春方の朝に


 義勇さんの意識が戻らないまま、一週間が経過した。循環動態は安定しているとのことで、義勇さんが確かに顔色も良くまるで声をかければ直ぐにでも返事をしそうなのだが、伏せられた瞼が開くことはなかった。
 私がこの屋敷――ここは蝶屋敷というらしい――に来た時、病室まで案内してくれた少女はアオイさんといった。聞けば、まだ二十歳にも満たないそうだが、年齢よりもずっと大人びて見えるしっかり者だった。
 しっかり者と言えば、炭治郎くんの妹の禰豆子さんもまた、そうだった。蝶屋敷に来てから禰豆子さんとはすっかり仲良くなった。彼女が、毎日義勇さんの病室を訪れては、「目を覚ましますように」と一生懸命言葉をかけてくれるのだ。炭治郎くんも此度の戦で負傷し、まだ目を覚まさない状況のようだが、本当に強い子供達だと頭が下がる思いだった。
 それ以外にも、中々目を覚まさぬ義勇さんの元を訪れる人々もいて、彼が鬼殺隊の柱として多くの人に慕われていたことを、今回私は知ることとなった。禰豆子さんは、義勇さんのことを命の恩人だとしきりに言っていた。なんでも鬼になってしまった彼女を生かしてくれたのは義勇さんの判断と計らいだったようだ。
「…義勇さんは、色んな人に好かれていたんですね」
 義勇さんの綺麗な顔をそっと撫で、花びらが落ちるように呟く。
今日も義勇さんが目覚めないまま、一日が終わろうとしていた。夜を迎えた蝶屋敷は昼間の喧騒が嘘のようにしんと静まりかえっており、空に瞬く星の音が今にも聞こえてきそうだった。
少しだけ開いた窓から吹き込む風がカーテンを揺らす。春だというのに、夜気は随分冷たく感じた。
「早く…目を覚ましてくださいね。こんなに沢山の人が…待っくれているんですから」
 床頭台に積み上げられた見舞いの品の数々にちらりと視線をやって、再び義勇さんを見つめる。熟睡出来ない日が続き疲れているせいなのか、義勇さんがこのまま一生目を覚まさないのではないかという恐怖からなのか、私の声は微かに震え涙に潤んでいた。
 眦に溜まった熱いものを人差し指で拭ってから、「おやすみなさい」と彼の額に祈りをこめるようにキスを落とす。窓を閉め戸締りを確認してから、ゆっくり病室を出ようとした。わざわざアオイさんが私のために用意してくれた寝室用の別室へ向かうためだ。
 しかしその刹那、私は弾かれたように背後を振り返る。
――名前
 懐かしい声が、愛しくて堪らない人の声が、私の名前を紡いだから
「ぎ、義勇さんっ!」
 慌てて寝台へ駆け戻るも、義勇さんは先程と変わらない表情で、規則正しい呼吸を繰り返していた。なんだ、空耳か。毎日義勇さんのことを考えすぎて、ついに幻聴まで聞こえるようになってしまったのか。自嘲気味に唇を歪め、もう一度義勇さんの頬に触れれば、そこは微かに濡れていた。
 それが義勇さんの瞳から流れる涙なのだと気づいた時には、私の目からも大粒の涙が零れ、雨降りのような音を立てて布団に落ちる。
「義勇さんっ…私は、私はここに居ますから…。ずっと…貴方の傍にいるから。だから、泣かなくても大丈夫です。っ…ぎゆ…う…さん」
 義勇さんの左手を自身の両手で強く握りしめる。耳が塞がれたかと思うほど静かな病室に、私の嗚咽が木霊するも、義勇さんが再び、私の名を呼ぶことはなかった、
そして、暫く彼の布団に顔を埋めて泣き続けた私は、いつのまにか眠りに落ちてしまっていた。

 私は、オフィスの階段を全速力で駆け下りていた。残りはあと三段というところで、高いヒールが見事に階段を踏み外す。転ぶ。そう思って咄嗟に目を瞑った時、体がびくっと震えて、ハッと目が覚めた。
