていると先日ニュースで聞いたばかりだ。
「いつ鬼が出て来るか、分からないからな」
 冨岡様はぽつりと言う。「俺に構わずもう休め」と言葉を付け足し襖を閉めようとした冨岡様の手を、私は咄嗟に掴んだ。
「あ、あのっ!ちょっと待っててもらえますか。ホットミルク作って来ますから」
「は?ほっと…」
「私…その鬼殺隊とか柱とかよく分からないですけど、詰まるところ、冨岡様は管理職みたいな方なんですよね?上に立つ方こそ体調管理が大切なんですよ。睡眠不足は死亡率とも心の病気とも関係しているらしいし。…美容にも悪いし…折角そんなイケメンなのに。あ、これってセクハラ。…ごめんなさい!と、とにかく…ちょっと待っててください。直ぐに戻って来ますので」
 自分でも何故そんな突飛な行動をとったのか分からなかったが、面食らった様子の冨岡様へ諭すように言って、私は厨へ走った。静かな夜の屋敷に、ドタドタとした荒っぽい足音が響いた。