温もり


 義勇さんが去ってからかなりの時間が経過したが、私はその場から動けずにいた。力なく地面にへたりこみ、頬を転がるように伝う涙を拭うこともせず、骨が折れるくらい両手を握り合せた。憎たらしいほど明るい月に、ただ祈ることしか出来ない。
 どうか、どうか、義勇さんを守ってください。死なせないでください。
 先程の寛三郎さんの聞いたこともない不穏な鳴き声や、義勇さんの険相を見れば、これまでの比にならない大きな戦いが始まることは、鬼殺隊でない私にも容易に想像がついた。
「――名前さん」
 月明かりと一緒に柔らかな声が降り注ぎ、嵐のように吹き荒れる心を落ち着かせてくれる手の温もりを、肩のあたりに感じる。
 首を捻り、涙でぐしゃぐしゃになった顔を声の方に向ければ、案じるように私を見つめるひささんの姿があった。帰りが遅い私を心配して出てきてくれたのかもしれない。
「っ…ぅっ…ひささん…っ…義勇さんが…戦いにっ…ぅっ…なんか…っ、いつもと全然違って…っ…」
 縋るように、ひささんの胸に顔を埋める。
「名前さん、大丈夫です。大丈夫。水柱様はきっと無事に還ってきてくれますよ。名前さんの元に。とても強いお方ですから」
 しゃくりあげるほど泣き続ける私の背中を、ひささんは子供をあやす様に優しくさすってくれた。
「でもっ…でも、柱の皆さんが束になっても敵わない鬼もっ…居るんですよね…そしたらっ…義勇さんだって」
 熱い涙が瞼から噴き零れて止まらない。空恐ろしさに声を震わせ、ひささんの胸の中で叫ぶように言うも、彼女は私のように取り乱したりすることはせず、落ち着いた優しい声音でぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「名前さん。私は、貴方がこの屋敷に来るずっと前から水柱様のことを存じ上げているのですよ。もうこんな老婆です。それこそ、水柱様がお生まれになる前から鬼狩り様の世話をしております」
「…ひささん?」
 ひささんの言葉の意図が分からず真っ赤な目を擦って彼女を見れば、口元に刻まれた優しい皺がゆっくりと深まっていく。
「水柱様は本当にお変わりになりました。あんなに柔らかい方ではなかったですよ。名前さんが、水柱様を変えたのでしょう?」
「え…」
「これでも無駄に長く生きているわけではないのです。どの鬼狩り様もそうです。いえ、鬼狩り様でなくとも一緒です。守る人がいる、大切な人がいるだけで、人は強くなれるのですよ」
――守るべき人がいるというのは大切なことだ。そしてそれは、大きな力になる
 あの日の、煉獄さんの言葉が蘇る。
――義勇さんが居てくれると思うと、自分のここが凄く温かくなるんです。義勇さんのことを考えるだけで、自分も頑張ろうって思えるんです
 そしてそれは、私自身が義勇さんに伝えた言葉。私が彼を信じなくてどうするのだ。
「っ…ひささん…。私、信じてます。義勇さんが、義勇さんが絶対無事に戻ってきてくれるって」
「ええ、そうですよ。大丈夫です、名前さん。私達は、信じて待ちましょう」
 本当に自分の祖母みたいな温かさだった。私はゆっくり首肯して、彼女の沢山の皺が刻まれた小さく頼もしい手をとった。