 一瞬自分が何処にいるか分からず、布団に埋めていた顔を慌てて上げてきょろきょろと周囲を見渡せば、黎明の微光がカーテンの隙間から差し込み、その隙間から見える木の枝で雀が囀っているのが目に入る。
 ああ、此処は蝶屋敷の病室だ。私は、昨日義勇さんの病室でそのまま眠ってしまったんだ。
 慌てて丸椅子から立ち上がろうとすると、ばさりと掛物が背中から滑り落ち、それを目にした私は驚きに目を見開く。床に落ちたのは、禰豆子さんが義勇さんのためにと一生懸命直してくれた彼の羽織だったからだ。
 どうしてこれが私の背中に?アオイさんが夜中にやってきてかけてくれたのだろうか。そっと羽織を拾い上げ首を捻った間合いで、春風のような優しい声が、私の鼓膜をそっと震わせた。
「――目が覚めたか」
 導かれるように、ゆっくりと声の方に顔を向ける。心臓が全身を叩くようにばくばくと脈打ち始める。
「…ぎ、義勇さん…っ」
「随分心配をかけたようですまなかった。…名前」
 上半身を起こして柵に凭れかかり、目を細めて私を愛しそうに見つめていたのは、義勇さんだった。昨日まで屍のように寝台に横たわっているだけだった彼が、私の名を呼ぶ。そして彼の左手が、驚愕で置物のようにぴくりとも動かない私の手を掴んだ。
 状況を認識するよりも早く、堰を切ったように涙が噴き零れてくる。そして義勇さんが私の手を引いたのと、私が義勇さんの胸の中に飛び込む瞬間は、ほぼ同時だったのではなかろうか。
「目が覚めたかって…っ、それっ、それは私の台詞です…いつ…いつ目が覚めて」
「数時間前だ。蝶屋敷の者は承知している。…名前が随分熟睡していたようだったので起こさずにいた」
「なんですぐに起こしてくれないんですが…馬鹿…っ、義勇さん…義勇さん、おかえりなさいっ…良かった、本当に…」
「…名前」
 義勇さんの胸に泣きつく私を彼はしっかりと受け止め、左腕を背中に回してそっと抱きしめてくれた。
「義勇さん…もうっ、このまま目が覚めないんじゃないかって…っ、凄く不安で…っぅ。生きていてくれるだけでも…幸せなことなのに。義勇さんにまた…抱きしめて欲しいって…」
 咽び泣き、涙でぐちゃぐちゃになった顔で義勇さんを見上げる。すると彼は少し困ったような笑みを浮かべ、背中に回していた手を私の頬に移動させて、涙を拭ってくれる。
「…ありがとう。俺のような者を…待っていてくれて」
「義勇さん以外、誰を待つっていうんですか。…ふぇぇっ、義勇さん、義勇さんっ」
 病み上がりの彼にお構いなしにベッドへ身を乗り出し、義勇さんを力いっぱい抱きしめる。彼も私の髪を優しく撫でてくれたが、結っていた髪に差し込んでいた飾り櫛に触れた時、ぴたりと手を止めた。そこで、願掛けするように櫛を肌身離さず着けていたことを思い出し、真っ赤な目で義勇さんを見る。
「あっ、あの…この櫛、アオイさんが渡してくれて…てっきり義勇さんが私にって…」
 自分に贈られた品でなかった場合は、恥ずかしいどころの話ではない。慌てて言う私に、義勇さんはその事実に間違いはないというように小さく頷いて、酷く真剣な面持ちでゆっくりと口を開いた。
「名前…少し話がある」
 私達の幸せな未来の話をするにしては、重々しい口調だった。義勇さんの秀麗な顔が、一瞬翳ったのは気のせいではないだろう。胸を不穏な風が吹き抜けていく。
「義勇さん…そ、そんな深刻な顔をしてどうしたんですか。だって…鬼は、鬼は居なくなったんですよね?これ以上何か…」
「ああ、鬼はもういない。俺達人間の勝ちだ」
「それならどうして…」
「…名前…俺は…二十五の歳を迎える前に死ぬことになるかもしれない」
 義勇さんの口から紡がれた残酷な宣告に、私は暫く言葉を失った。握りしめた拳の中でジワリと汗が滲む。