 日を跨いで既に二時間が経過した。普段であれば夢を見る隙もないほど深い眠りについている時間だ。しかし、今晩だけはどうしても眠ることが出来ない。
 カチカチと壁掛け時計が時間を刻む。刻一刻と朝は近づいているはずなのに、まるで永遠のように夜が長く感じる。
「ひささん…私が…この世界の住人ではないと言ったら、驚きますか?」
 広々とした居間で体育座りをし、いつか義勇さんにも作ったホットミルクのカップを両手で包みながら、雨粒が落ちるみたいにぽつりと呟いた。自分でもどうしてこんなことを口にしたのかは分からないが、彼女には知っていて欲しかった。嘘偽りない自分を受け入れて欲しかった。
 ちらりとひささんを盗み見れば、彼女は表情を変えることもなく、裁縫の手も止めなかった。続きを話してもいいということだろうか。私は少し声を固くして言葉を続けた。
「…実は、義勇さんに連れられて初めてこの屋敷に来た時…私は、突然自分がそれまで住んでいた世界から、こちらの世界に来てしまったんです。この大正時代よりもずっと後世の未来で、当然鬼も居なくて、文明機器も発展していて、とても住みやすい世の中でした」
 ここまで一息に言うも、ひささんは相変わらず針を動かす手を止めない。彼女は難聴ではないはずだから、聞こえていない訳はない。呆れられてしまっただろうか。頭のおかしい奴と思われてしまっただろうか。義勇さんのように、誰もがその事実を受け入れてくれると過信してしまった自分を後悔する。
「…なんて…そんなこと言われても意味が分からないですよね。忘れてください。ちょっと今日は頭が混乱してて、変なこと言ってますね、私」
 誤魔化すように言うと、ひささんがぴたりと手を止めゆっくりと顔を上げる。優しさを滲ませた瞳と目が合った。心なしか、それは涙で潤んでいるようにも見えた。
「…さぞ、心細かったでしょうね」
「え?」
「見知らぬ地に独り放り込まれて、ご家族やご友人とも離れて、本当に辛かったでしょう」
「ひささんっ…」
 彼女の言葉に漸く止まった涙がまた湧き上がってくる。私は精一杯首を横に振る。
「最初は心細かったです。…っ、でも、ひささんが本当のおばあちゃんみたいに優しくしてくれたから、私は、私は本当に嬉しかったし、寂しくなかった。ひささん…本当にありがとうございます。こんな私の面倒を見てくれて。信じてくれて」
「それはこちらの台詞ですよ。名前さんが来てから、本当にこの屋敷は賑やかに、華やかになりましたから。名前さんを楽しみにやってくる鬼狩り様も少なくなかったと思います。水柱様を筆頭に」
「そ、そんなこと…」
 そんな訳はないと思いつつ、少し照れ臭くて下唇を噛む。涙に濡れたそれは塩水のようにしょっぱかった。
「私も名前さんを本当の孫みたいに思っています。出来ればずっとこちらの世界に居て欲しいものです。願わくは、水柱様と幸せになる貴方も見届けたいですねぇ」
 ひささんの言葉に、二の句が継げなかった。洪水のように流れる涙と嗚咽を止めることが出来なかったから。そんな私を見て困ったように笑った彼女は、ゆっくりと立ち上がり半纏を肩にかけてくれる。
「さぁ、名前さん。少しお休みになってください。今日はお疲れになったでしょう」
 子守歌のように響く声が、急速に眠気を誘う。義勇さんが生死を賭けた戦いをしているというのに呑気なものだ。しかし彼女の言葉は、義勇さんの胸の中みたいに温かくて、私はいつの間にか重くなった瞼の上下を合わせていた。

 また夢を見た。夢というものは、どんなに強烈な印象を持っていても目が覚めた途端にその内容は曖昧になり、数分も経たぬうちに忘れてしまう。
しかし、この場面には既視感を覚える。明るい陽の光が差し込む広々とした開放的なオフィス。緑化した心休まる空間。そこで働く同僚達。零れる笑顔。
 私に笑いかけるのは、誰?その輪郭が徐々にはっきりしてくる。
「――名前さん!名前さん!」
「ひ、ひささんっ!あ、私結局眠ってしまって」
 鼓膜にびんびんと響いた声で跳ね起きる。どうやらあのまま居間で眠ってしまったようだ。半開きの目をごしごしと擦ってひささんを見れば、彼女は目を真っ赤に腫らし涙を流していた。手には一通の文が握られており、彼女の肩には一羽の鎹鴉がとまっていた。
「な…何かあって…」
 緊張が稲妻のように全身を貫く。強張った頬と唇を震わせながら恐る恐る口を開けば、ひささんは満開の桜のような笑顔を見せた。
「終わりましたよ、名前さん。全部。…鬼狩り様達の勝利です」
「っ…嘘っ!」
 それがどんなに凄いことなのか、きっと私はひささんや当人達の百分の一も分かっていないだろう。しかし、自然と涙が溢れた。
「あっ、あの…っ、義勇さんは、義勇さんは無事なんですか?」
 ひささんに掴みかかる勢いで尋ねる私に、彼女はゆっくりと首肯した。一気に体の力が抜けていき安堵に包まれる。しかしその直後、ひささんは微かに眉根を寄せる。私はまた不安になる。
「水柱様の容態は予断を許さないようです」
「え…」
「私は大丈夫だと信じています。鬼殺隊の医療技術をもってすればきっと助かります。ですが、名前さんが傍に居れば間違いありません。行ってあげてください。水柱様の元に」
「っ、はい!」
 衝動的に立ち上がり、私はそのまま屋敷を飛び出す。寛三郎さんが追いかけてきて、私の少し前を飛ぶ。道案内をしてくれるのだろう。
髪を結っている義勇さんに贈ってもらった髪留めに触れ、私は生まれたての朝の光の中を全速力で走った。