「ど…どういう、ことですか」
「…俺は…上弦の鬼との戦いの中で『痣』が出現した」
「あ…あざ?」
 思わずその文言を繰り返す。痣がなんだというのだ。訳が分からず説明を求めるように義勇さんを見る。この数十分の間に予想外のことが起こり過ぎて、頭と心の整理が追いつかない。
「仔細は分からないが、とにかく痣を出現させた人間は二十五までは生きられないということだけ分かっている。一時的に戦闘力を高めるため、身体に大きな負荷がかかることが原因のようだ。…命の前借、という表現をする者もいる」
「命の前借…そんな…だって義勇さんは…今こうして生きていて、私と話をしてて…そんな、そんな話…」
 声と体を震わせる私を落ち着かせるように、義勇さんはゆっくり髪を撫でてくれる。彼の体温が掌から伝わってくる。この温もりがそんなに若くして失われてしまうなんて、到底信じることは出来ない。
「だが…実際に亡くなった者を俺はこの目で見た訳ではない。…そうならない可能性もある。だが…真実は誰も分からない。生きることが出来るかもしれないし、死ぬことになるかもしれない」
 そこまで言うと、義勇さんは言葉を切った。そして、一瞬も目を逸らすことなく私を見つめ、少し大きめに息を吸い込んでから、再びゆっくりと言葉を紡いでいく。
「名前。もし名前がこんな俺でも良いと言ってくれるのなら…俺と夫婦になって欲しい」
「義勇さ…」
「片腕を失った俺は…もう名前を満足に抱きしめることも出来なければ、迷惑をかけることになるかもしれない。…それでも…それでも名前が――」
 義勇さんの言葉の続きを、私は自分の唇を彼のそれに押し付けることで強引に封じた。瞼から溢れる涙で義勇さんがぼやけてよく見えなかったが、彼のガラス玉のような美しい双眸は大きく見開かれているのが分かった。
「…私が、私がそんな理由で義勇さんを拒むと思いますか」
 唇を離し、義勇さんの顔を両手で包み込みながらコツンと額を合わせる
「名前…」
「…以前私は義勇さんに、一緒にいることが出来るならその時間を大切にすべきだと言いました。もし私が義勇さんの元から居なくなることがあっても、貴方の胸の中に居座り続けると…そうも言いました。でも…本当はとても怖いんです。義勇さんを失うことも、いつか元の世界に自分が戻ってしまうことも」
 涙は枯れずに止めどなく溢れてくる。義勇さんは何度も名前と名を呼びながら、私の後頭部に手を回した。もう唇が触れ合ってしまいそうなくらいの近距離で、私達は見つめ合う。
「だからって…義勇さんに出会わなければよかったなんて、義勇さんの存在を知らなければよかったなんて、少しも思いません。それに、明日のことが分からないのは私達だけじゃないです。人間はみんなそうです、誰も未来なんて分からない。そう思ったら、私達は他の人達と何も変わりません」
「ああ…名前の言う通りだな…」
 涙に潤んで震える声に精一杯の想いを込めると、表情を緩めた義勇さんの視線が優しく私を包む。
「私は…私は義勇さんとこれからもずっと一緒にいたい。もう一瞬も…離れたくないです。義勇さんは…本当に、本当に私でいいんですか」
「愚問だ。これが…」
 そう言って義勇さんはおもむろに私の髪を飾る櫛に触れる。
「これが俺の気持ちだ。名前、愛している。これからも俺と共に生きて欲しい。…受け取ってくれるか?」
「っ…もう、受け取って勝手に…着けてるんですけど…」
 頬に貼り付いた涙を擦って泣き笑いながら言う私を、義勇さんは極上に優しい瞳で見つめてくれる。そして、端正な顔を少しだけ持ち上げた。今にも触れそうだった私達の唇が合わさって、それは暫く、離れることはなかった。